25 真実①
アリシアは右の塔を抜けて、回廊から中庭へ出た。一面の芝生に日射しがさんさんと注ぎ込む中庭は、修道士たちにとっての憩いの場でもある。
緑の芝生を眺めて心地よい風に吹かれていたら、張り詰めていた気持ちがほぐれて、だんだんと気分が落ち着いてきた。そして考えが巡った。
そうだわ。まずハンナのところへいこう。聞いて確かめよう。
そう思ったアリシアは一目散に筆写室へと走った。
図書室を抜けて奥のドアをノックする。相変わらず誰の返事もない。それでもそっとドアを開けると、猫背でひたすら手を動かす黒ローブの後ろ姿に混じって、長い金髪が見えた。
「ハンナ、突然で悪いんだけど聞きたいことがあるの。教えてもらえる?」
机の横へ行き、声を潜めて頼む。ハンナがゆっくりと顔を上げた。
「ハンナの出身地はどこなの?」
ずばり聞いた。突拍子もない質問かなと思ったけれど、さすがはハンナだ。疑問に思っている様子もなく普通の態度で答えてくれた。
「サラスブルク」
まさかという思いと、やっぱりという思いとが交錯する。
でもシャルド周辺の街だもの。サラスブルクからシャルドへ出てくる人は多いはずよ。
自分に言い聞かせて、そして唾を飲み込んでもう一度聞いた。
「名字は……なんていうの?」
「ミルズ」
あまりにあっさりと言われたので、しばらく思考が停止した。
ミルズ。その言葉を頭の中で転がす。
やっぱり、という苦い確信のようなものがゆっくりと喉元をのぼってきた。
「……そう。ありがとう」
力なくお礼を言うアリシアに、ハンナはやはり疑問に思うことなく再び筆を取った。面食らったような顔をしているのは、隣の机の修道士だ。
アリシアは現実味のないふわふわとした足取りでドアに向かった。
筆写室を出て、重い体を引きずりながら階段を上る。
混乱しているけれど、頭のどこかがひどく冷静だ。
アリシアとハンナと、そして辞めた子。三人とも同じ年くらいで、出身地が近くて、名字はミルズ。
どういうことなの……?
シャルドへ働きにきた者たちは多い。その中でわざわざヒューイが選んで雇ったのだ。そこに何の意味があるのか。
……わからない。
考えてもわからない。けれど偶然ではないはずだ。
階段を上った先に、塵一つ落ちていない廊下が伸びる。その奥は告解室だ。アリシアが二度、相談役を務めた場所。
告解室――。
「……!!」
そこで雷に打たれたように思い出した。
あの貴族のお姉さんだわ!
女優のタニアをどこかで見たと思ったのだ。
二回目の悩み相談に訪れた綺麗な女性。妹が石工と結婚して、親と妹どちらを選ぶか悩んでいた女性。
格子越しだったし、顔の印象がまるで違う。派手で目立つ顔立ちのタニアとは違い、控えめなお化粧をした品のいい顔立ちだった。けれどスッととおった鼻筋から唇、あごへと続く美しい線がそっくり同じだ。
そう。顔の印象が違うだけで、同じ顔ではないか。
動揺しつつ、思い返す。
でもあの人は赤毛だったわ……。
タニアは黒髪である。かつらをかぶっていたのか。
それに今思えば、二人の話し方にも通じるものがある。声も口調も全く違うけれど、それでも微妙なイントネーションが一緒だった。それに小さくてもよくとおる綺麗な声。
タニアの声をどこかで聞いたことがあると思ったけれど、あの女性の声なのだ。
……どういうこと?
心臓がバクバク言っている。
似ているだけで別人なのか。それともやっぱり本人なのか。
いや、昨日街で、タニアは平民から女優になったと聞いた。やはり別人だ。
それにタニアは女優である。自分と全く違う人物を演じるのはお手の物だろう。
二人が同一人物だと確信して、またもや疑問が湧く。どうしてタニアは嘘をついてまで、あの貴族の女性を演じたのか。
わざわざ大聖堂を訪れてまで。仲のいいヒューイに会いにきたのか――。
そこまで考えてハッとした。
貴族の女性があの悩み相談をしてきたから、アリシアは兄への本心に気づいたのだ。大事なのは自分の気持ちより、ずっと育ててくれた兄だと。
そうだ。あの時もヒューイが廊下で相談内容を聞いていた。告解室から出てきたアリシアに微笑んで言ったではないか。「よく言った」と。
何に対してなのか。
決まっている。それは――。
「アリシア」
と背後から声がかかった。
振り返らなくても誰の声かわかった。
呼吸を整えてからゆっくりと振り返ると、そこにはアリシアを捜しにきたヒューイの姿があった。
「突然出て行くからびっくりしたよ。何かあったのか?」
遠慮がちに聞く。きっとアリシアが青ざめて幽霊でも見たような顔をしているからだろう。
それでも何も答えないアリシアに、ヒューイの顔が曇った。
「本当にどうしたんだ? やっぱり体調がよくないんじゃないのか?」
やめて。そんな顔をしないで。
咄嗟に強く思い、気がつくと口を開いていた。
「ハンナの――」
「うん?」
「ハンナの前に雇っていた女性がいたんですね」
ヒューイがかすかに目を見開いた。
かすれた声で続ける。
「ハンナではなく、その子が悩み相談や修道士さんたちのお手伝いをしていたんですね」
アリシアと同じことを。
ヒューイは黙っている。なんと言おうか考えているように見えた。
取り繕われるのは嫌だ。たまらなくなってアリシアはそれより先に言葉を発した。
「それにタニアさん――」
「えっ、何?」
「タニアさんは、妹さんの悩み相談にこられた綺麗な女性とそっくりです。……同じ人です」
ヒューイが息を呑み、そして大きく息を吐いた。
その様子を見ていて、やっぱりそうか、と痛感した。
アリシアは静かに告げた。
「……ヒューイ司祭様は、私の兄アーロを知っているんですね」
そしてアリシアがその妹だということも。
だから最初に会った時、「聞き間違えた」と嘘をついてまで雇ってくれたのだ。
そう言えばあの時、一緒にいた少女ミアに対して「アリシア・ミルズよ」と自己紹介した瞬間、ヒューイと目が合ったことも思い出した。
ともすればヒューイの顔から目をそらしたくなるのを堪えて、まっすぐ見つめた。
ヒューイがゆっくりとうつむく。右手で前髪をくしゃくしゃと触り、そして顔を上げた。
「そのとおりだよ。前からアーロを知ってた」
やっぱり。
思わず両目をぎゅっと閉じる。
「アーロがいたサラスブルク教会とは、以前から交流があった。俺は司祭になる前は他の教会との窓口担当で、アーロとは年も近いから、たまに会うだけだけど仲良くなったんだ。だからシャルドの修道士から、アーロが戒律を犯して姿をくらましたと聞いた時は驚いたよ」
「……それで私のことも?」
「妹がいる、とだけ。詳しいことは何も知らない。ただ両親が幼い頃に亡くなって二人きりの家族だ、とは聞いていた。アーロが妹のことをとても大事にしていることも伝わってきたよ。
だからアーロが教会を追い出されて姿をくらましたというなら、さぞや妹のことを心配しているだろなと思った。それで友人の俺がせめてできることは、その妹を捜して安全な場所へ導くことくらいかなと」
髪を触ったまま力なくアリシアを見て、苦笑した。
「でも俺、肝心の妹の名前も詳しい故郷の地名も聞いていなくて。アーロのいたサラスブルク教会に問い合わせてみたけど、同業者とはいえ戒律違反を犯した者のことは教えてくれなかった。
だから俺がアリシアについて知っていたことは、名字がミルズであること、妹とは六、七歳離れていること、そしてシャルド周辺の出身である、ことだけだったんだ」
だから、ハンナと辞めた子を雇ったのだ。
アリシアはかすれた声で聞いた。
「私が都市シャルドに働きにくると、なぜわかったんですか……?」
「確信はないよ。ただアーロのことで地元には居づらくなるだろうな、とは思った。そうしたら誰も知らない大きな街へ行こう、と考えるかなと」
そうか。だから一番近い大都市シャルドなのだ。
ヒューイが目を伏せた。
「でも正直、自信はなかった。妹がシャルドへくるかどうかもわからないし、俺が街をどれだけ歩き回っても偶然会う確率なんて少ないから」
申し訳なさそうに笑う。
それでも捜してくれたのだ。街の北の端にある工房街にまで足を運んで。
そして、それらしい女性を片っ端から雇った。
胸が詰まる。
兄を失って、結婚話も破談になって、一人ぼっちになったと思っていたけれど、そうではなかった。心配してもらっていたのか。気づかないところで。




