24
夕暮れの中、病院の玄関の前に車が横付けにされる。
「すいません、春夏冬さん。先に行きますっ」
彼女の返事を待たず、車が止まったのと同時に、おれは助手席のドアから飛び出した。
病室の場所は堀越から聞いていてわかっている。東側の病棟、305号室だ。
自動ドアをくぐり、そのままロビーを突っ切る。エレベーターの前まで来たけれど、下りてくるまで待つのがもどかしかったので、階段を駆け上がった。
頼む、母ちゃん!
おれが行くまで待っていてくれっ。
――が。
「あら、やだ。あんたまで来ちゃったの?」
はい……?
「帰ってからでよかったのに。まだバイト中なんでしょう? クビになっても知らないわよ」
血相を変えて病室に駆け込んできた息子に対し、母ちゃんは目をぱちくりさせて言ったのだった。
「あ、あのう。もしもし?」
わけがわからず、そう答えたおれ。力が抜けそうになった。
頭に包帯を巻いているものの、母ちゃんは元気そうだった。ベッドに体を起こし、膝の上には女性週刊誌。その横には父ちゃんが。
「おっ。将文、来たのか?」
などと言って、のんきな笑顔を浮かべている。
「なっ、なんで? 何がどうなってんだよ?」
状況がつかめず、あ然としていたら。
「ああ、つまりだな……」
ベッドの脇に座っていた父ちゃんがコホンと咳払いをした。
「いやあ、ははは。なんていうか。父さんのせいですまなかったな、将文」
「は、どういう意味?」
「どうもこうもないわよ! お父さんったらねえ」
話の途中で母ちゃんが割り込んできて、代わりに答えた。
「お母ちゃん、家の前をホウキで掃いてたの。お父さんが帰ってくるのが見えて、お帰り~と手を振ったのよ。それで気づいたら病院だったの。念のために一日入院だって」
なんじゃ、そりゃ。
意味わからん。
「それで? もちろん、こうなった原因があるんだよな?」
「おおありよっ」
母ちゃんの声が大きくなった。
「もう、腹立つのよ。聞いてよ、将文!」
「なんだよ?」
「お父さん、お母ちゃんにバレンタインのチョコ見せて自慢したのよっ。ひどいでしょう! ねえ、聞いてる?」
「聞いてるって!」
今度は父ちゃんが、ぐちぐち言い出した。
「父さんが悪かったんだよ。あわてて救急車を呼んだから……」
うん、やっぱね。そんなことだろうと思ったよ。
「その理由を訊いてんだぞ、おれは」
「先に母さんが怒りだしたんだ。そうしたら急に倒れて、そのとき頭を切ったみたいで血がドクドクと、ドクドクと――」
と青ざめる父ちゃん。今にも倒れてしまいそうだ。
なるほど。血を見たから、ひどく動揺したんだな。その気持ちがわからないでもないが……。
「いくら会社の若い子にもらって、うれしいからって。ひどいでしょう?」
母ちゃんが眉間にしわを寄せてうなる。
はあー、まいったなー。
とどのつまり、犬も食わない夫婦げんかが原因で母ちゃんが卒倒し、頭皮を切ったんだな。
ったく、人騒がせだっつーの!
そんな理由、桃ちゃんと堀越になんと説明したらいいのやら。
「あー、もう! 母ちゃん、落ち着けって――」
事態を収拾させようと、おれがそう叫んだとき、
「あ、あのっ!」
背後から誰かの声があがった。
「おっ、お取込み中のところ、すみません! お尋ねしますがっ」
「ん?」
親子三人して声がした方に視線を向ける。ベッドを囲っているピーチ色のカーテンの隙間から、桃ちゃんが顔をのぞかせていた。
どうも様子が変だぞ。声がうわずっていたし……。
「春夏冬さん?」
不思議に思って声をかけてみる。
すると、桃ちゃんはカーテンを払いのけ、一歩前に進み出た。
「ひょっとして、ほっ、星川歌野さん! じゃないですかっ? オケラヅカ歌劇団、男役トップスターだった……!」
ほしかわ?
オケラヅカ?
聞きなれない言葉とクエスチョン・マークが、おれの脳内をぴゅんぴゅん飛び交う。
「わたし、子供のときから大ファンだったんです!」
と感激して、目をうるうるさせる桃ちゃん。
「あら、懐かしい名前。久しぶりに聞いたわねえ」
母ちゃんが彼女に向かって、にっこり笑った。




