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28 それから①

 半年の月日が経った。暑い夏が終わり、季節は秋から冬へと移り変わろうとしている。

 リネン布のかかった木製のかごを手に、アリシアは修道院へ戻ってきた。午後から洗濯室の手伝いを頼まれているのだ。


(急がなきゃ)


 小走りで裏門を抜けて修道院の建物へ入ると、「アリシア」と弾んだ声で呼ばれた。声だけで誰かわかった。

 アリシアは笑顔で振り向いた。


「ヒューイ司祭様」


 近寄ってきたヒューイがニコニコしながら聞く。


「アーロのところへ行ってたの?」

「はい」


 兄の住む集合住宅へ行っていたのだ。かごの中には兄が仕事先でもらった栗と、ハリソンが焼いた小ぶりのクルミパンがぎっしり詰まっている。


 あれからたまに兄の部屋を訪れるが、そのたびに手厚い歓迎を受ける。兄は元々世話焼きで兄馬鹿だったけれど、ちっとも変わっていない。

 それに料理上手なハリソンもずっと妹がほしかったらしく、会うたびに美味しいご飯を作ってくれて、こうしてお土産までくれるのだ。


「ヒューイ司祭様もどうぞ」


 薄皮のついた栗と、美味しそうな焼き色のクルミパンを一つずつ渡すと、ヒューイは笑顔で受け取った。さっそくクルミパンをかじり、「美味い」と相好を崩す。


「美味しいですよね」


 わかってもらえたことが嬉しくて笑みを浮かべると、ヒューイが眩しそうに目を細めた。

 そしてアリシアの髪についた銀の髪飾りにそっと手を伸ばしかけて、ふと止まった。少し不安げというか遠慮がちな顔をして、手を戻す。そしていつもの明るい笑みを浮かべた。


 どうしたんだろう。

 実は兄たちの居場所を知っていると告白されてから、ふとした瞬間によくこういう顔をする。ほんの一瞬だけれど、それでもわかる。


 聞いてもきっと「なんでもないよ」と言われるだけだろう。それでも問うてみようとした時、


「ヒューイ様、いた! 何をさぼっているんですか!」


 目を吊り上げたラウルが走ってきた。


「夜には礼拝があるんですよ。いい加減にしてもらえませんか。――ああ、アリシアさん。こんにちは」

「……こんにちは」


 ラウルはアリシアに穏やかな笑みを向けてから、しまったという顔のヒューイを無理やり連れていく。


(まあ、また後で聞いてみよう)


 礼拝の準備をしなければいけないのだし。司祭様は忙しいなあ。

 アリシアは身をひるがえした。栗とクルミパンがたくさんあるからハンナとローザにもおすそ分けしよう、と考えながら歩いていると、小柄な修道士に呼び止められた。


「門番から伝言だけど、アリシアさんに会いたいという男が正門に来ているみたい。どうする?」

「誰ですか?」


 兄かハリソンだろうか。さっき会ったばかりだけれど。


「セオという人だよ。アリシアさんと同郷だと言っているみたいだけど」


 息を呑んだ。

 忘れかけていたのに、その名前を聞いたことで、まざまざと過去の記憶がよみがえった。


 故郷の町チェスターで結婚するはずだった相手である。けれど兄が戒律を犯して教会を追われたと知り、そのことを口外しない代わりに、結婚話を白紙に戻してくれと頼まれたのだ。

 アリシアはせめてもの希望を持って相手のセオを見つめたけれど、セオは決してアリシアに視線を向けなかった――。


 聞き間違いじゃなく?

 体の芯に冷たいものを突っ込まれた気分だ。けれど、きょとんとした顔の修道士がセオを知っているわけがない。

 気がつくと、アリシアは一礼して駆け出していた。


「『もし会ってくれるなら広場の入口で待っている』だってー!」


 修道士の声が後ろから追いかけてきた。



 アリシアは広場の入口へ向かった。喉が渇く。手の指先が冷たい。


 いた……。

 入口の石の階段に、地元の人たちに混じって居心地悪そうに腰を下ろしたセオの姿があった。


 セオはすぐにアリシアに気づいた。素早く立ち上がり、固い表情で手を振る。

 アリシアはゆっくりと近づいた。

 どうして来てしまったんだろう。

 自分でも不思議だ。けれどきっと小さなプライドのせいだろう。それが身を滅ぼすかもしれないのに。


「――久しぶり」


 セオの固い声に、アリシアは警戒しつつ頷いた。


「ベイクさんが、アリシアから手紙がきたと教えてくれたんだ。だから来てみた」


 ああ、と気持ちが落ち込んだ。三か月ほど前に、故郷のチェスターでアリシアが働いていた小麦倉庫の奥さんに手紙を出したのだ。チェスターにいた頃、よくしてもらったから。

 もちろん兄のことは書かず、アリシアがシャルド大聖堂で働きながら元気に暮らしている、とだけ記したのだが。


 そうだ。奥さんは兄の事情を知らないから、この結婚話がなくなった本当の意味を知らないのだ。だから悪気なくセオに教えたのだろう。


 しまった……。

 唇を噛んだが、すぐに思い直した。

 セオとの結婚話がなくなってから一年が経つ。今さら、どうもこうもない。ただの同郷の者に久しぶりに会っただけだ。笑って世間話をしてすぐに別れよう。そう思い、アリシアは懸命に笑みを浮かべて聞いた。


「本当に久しぶりね。元気だった?」

「ああ。――実は俺、もうすぐ結婚するんだ」


 全く予想していなかった会話に、思わずぽかんとしてしまった。セオが続ける。


「相手は隣町のサラスブルクの子だよ。姉貴の知り合いの妹なんだ」

「……そうなの。おめでとう」


 他に言いようもない。というか話の展開についていけない。

 セオは、唖然としているアリシアを見て、納得したように頷いた。そして、


「アリシアは? 今どうしてるんだ?」

「手紙に書いたとおり、そこの大聖堂で働いてるけど」

「そうじゃなくて」


 セオが焦れたように身を乗り出す。アリシアは思わず一歩引いた。

 セオは頬をこわばらせたが、すぐに薄い笑みを浮かべた。


「恋人はいるのか? もしくは結婚したとか?」

「えっ?」


 結婚はしていない。恋人……といっていいのかしら? ここ最近、前よりヒューイとの距離が開いたような気もするのに。

 考え込んでいると、セオが口元を歪めて笑った。なんだか嬉しそうに見える。

 なぜ? 

 けれど答えが出る前に、


「アリシア」


 と後ろから声がして、突然視界が薄闇になった。戸惑ったけれどよく知った声だったので、おとなしくしていた。すると、かすかに髪に触れる感触がした。


 首をひねって見上げると、それはヒューイの腕だった。背後からヒューイがアリシアの頭に腕を回し、そのせいで半ば視界が遮られたのだ。


 突然現れたヒューイに、セオが唖然としている。

 ヒューイはにっこりと笑って、指につまんだ糸くずを見せた。


「これがアリシアの前髪についていたから」

「あっ、すみません。ありがとうございます」


 あんなものが髪についていたとは恥ずかしい。けれどあんな黒い糸くずは、今日のアリシアの服装からは出そうにもないのに。

 ヒューイが笑顔でアリシアを見た。


「門番から、アリシアに変な男が会いにきた、と聞いたから。心配で来てみたんだよ」


 変な男呼ばわりされたセオの頬がこわばる。

 ヒューイは笑みを浮かべたまま、アリシアの髪についた銀の髪飾りに触れた。


「俺が贈ったやつをつけてくれてるんだね。嬉しいよ」

「えっ? あっ、はい……」


 困惑してしまう。いつものヒューイと違うからだ。特に最近は何かと遠慮がちだった。それなのに今は、まるで別人である。


 その様子を目の当たりにしたセオの頬が、だんだんとこわばりを増していく。

 そこでようやくヒューイがセオに視線をやった。


「ところで君は誰?」

「この人は――」


 アリシアが紹介しようとする声を素早く制して、


「俺はね、アリシアが好きで半年前に告白したんだよ。でも肝心のアリシアの気持ちがわからなくて、日々不安なんだ。想いは募るばかりで本当は結婚を申し込みたいと思っているんだけど、いい返事がもらえるかどうかわからないだろう。悩ましいよね」

「ちょっ……!」


 突然、何を言い出すのだ。驚き過ぎて言葉が続かない。

 そんなアリシアを、ヒューイが真面目な顔で覗き込んだ。


「だって事実だよ?」


 最初の言葉は確かにそうだけれど、何もこんな場所で、しかもセオ相手に言わなくても。

 驚きと恥ずかしさで頬がカッと熱くなったのがわかった。


 慌ててセオを見ると、セオに先程までの余裕はなく、狼狽したように体全体がこわばっていた。目元も口元も引きつっている。

 ヒューイがなおも笑って言う。


「ちなみに、俺はここの司祭だから」


 広場の奥にある、天に向かってそびえ立つ巨大な大聖堂を示す。セオの顔が驚愕に歪んだ。


「ここの!? 俺とそんなに年が変わらなさそうなのに……」

「俺、有能なんだ」


 アハハーと笑っている。とても適当だ。


 アリシアは戸惑って彼らを見比べた。ヒューイの言葉でセオがダメージを受けていっているのはわかるけれど、その理由がわからない。


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