27 兄
街の南東部に、背の高い集合住宅が立ち並ぶ地域がある。その中にある三階建ての屋根裏部屋が兄たちの住む部屋だという。
そこへ向かおうと、アリシアはヒューイと一緒に修道院の裏門を出た。
馬車で行こうと思っていたが、その必要はなかった。
なんと裏門を出ると、そこにたたずむ兄とその恋人の姿があったからである。
「……兄さん?」
驚いたアリシアが呆然とつぶやいた時、ラウルが走ってやってきた。
「ああ、アリシアさん。ようやく見つけた! アリシアさんに会いたいという男性二人がきていて――」
そこでアリシアたち四人が向かい合う光景に、拍子抜けしたような顔をした。そして心配そうな目でアリシアとヒューイを交互に見る。アリシアは言った。
「私の兄なんです」
「ああ、そうだったんですか」
納得した顔で頷くと修道院へ戻っていった。
アリシアは兄たちに向き直った。確かに会いに行こうと思っていたけれど、会えたことが予想より遥かに早くて頭がついていかない。
無言で立ち尽くすアリシアに、兄が深々と頭を下げた。
「アリシア、ごめん。逃げ出すように連絡もとらなくて、本当にごめん」
恋人――ハリソンも泣きそうな顔で頭を下げる。
「僕たちのせいでせっかくの結婚話がなくなったと聞いた。謝っても謝り切れないけど、ごめんなさい……」
「どうやって償えばいいのかわからなくて、合わす顔がなくて、ずっと逃げていたんだ。ヒューイからずっと説得されていたのに、俺が意固地になって聞かなくて……」
それでもこうして自分たちから会いにきてくれたのだ、とわかった。
アリシアは微笑んだ。
「いいの。もういいよ、兄さん」
謝らなくてもいい。
「私の方こそごめんね」
たった一人の家族なのに味方にならなかった。
「何を言うんだ。アリシアは何も悪くない。俺が全部悪いんだ。ごめん……!」
兄は頭を下げ続けたままだ。そしてハリソンも。二人の頭頂部が小刻みに揺れている。
アリシアは兄の前に進んだ。懐かしい姿に胸が震えた。
「兄さん、やっと会えた」
涙をこらえて兄に抱きつくと、兄が驚いたように目を見開いた。そして、
「アリシア……!」
顔をクシャクシャにして泣き、そして誰より愛しい妹をしっかりと抱きしめ返した。兄の体温が伝わってくる。
「ごめん。ごめんな……! ずっとずっとごめんな」
「もういいよ。兄さん」
微笑んで兄の背中を優しく叩く。
そしてその腕から離れて、隣に立つハリソンに向き合った。ずっと言わなければと思っていた。
「あの時、故郷のチェスターで、私ずっと黙っていました。あなたは私におめでとうと言ってくれたのに、私は何も言わなかった――」
言葉を切って笑顔になった。
「おめでとうございます。兄のこと、よろしくお願いします」
不安げな顔だったハリソンと、涙を手の甲で拭いていた兄が、同じようにぽかんとした。そしてすぐに、また泣きそうな顔をして、
「ありがとう……」
兄が笑みを浮かべ、ハリソンが頭を下げた。その肩はやはりかすかに震えていた。
兄とハリソンと並んで大聖堂前の広場を歩く。ヒューイは少し離れて後ろからついてきていた。
兄がアリシアに聞く。
「今の暮らしはどうだ? ヒューイからアリシアは元気にしているとは聞いていたけど」
「うん。元気でやってるよ。皆、優しいし」
「そうか。よかった」
兄が安心したように笑みを浮かべた。
兄とハリソンは、それぞれ鍛冶屋と靴屋の工房で働いているとのことだ。
「そうよね。日に焼けてたくましくなったもの」
「そうか?」
兄が自分の顔や首を触って笑う。その顔はアリシアが幼い頃、ずっと親代わりになって面倒を見てくれていた時と同じ顔だ。
アリシアも聞いた。
「今は街の南東部に住んでいると聞いたけど」
「ああ。そこの集合住宅の屋根裏だ。狭いけど、また遊びにきてくれ」
「いつでも歓迎するよ」
そう言って、ハリソンもにっこりと笑った。
その笑顔で思い出した。
「もらったスカーフ、本当にありがとう。すごく綺麗で、私にはもったいないくらい」
「そんなことないよ。あれは結婚式でつけてもらおうと思って選んだんだ――といっても僕たちのせいでなくなってしまったんだけど……」
「本当だよ……」
ハリソンと兄がまたも落ち込むので、アリシアは慌てて言った。
「もういいから。そのおかげでこうして今は大聖堂にいられるし、とても楽しいところだから。本当に気にしないで」
「――そうか」
笑みを浮かべているけれど、それでも兄たちの顔は晴れない。自分たちを責める気持ちは消えないようだ。
「あの、あれって本当に綺麗なスカーフよね。一緒に働いている女の子もそう言ってたし……あっ、そうよね。結婚式用だもの。――あれよ? 次に結婚する時に使うわ!」
元気づけようと焦ったせいで、思ってもいなかったことが口から出た。
アリシアは自身の笑顔がぎこちなくなったのがわかった。何を口走っているんだろう。結婚だなんて自分にできるとも思えないのに。
様子がおかしいアリシアに、途端に兄とハリソンが眉根を寄せた。
「どうした?」
「あー、いや……使える時はこないかもしれないな、と思って」
うつむくアリシアに、兄が目と口を大きく見開いた。
「何を言ってるんだ。アリシアは世界で一番可愛い女の子だぞ。そんなことあるわけがないだろう」
ものすごく真面目に言っているとわかる。昔から兄馬鹿だった。こちらは恥ずかしくなるくらいに。
それは今も変わっていないようだ。
そして兄より現実が見えているハリソンは、首を傾げて後ろを向いた。アリシアもつられて振り向く。
途端に、少し離れたところにいるヒューイと目が合って驚いた。ずっとアリシアの様子をうかがっていないと、こんな瞬間的に目なんて合わないだろう。
ハリソンがおかしそうに笑った。
「『使える時はこないかもしれない』か。そうかなあ?」
「えっ?」
「もちろんアリシアさんの気持ち次第だろうけど、向こうはそんなことないと思うよ」
と、確信を込めた口調で言った。
しばらく他愛もない話をして、
「じゃあ、そろそろいくよ。またな、アリシア」
「いつでも遊びにきてね」
兄とハリソンが手を振って帰っていった。
辺りはすでに薄闇に包まれている。広場の石畳とぐるりと並ぶ石柱が、濃い藍色の中で白くぽっかりと浮いていた。
同じく兄たちを見送ったヒューイに、アリシアは向き合う。すると真面目な顔で「ごめん」と頭を下げられた。
謝られてばかりだ。苦笑すると、ヒューイが顔を曇らせて言った。
「アーロの居場所を知っていて、ずっと黙ってた。本当にごめん」
「いいんです。というか兄が黙っていてくれ、と頼んだんでしょう?」
「それでも。ごめん」
アリシアは笑って言った。
「もう謝らないでください。ヒューイ司祭様がいなかったら、私はここにはいませんから」
知り合いも知っている場所もない街で、今頃何をしていたかわからない。それに、こうして兄にも会えなかっただろう。
「ありがとうございます。感謝してます」
もう一度笑う。顔を上げたヒューイが、そんなアリシアを見て眩しそうに目を細めた。
二人で広場を並んで歩く。初夏といえど夜はグッと気温が下がる。思わず体を震わせると、ヒューイが焦った顔で、自分の着ているローブの胸元をつまんだ。
「寒いよね。これしかないけど、よかったら着る?」
「いいえ。大丈夫です」
確か前もこういうことがあった。懐かしく思い出していると、ヒューイに聞かれた。
「最後、アーロたちと何を話してたの?」
ヒューイと目が合った時のことだろう。しかし言いにくい。口ごもりつつ話す。
「えっと……私の結婚の話です。もらったスカーフを次の結婚式で使うわ、と思わず口走ってしまったんですけど、そんな時はきっとこないなあって……」
ハハ、と力なく笑う。
しばらくして、「アリシア」と呼ばれて顔を上げた。ヒューイがやけに真剣な顔をしていた。
「俺、前にアリシアを『妹みたいな存在』だと言ったよね?」
「覚えてます」
ものすごく覚えている。
「でも今は『妹』じゃない。いや、今というか、結構前からだけど――」
言いにくそうに言葉尻を濁す。それでもはっきりとした口調で続けた。
「今は女性として意識してる」
アリシアはぽかんとした後で、その言葉が徐々に頭に染み込んでいくのがわかった。同時に頭に血が上る。頬が熱い。
「あ、あの、その――」
心臓の鼓動が速い。
「あ、ありがとうございます」
気がつくと、そう言って頭を下げていた。
違うわ。こういう返事をしたらおかしいじゃない……!
慌てて何か言おうと口を開きかけたが、目の前でヒューイが優しく微笑んでいたので、ゆっくりと口が閉じる。
「うん。覚えておいて」
ヒューイが笑って言った。




