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花の香りに、鉄の臭いが混ざった。
グランが馬車に乗り込むと車体に仕込まれたサスペンションが不満を漏らすように重く軋んだ。
広々としていた車内がたった一人増えただけで狭く感じる。還暦を超えてなお鍛冶仕事で鍛え上げられたグランの肉体は、彼が鍛え続けてきた巨大な鉄の塊そのもののようであった。
「結婚されてたんですね」
混乱からどうにか一歩抜け出し、反射的に尋ねてからランタンはしまったと唇を噛んだ。混乱の中に浸かった片足が文字通りに足を引っ張る。
グラン武具工房は居住区を備えており、工房からだと扉一つ分の差でしかないが応接室よりも居住区の方が近い。グランの気分一つで商談用の応接室ではなく、居住区に通され茶をもてなされる事がある。
ランタンはそこに通されたことが何回もあったが、そこに女性的な気遣いの気配を感じたことは一度もない。男やもめ丸出しの机に積み重なった食器をランタンが流しに運んだり、見るに見かねて洗い物をしたこともあるほどに。
離婚したのかな、それとも。
結婚し子をもうけた夫婦が離れ離れに暮らす理由は深く聞いても面白いものではないだろう。離婚したならまだしも、もし死別しているとしたら車内の空気はこの上なく辛気臭くなる。それならばまだこの金臭さの方がマシだ。痒み止めの臭いと相まって、多少車酔いしそうな感じもあったが。
「……何を考えてるか知らねえが、別にあいつは死んじゃいねえぞ。ただ別居してるだけでぴんぴんしてるからな」
「ああ、そうなんですか」
ほっとしたものの、よかった、とは口に出さない。別居はいいことではないと思う。
「それで、その娘さんって」
「――坊主が契約した奴だよ」
契約書、そこにある署名をグランは確かめたのか。
「……でも、あれ? 名前は」
「エーリカだ。エーリカ・グラン・ヤニシュカ。気づかなかったか?」
それがランタンが口に出すこともない説明女の本名のようだ。
グラン武具工房親方職人グラン・グランとは似ても似つかないが正真正銘血の繋がった実子だそうで、初対面で自己紹介をされた時は第一姓であるはずの父姓を外しエーリカ・ヤニシュカと名乗ったとランタンは記憶している。
あんまり仲良くないのかな、と思いながらも顔には出さない。
「だって似てないし、ねえ?」
「うん、にてない」
「……あれにとっちゃ良いことだな」
苦手意識が先行してランタンはあまりエーリカ自体を注目して見ていなかったが、なかなか美人だったような気がする。グランに似なかったことは女である以上確かに幸運なことだったのだろう。グランに似たとしたらたとえ女であっても髭が生えそうだ。
「あれの仕事ぶりはどうだったよ」
「え、あー……真面目でしたよ」
ランタンは言葉少なげに明言を避けて曖昧な評価に終始した。印象を語るとなるとどうにも苦手意識による負のバイアスが掛かることは目に見えていたし、さすがに親の前で娘の悪口は言えなかった。
だがグランはランタンのお為ごかしのような言葉から、本音を掬い取ったようで苦笑した。
「それで、その真面目な娘さんに会いに行くって、何かあるんですか?」
「なけりゃ良いんだがな。――たぶんあれはなあ、坊主をどうにかしようとすると思うんだ」
「ど」
「どういうことですかっ?」
グランの言葉にリリオンが噛み付くように前のめりになった。今にもグランの胸ぐらを掴まんばかりに問い質すその剣幕は眉がキッとつり上がって凄味がある。だがランタンも、それを向けられるグランも平然としたものだ。
二人揃って、まあ座れ、と落ち着いた様子でリリオンを宥める。だがリリオンはまだ腰を下ろそうとはしない。
「だって……!」
「おすわり」
「……はあい」
リリオンが渋々腰掛けるのを見てグランが笑いを堪えながら口を開いた。
「別に嬢ちゃんから坊主を取り上げるような真似はしねえよ。ただあいつは、坊主に騙し討ちを食らわせるぐらいの事はするだろうなあ」
グランは事も無げに言ったが、その事に苛立ったのかリリオンは座ったもののむっと眉根を寄せてグランを睨んでいる。ランタンが宥めるように少女の背中をさすって首を揉んでやった。
首の筋肉が強張っていた。ぎりりと歯を食いしばっている。その歯の間にエーリカの首を思うように。
「あれは昔っから追い詰められると物の分別をなくしていかんからな」
「追い詰め……て、ないよ?」
エーリカに追い詰められたことのあるランタンは胡乱げな表情を浮かべてグランを見返す。
あの柔和な笑みを浮かべるエーリカに追い詰められるという言葉は不似合いだったし、そもそもエーリカを追い詰めた覚えはなかった。
「お、なんだ。結構高く買ってもらってるんだな、あいつ」
「だって契約書をご覧になったでしょう? あのオプションの数! 一方的にやられましたよ」
「ああ悪いな。だが悪気があってのことじゃねえんだよ。いやまあサービスを押しつけるってのはうまかねえんだが。……あれは坊主に最高のサービスをくれてやろうしただけだよ」
心の底から、それらを最高のものだと思っていたからこそ。
「でも、なんで僕なんかにそこまで」
「ランタンと仲良くなりたかったんだよ。商工ギルドは、エーリカは」
当たり前のように言ったグランに、ランタンははっとしてアーニェの言葉を思い出した。
アーニェは契約書を見せた時になんと言っていただろうか。
商工ギルドはあなたと仲良くしたいのよ、とそう言ってはいなかっただろうか。ランタンはそれを慰めの言葉だと受け取ったのだが、もしかしたらそれは真実だったのかもしれない。
説明女は真面目すぎる性格だからこそ馬鹿正直に、用意できる最高の商品を出し惜しみすることなくランタンに提示したのではないだろうか。それを誘導と感じたが、そしてそれを選んだのはたしかにランタンなのである。
商談を思い出す。
一方的にやり込められたとそう感じるのは緊張し空回っていたからではないか。商談を纏めることではなく、ただどうにか場を切り抜けよう、逃げだそうとしていたせいではないか。
ふて腐れる子供のように選択を放棄したランタンに、エーリカはランタンの望むとおりを叶えたのではないか。言葉の通じぬ獣の意思を汲み取ろうと努力して。
もしかしたらランタンの説明女に抱く感情は思い違いや、ある種の責任転嫁でもあるのかもしれない。
疑いを持って見れば、警戒を持って望めば、全てが黒く見える。
好意は時に裏もあるけれど、誰も彼もが悪意を忍ばせているわけではない。ランタンは少しばかり人の裏を見ようとしすぎるきらいがある。他人のことなど何もわからないくせに。
「な、なあに?」
ランタンは表裏のなさそうなリリオンを見つめて、はっとして驚いた表情のまま衝動的に少女の頭を撫でた。急に撫でられたリリオンは今までむくれていたのだが、すぐに顎を引いて頭を差し出す。
さらさらと前髪が揺れて額を擽り、リリオンは糸のように目を細めた。甘い息が漏れる。
この世は悪意に満ちているわけではない。
だが。
「僕をどうにかするって、なんで?」
「そう! そこよ!」
「リリオンうるさい」
撫でた手でぽんと叩く。
「うー……」
「前も言ったが商工ギルドは――」
迷宮を独占することによってほぼ一人勝ちの様相を呈する探索者ギルドの牙城を崩すべく、商人ギルドと職人ギルドの二大ギルドが一纏まりになるために設立されたという経緯を持つ。だがその内実は二大ギルドの調整機構でしかない。
商工ギルドを設立するにあたって二大ギルドから資金と人材が提供されているからだ。
結局商工ギルドは一纏まりではなく、ただ少人数の商人と職人を建物の中に生み出しただけとなった。水と油のように混ざらなかったのである。
そしてそれを打開するための人間がエーリカを含む十数名である。
「大抵は俺みたいに二つのギルドに所属してるんだが、あれは数少ない純粋な商工ギルドの人間なんだよ」
それ故にエーリカは調整機構などと称される商工ギルドの現状を、派閥争いを打開できない現実を憂いているらしい。大変ですね、とランタンはまるっきり他人事のように呟いた。
「まあ、あれが一人で頑張ったところでどうにもなるわけじゃねえんだが……」
「グランさんは手伝ってあげないの? ランタンを騙すのはダメだけど」
難しい顔をして髭を揉むグランにリリオンがそっと尋ねる。
「……職人ギルドにゃ職人ギルドでまあ色々あんだよ。俺らみたいな武器職人に探索者は上得意だしな」
人が三人集まれば三つ派閥はできると言う格言の例に漏れず、職人ギルドの中にもやはり派閥とやらがあるらしく、職人ギルドの中でも武器職人は商工ギルド否定派が多いようだった。
だがそれでもグランが商工ギルドに入っている理由は。
「でも実は娘さんが心配なので商工ギルドに加入したり、僕を嗾けたりしたわけですね」
ランタンは悪戯っぽくグランの逞しい二の腕を突っついた。
物凄く嫌そうな顔をされるがグランはむっつり黙り込んでいる。ランタンはにやにやと笑みを浮かべ、物凄く恐ろしい顔で睨まれたので咄嗟に口元を隠した。
こうして馬車に乗り込んだのはランタンに助言を施すためではなく、娘が一時の感情で過ちを犯すことを未然に防ぐためなのかもしれない。
親子なのに、と不満げな顔を隠そうともしないリリオンがランタンの言葉に表情を変えた。
グランにはグランの親方職人としての責任があり、責任は往々にして親子の縁よりも強い柵となる。感情的にはどうであれ、感情剥き出しに動くことのできないのが責任ある者の悲哀である。
「……なに笑ってんだよ」
「笑ってないですよ、ね?」
「ね」
むずむずする口元を隠して頷き合う二人に、グランは髭の中で呻き声のような悪態を吐き出した。
「でだ! あれは商工ギルドをどうにかしようとしている。そのためには骨子となるような企画が必要で、その内の一つが運び屋派遣業なんだよ。あれはこの企画を成功させようと躍起になっている。それで坊主の知名度に目をつけた」
グランはランタンを見つめる。太陽に目を焼かれぬように細めながら。
「いや、目が眩んだんだな、一目見て。坊主が商工ギルドに行ったのは偶然みたいなもんだし」
「仕向けたんじゃないんですか?」
「人聞きの悪いことを言うな。お前を操作できるやつなんざいねえだろうが」
そろそろ商工ギルドに近付いて、グランが指を二本立てた。
「考えられる企みは二つ。一つは無理矢理契約を続行させること。坊主が運び屋を使うだけでそれなりに宣伝効果があるからな」
「宣伝ねえ」
「もう一つは商工ギルドそのものに引き込んじまう。そうすりゃ無料で扱き使える」
「さすがにそんなのに引っ掛かるほど――」
ランタンが拍子抜けしたように呟くと同時に商工ギルドに辿り着き馬車が停車した。僅かに起こる揺れに言葉が途切れ、馬車の扉が開かれてしまったので言いかけた言葉を飲み込んだ。
「――せいぜい気を付けますよ」
そう言って降りようとしたランタンをグランが制し、何故だかリリオンを先に下ろした。リリオンはなにも疑問に思うことなく、ランタンの膝の上に向かい合うように跨がって、それから跨ぎきるとぴょんと馬車を降りた。
その軽やかな背中を見つめているとグランが耳元に顔を寄せた。
「簡単に契約書にはサインをするなよ。まだちゃんと字読めねえだろ」
「え――?」
「文字の上を目が上滑りしてることなんざ、一目見りゃすぐわかんだよ。――おら行け、降りろ」
驚き呆気にとられているランタンは無意識的に立ち上がったが脚は動かず、気合いを入れるようにグランに背中を叩かれ押し出された。オマケのように添えられた、迷惑掛けるな、の一言が虚しく響く。
背中の傷が痛みを全身に広げ、ランタンは踏鞴を踏む間もなく馬車から飛び出す羽目になった。
外には商工ギルドの建物があり、説明女ことエーリカの金髪があり、ランタンを待つリリオンの胸があった。近い、体勢を立て直す隙間がない。
「ぶ」
ランタンが鼻から突っ込んだリリオンの胸は残念ながら緩衝材の役割は果たさずに、さらなる痛みをもたらしただけだった。胸骨に打った鼻がむずむずする。ランタンは赤くなった鼻を啜った。
そんなランタンを見て笑みを浮かべたエーリカの表情が目に見えて凍り付いた。馬車からのそりと降りる親の姿を見つけて、まるで毛むくじゃらの魔物でも降りてきたかのように驚いていた。あるのは純粋な驚き。歓喜でも嫌悪でもない。
「なんで……!」
「何でって事はないだろう。俺も商工ギルドの人間なんだからよ」
「どういうこと!?」
キッと視線を滑らせてエーリカが御者を問い詰めるが元の顔形が優しげなのであまり迫力はないし、哀れな御者はそれよりも恐ろしいグランに言いくるめられているので困ったように笑っただけだった。混沌とした状況に笑うしかなかったのかもしれない。
ランタンは笑うどころではなかったが。グランの言葉が耳の奥で響いている。
ランタンは文盲であることを恥ずかしく思っている。
全く知らぬ地に放り出されるようにしてやって来て、文字が読めないことは当然のことで恥ずべきことではない。だがそれでも文明人としての余計な矜恃をランタンは捨てきれずにいた。
読めないことの当然を知っている人は己ばかりで、ランタンを評価する他者は、ランタンが文盲であると知ればそれをただの無学として見るだろう。他人なんて関係ない、とは己を守るための建前でしかない。
恥じながらも、どのようにして学習して良いかわからずに、目を逸らすようにして避けてきた現実を突きつけられた。
文盲であることを今の今まで隠し通せていると信じ切って振る舞ってきた己の過去を思い返して、沸き上がった猛烈な恥ずかしさと情けなさで消えてなくなってしまいたかった。
いつから――、と親子喧嘩をするグランを問い詰めたかった。それが八つ当たりであるとわかっていても。
だがそれをしない。ランタンを抱きとめたリリオンの存在があるから。
リリオンにはまだバレてはいない。それだけがランタンを支えた。せめてこの少女の前ではしっかりしていたい。
グランがリリオンを先に馬車から降ろしたのは、ランタンの子供じみて肥大化した自尊心を守るためだ。今だけではなく、今までもずっと。文字を読む振りをするランタンを笑った事なんて一度もない。
グランはランタンのオママゴトにずっと付き合ってきてくれていた。
ぶつけて赤くなった鼻を撫でて、大きく息を吸って心を落ち着ける。
落ち着け、開き直れ、と自己暗示を掛ける。反省と対策は後回し。戦闘時に痛みを無視するように。ランタンは奥歯を強く噛む。そうすると自然に口角が上がり笑みを作る。
グランは強い味方だし、その娘もたぶん悪人ではない。
グランに突っかかっているエーリカは説明女という呼び名の商売の鬼ではなく、ただのグランの娘であった。顔貌は似ていないが、こうして並んでいるところを見ると何故だか親子に見えた。
柔和な童顔を怒らせている様子は少しばかり子供っぽくも見え、それを腕組みしてあしらっているグランはちゃんと父親をしていた。
苦手意識がなくなったわけではないが、エーリカに対するその意識が少しだけ薄れた。
親子喧嘩に、とは言ってもエーリカが一方的に戸惑い驚いているだけであるが、口を挟むのも野暮だとは思ったのだがランタンは埒があかないので二人の間に割って入った。
「まあまあ、落ち着いてください」
それは自分に向けた言葉でもある。
エーリカは照れたように咳払いをして居住まいを正した。
「おはようございます、エーリカさん。お待たせしてしまったようで申し訳ありません」
エーリカは商工ギルドの前にいた。建物の中ではなく、外側でランタンたちを待っていた。ランタンが寄り道をしたせいで一向に現れる気配がなく不安になったのか、それとも生真面目にお出迎えをしてくれたのか。
「グランさんに同席をお願いしたいのですけれど」
よろしいですか、と繋げようとした言葉が横合いから殴りつけられたように吹き飛ばされた。リリオンがランタンとエーリカの間に割って入った。
「ランタンをどうする気!」
がるるるる、と涎っぽい唸り声を上げたリリオンがエーリカを睨み付ける。武器は工房に置いてきたが、指を貫手に揃えたリリオンの手は一般人を殺傷するに足る凶器である。探索者リリオンの闘気を真っ正面から浴びた商人エーリカがぶるっと震えて後退った。
ランタンにとってみれば子猫の唸りにも等しいリリオンの威嚇も、荒事に無縁な人間からすると虎のそれに匹敵するようであった。恐怖で混乱している。いい気味だ、とはグランの話を聞くともう思えなかった。
「こら、やめなさい。――ごめんなさい、大丈夫ですか?」
固まっているエーリカに安心させるような微笑みを向けて、ランタンはリリオンの襟首を掴むとぐいっと後ろに引っ張り足払いをした。体勢を崩したリリオンが後頭部からランタンの胸に吸い込まれ、優しく抱きとめられる。
その驚いた顔をランタンは覗き込んだ。上下逆さまの顔の中で、なんで、と淡褐色目が語りかけてくる。
「どうもされないから、落ち着きなって」
「……うん」
どうにもされないのは、グランの存在があってこそだ。今更ながら己の迂闊さにぞっとする。
これまで迷宮を攻略する度に、幾つもの書類に署名をしてきた。その数の分だけランタンは望まない契約を強制される可能性があったと言うことになる。署名を求めてきた相手がほぼ探索者ギルドと引き上げ屋の二つであったことが、ランタンを救ってきた。
一つは規則化された組織であるが故に、もう一つはその誠実な人間性によって。
人の裏を見ようとするくせに、用意された契約書には注意も払わなかった。詰めの詰めで人間の性善を信用しているのか、ただ暢気なだけか、はたまた浅慮なだけか。
きっと、これまでの巡り会いが恵まれていたからだろう。
「ん、ありがとうね」
ランタンは己のために怒る少女を優しく立ち上がらせた。
エーリカは恐ろしいリリオンが途端にふにゃりと顔を緩めたために、その落差についていけないようだった。目をぱちくりさせていて、リリオンが身体を直角に曲げて頭を下げるといよいよ狼狽した。
「ごめんなさい」
「え、いや、あの……」
「でもランタンのことをどうにかするって聞いたから」
心理戦も会話の応酬も、それどころか本当に企みが在るのかという真偽を確かめることもなく、まどろっこしい駆け引きを丸ごとすっ飛ばしてリリオンはエーリカの目をじっと見つめた。
直情的で単純な思考は往々にしてカモにされやすいものであったが、この場ではひどく効果的だった。
エーリカの頬がさっと血の気を失い、目が泳いで思わずグランに縋った。グランはエーリカをただ見守っている。己の娘がどのような行動に出るのかを。
「どうしてそういうことをするの?」
戦闘時、奇襲に優る先制攻撃はなく、第一にグラン、第二にリリオンの威圧を受けて混乱しているエーリカは第三波であるリリオンの純真無垢な視線に晒されて態勢を立て直す暇もなく呆気なく陥落したのであった。
それはエーリカが性善であることの証明のようでもあった。商工ギルド職員としての責任感や義務感が剥離した彼女は、ただ自らの在り方に身を任せる。
様々なものへの苛立ちがあり、情けなさがあり、疲労と安堵も。
そういった複雑な感情がぽろぽろとした涙に混ざって頬を濡らした。グランがエーリカの金の髪を揺らした。
大人の女の人が泣くのを初めて見たからもしれない。
エーリカの話を聞いても働くのって大変なんだな、と思うだけのランタンはその涙に言葉を失うばかりだった。エーリカの苦労は想像することもできなくて、ただ追い詰められるという言葉の意味だけを感じとるのが精一杯だった。
その衝撃も抜けきらぬままにランタンたちは商工ギルドの応接室に通された。契約時と同じようにお茶と茶菓子が出される。
前回は落ち着いて味わうことができなかったので、ランタンは唇を湿らせるようにちびちびとそれを味わっている。リリオンはランタンの皿からも茶菓子を掻っ攫い、それを口の中に放り込んでいた。
「食べても良いって言ったけどさ、一個は残しといてよ」
「これおいしい」
「それは良かったね。人の話聞いてないよね」
エーリカはさっぱりした様子で二人を見つめている。
一度泣いてすっきりしたのだろうか、ただでさえ柔和だと思っていた笑みがいっそう柔らかく優しげである。グランは、もう大丈夫だな、と言うと工房へ帰っていった。それはランタンに向けた言葉であり、娘に向けたものでもあった。
馬車使っていいかと娘に尋ねて拒否されたが、歩いて帰るグランの背中は大きく格好良かった。
「まだ沢山ありますので、どんどん召し上がってくださいな。毒なんか仕込んでありませんので」
ランタンはその冗談にぎこちなく笑った。
いい性格してやがる、と遠慮なく追加された茶菓子を口に含んだ。塩味の強いクッキーはさくさくしているが、あまり油っ気が強くなく口当たりが軽い。甘めの紅茶と合わせると無尽蔵に食べられそうだ。
だがいつまでも飲み食いをしているわけにはいかない。
目の前には、真っ当な契約書と小切手が用意されている。
戦利品は昨日のうちに全て鑑定が終了して、今は商工ギルド所有の倉庫に保管されていてこの場にはない。エーリカは現物と照らし合わせますかと言ってくれたが、ランタンはそれを辞退した。騙されかけたばかりであったが、エーリカを信用したのである。
と言うか鑑定額に文句がなかったのだ。
目の前の小切手に記入された金額は運び屋派遣サービスの利用料とその他諸々のオプション料、それと鑑定手数料をさっ引いたものであるのにもかかわらず、ちょっとばかり現実味がなかった。
ランタンもリリオンも思わず桁数を数えて、それから顔を見合わせて、取り敢えず再び茶を飲んだりしたのである。
「迷惑料とか入ってますか?」
「……お望みでしたら、私費から出します」
ランタンは慌てて首を横に振った。すると今度はエーリカが問う。
「鑑定額はご不満ですか?」
「いえ、それはまったく」
不満のない契約書に署名を躊躇う理由はない。
ランタンは契約書を読む振りもせずに署名をした。少し力が入りすぎて字が太く汚くなってしまった。エーリカはほっと胸を撫で下ろすと、ランタンに小切手を渡した。換金額が膨大であるために現金手渡しにはならない。
大ギルドなら可能ではあるだろうが、記入額の金貨を用意するのがまず大変だったし、渡されたそれを銀行に運搬するのもまた同様に大変である。小切手を銀行に持って行けば、そこに記入された金額を口座に入金してもらうことができる。望めば現金にもなる。
「ランタンさま、リリオンさま。当ギルドのサービスをご利用していただきありがとうございました。――今後、当サービスの継続利用などは」
「申し訳ありませんが、今のところは」
「そう、ですか。それは私の……」
「いや関係ないですよ。サービスも悪くはありませんでしたし。今回の利益もこれを上回ることはそうないでしょうし」
「後学のために理由をお聞かせいただいても?」
「それはまあ、僕の性格によるものなので。参考にはなりませんよ」
人見知りだ、なんて言えるわけがない。色々な恥を晒しているが、更に重ねることは躊躇われる。
その代わり今回の探索の雑感をエーリカには伝えた。良いところと悪いところ、ランタンの感じたのその全てを。
運び屋派遣業は悪いものではない。良いものだったと断言できる。まだ修正すべき点は多くあるが、それでも今回の探索の印象は良いものだった。
元探索者の受け皿としても機能するかもしれない、と言うようなことも。
「ちゃんと知ってもらえれば、充分に広まると思いますけど」
そう言って締めるとエーリカは困ったような顔つきになった。
周知不足。
それこそがランタンを企みに嵌めようとした理由だった。
悲しいかな商工ギルドの運営資金は火の車らしい。二大ギルドからの出資で運営費の殆どを賄ってはいるが、商工ギルドの現状にその出資も減額され、それ故に運営も粗雑になり、と負の連鎖に陥りつつあるようだ。
それでいて成果を求められるのだからたまったものではない。こっそりと教えてもらったが先日の荷馬車も、今回の馬車もエーリカの私費で賄われたようだ。
経営難から脱却するための運び屋派遣業だが、一人前の運び屋を育てるのには相応の時間と金銭を必要とし、探索者ギルドに張られた掲示物程度の広告費用を捻出するのに精一杯で、この企画自体も負の連鎖に巻き込まれつつあった。
その打開策がランタンそのものなのであった。
「ランタンさま」
エーリカが机に手を突いて頭を下げた。
「私どもと広告契約を結んではくださいませんか」
「嫌ですけど」
一刀両断。ランタンは逡巡もなく答えた。
上げた顔が諦めと悔しさを噛み殺して歪む。
「契約とかは嫌ですけど」
ランタンはその顔に何気なく言う。
「ちょっとお手伝いするぐらいなら良いですよ」
「本当ですか!?」
「ええ」
「でも、なんで」
信じられないとでも言うように丸い頬を押さえるエーリカにランタンは続けた。
「女性の涙に弱いので」
エーリカは頬を挟んだまま、まあ、と呟いて赤くなった。




