初めての……
「ハクチー、今から風呂に入るぞ」
「フロなに?」
ハクチーは言いながら、ちらりと朝倉を見た。が、すぐに視線をテレビへと戻す。
予想通りの反応だ。このホームレスは、今まで風呂に入ったことがないらしい。だが、これからは共に生活していくのだ。となると、もう少し清潔にしてもらわないと困る。
何より、ヤクザの経営する店に今のハクチーを連れて行けば、入口の時点で追い払われてしまう。まずは、中に入れるレベルまで持っていかなくては、有能な手駒も持ち味を発揮できない。
そんなことを思いつつ、朝倉は答える。
「風呂はな、体を洗うところだ。体の汚れが落ちるから、綺麗になるぞ」
「そうすれば汚くなくなるか?」
急に勢い込んで聞いてきたハクチーに、朝倉は困惑しつつも答える。
「へっ? ああ、そうだよ。風呂に入れば、汚い体が綺麗になる」
「わかった入る。すぐ入る」
「そうか。じゃあ、そこで服を脱いで待ってろ。今、湯加減を見てくるからな」
そう言うと、朝倉は風呂場に行き湯を沸かした。その最中、ハクチーの見せた圧倒的な強さに思いを馳せる。
あれは、もはや人間の領域を超えている。朝倉も、かつては役作りのためボクシングジムに通ったことがあった。そこで、プロの強さを間近で見た。プロボクサーのパンチの威力は、本当に凄いものだった。
しかし、ハクチーの強さは桁が違う。チンピラ四人を、ほんの数秒で戦闘不能の状態にしてしまった。しかも、本人は息も切らせていなかった。
この小さな体に秘められたパワーは、凄まじいものだ。どういう理由かはわからないが、このホームレスはプロの格闘家など比較にならない強さの持ち主なのだ。
あいつの強さを上手く活かせば、裏カジノよりも大きな場所を襲撃できるかも知れない。
いや、あいつなら田中健太郎を直接襲えるのでは?
そんなことを考えつつ、風呂の湯加減を見てみた。熱くもなく、ぬるくもない。となると、体温とほぼ同じくらいか。まあ、初めての入浴なら、これくらいがちょうどいいだろう。
朝倉は、風呂場から出てハクチーに声をかけた。
「おいハクチー……って! お前何してんだ!」
思わず叫ぶ朝倉。と同時に、慌てて目を逸らす。そこにいたのは、全裸の少女だった。
考えてみれば、ハクチーの声は少女のものと言われても違和感はない。目が大きく、ゆるキャラのようなトボけた顔つきではあるが、少女の顔と言われれば頷ける部分はあった。胸の膨らみは小さく、少年のような体型ではあるが、それでも注意すれば気づけたはずだった。
いや、そんなことはどうでもいい。まずは、この状況をどうするかだ。
「お前、さっさと服着ろ!」
目を逸らしながらも、朝倉は怒鳴りつけた。ハクチーは、明らかに不満そうな表情だ。
「さっきは服脱げ言った。今はさっさと服着ろ言う。どっち? なぜ脱いだ?」
ブツブツ言いながらも、ハクチーは再び服を着た。
一方の朝倉は、どうしたものかと考えた。このまま、風呂も入れずに生活させるわけにはいかない。
かといって、ひとりで風呂に入れるのは危険だ。この少女、中で何をするかわからない。石鹸をかじってみたり、シャンプーを飲んでしまったら大変だ。
その時、ひとりの人物が頭に浮かぶ。今までは、なるべく接触を避けてきた。しかし、こうなると仕方ない。
あの人物に、頼んでみよう。
「ハクチー、ちょっとここで待ってろよ。すぐ帰って来るからな」
「うんわかった待ってる」
そう言うと、ハクチーは座り込みテレビを見始めた。
朝倉はというと、家を出て丘を降りていく。足元はデコボコしており、うっかりすると転げ落ちてしまいそうだ。
・・・
もともと、この地域は海であった。
しかし、数年前にとある海外の企業が買い取り、埋め立て工事を始めたのだ。
そして、とんでもない構想が発表される。人工島での一大レジャーランド建設だ。中には遊園地や水族館や動物園、さらにはホテルや合法なカジノも建設される予定だ。港も併設され、船の直行便も予定されている。完成すれば、世界でも最大規模のレジャー施設となるであろう。
しかも、その施設があるのは日本だ。世界でも、治安の良さはトップクラスの国である。となれば、安心して遊ぶことができる。
もっとも安全な国にある、もっとも巨大な夢の島……当時、日本でも話題になっていた。完成すれば、日本にも巨額の富をもたらすであろう。既に島の周辺には、様々な店がオープンし始めていた。
この『夢の島』計画だが、まず先に作業員たちの寮や仮設住宅などを設置し、あとは本格的な建設に取りかかるだけ……という状態であった。
しかし、夢の計画ほ頓挫する。
きっかけは、周囲を突然襲った地震であった。震度は五弱であったが、幸いにも死者はでなかった。
しかし、夢の島を予想外の事態が襲う。地震のせいで地盤沈下が起き、地形がグニャグニャになってしまったのだ。まともに歩くことすら困難である。
外国企業による埋め立て作業に、何らかの手抜きがあったのかも知れない。あるいは、見通しの甘さがあったのか。一部からは「埋め立ての段階から、全てを日本企業に任せていれば、こんなことにはならなかった」という意見まで出る始末だ。
確かなことはひとつ。外国企業は、夢の島計画からは完全に手を引いてしまったという事実だけが残った。
だが、話はそれでは終わらない。
無残な夢の残骸に、住み着いてきたのはホームレスたちである。さらに、行き場のない少年少女や、警察および裏社会の人間に追われる者たちなどといった社会のはぐれ者たちが集まり、異様な集合住宅地帯ができあがってしまったのだ。
警察はといえば、見てみぬふりである。そもそも、この島の正式な土地主は誰なのか、それすらはっきりしていない。そんな場所に、警察も足を踏み入れようとはしなかった。
そんな場所に、朝倉は住んでいるのだ。
・・・
「あっ、どうも山野さん。朝倉です」
言いながら、朝倉はペコペコ頭を下げる。
そんな朝倉の前に立っているのは、恰幅のいい体格をした中年女性だった。髪は短く、いかつい表情をしている。年齢は六十を過ぎているだろうか。それでも、背筋は伸びているし足腰も衰えていない。
彼女こそ、この辺りの顔役・山野である。朝倉も、越してきた直後に挨拶をしたのだが、鋭い目で睨まれただけだった。
正直、この女とはかかわりたくない。だが、今は背に腹は変えられない状況である。
「で、何の用だい?」
「あの、実はですね……ちょっと問題のある少女がうちにいるんですよ」
「それで? あたしに何しろって言うんだい?」
「その少女に、お風呂の入り方を教えて欲しいんですよ」
「お風呂の入り方?」
さすがの山野も、予想外であったのだろう。ギョッとしている彼女に、朝倉は申し訳なさそうに語り続ける。
「はい。実は、その娘は……あの、親から捨てられた浮浪児のようなんです。生まれた時から今まで、まともな人が周囲にいなかったみたいで……」
「そうかい。だがね、あたしにゃあんただってまともな人には見えないよ」
言いながら、山野は朝倉を睨みつける。朝倉は、思わず目を逸らせた。
「えっ? あっ、いや、その……」
しどろもどろになる朝倉であったが、これは芝居である。この女の前では、とにかく情けない男を演じて情に訴えよう。そうすれば、なんとか助けてくれるはずだ。
その読みは当たった。
「まあ、いいや。とにかく、あんたの家に連れていきな。それから決めるよ」
「わかりました」
朝倉は頷いた。あまり他人を家に入れたくはないが、この際だ。仕方ない。
「ふうん、この娘かい」
家に入るなり、山野はハクチーを見つめた。一方のハクチーは、テレビの画面に釘付けだ。山野のことなど、見ようともしない。
山野は溜息を吐くと、今度ほ朝倉に視線を移す。
「あのさ……風呂もいいけど、服もひどいねぇ。あんた、この娘にこんなもの着させて平気なの?」
「えっ、いや、そういうわけでは……」
朝倉はうろたえたが、言われてみればその通りである。ハクチーの服は、確かにひどい。着古した、という言葉すら生ぬるいものだった。使い込んだ雑巾を、そのまま服の形にしたものを着ている状態である。もっとちゃんとしたものを着せてやらねば……。
今回は演技ではなく、本気でうろたえてしまった。
一方の山野ほ、フゥと溜息を吐く。
「せっかく風呂に入れても、この服着たらまた同じだよ。どうせやるなら、全部変えなきゃ」
そう言うと、いきなり外へと飛び出していったのだ──
「ちょっと! どこ行くんですか!?」
大声で聞くと、山野も大声で答える。
「この娘の着れそうな服と下着、持ってきてやるから待ってな!」
言うと同時に、丘を降りていく。足元はかなり不安定なのだが、山野はものともせず下へと駆けていった。
「あの人、すげぇなあ」
朝倉は、思わず苦笑する。だが、困っている人を見ると放っておけないタイプなのは確かだ。こちらとしては、非常にありがたい。
一方のハクチーはというと、騒ぎを無視しずっとテレビを観ていた。




