第8話 鉄の女のほころび
謁見の間を後にしたラヴィーネは、足早に歩きながら、何度も自分の額を押さえた。
「……私は、何をしているの……?」
その声は、誰にも届かないほど小さく、震えていた。
幼い頃から叩き込まれた忠誠、規律、誇り。帝国騎士として「お上の命令は絶対というのが、彼女の生き方だった。
それなのに、よりにもよって、帝国の頂点に立つ皇帝に、進言、いや、反論などもってのほか
「ありえない……そんなこと……」
ラヴィーネは壁に手をついて立ち止まった。
冷たい石の感触が、少しだけ現実に引き戻してくれる。
謁見の間での自分の言葉が、何度も脳内で反響する。
――恐れ多くも、陛下に進言申し上げます
「……私は、何を言っていたの……?」
なぜ、あの男のために、ここまでのことをしでかしたのか。
騎士同士の一対一の誇りを穢す、許されざる行いをしてしまったことの償いなのか?
それは間違いない。
しかし、それだけではないのも間違いない。
「……アマンス……」
その名を口にした瞬間、胸が軋んだ。
彼は、敵だった。 バニシュ王国の騎士。 彼女の仲間を斬り、帝国の兵を殺した男。
――カノ
アマンスは否定した。
そんなことは決して口にしていないし、自分には前世だとか何のことか全く分からないと。
だから、自分の聞き間違いだったのだと言い聞かせた。
「……違う。彼は、大翔じゃない。アマンス。敵」
そう言い聞かせてながら、また頭を抱えた。
「なのに、私は何をしているというの……一体、何を……」
気づけばラヴィーネは帝都の軍司令部に戻っており、施設の中庭の椅子に腰を下ろして悶えていた。
「……そう、これは……」
ラヴィーネは、ゆっくりと目を閉じた。
「……これは、せめてもの償い」
強引に、そう結論づけることでしか、今の自分を保てなかった。
そんなラヴィーネの姿に、部下の騎士たちも未だに戸惑っていた。
それほどまでにラヴィーネが皇帝へ進言したことは大きなことだったからだ。
そんな中で、その空気を壊すようなひときわ軽やかな足音が混じった。
「いやぁ、それにしてもさっきはびっくりしたねー」
声の主は、ミリア・クローデル。栗色の髪を肩で揺らしながら、陽気な笑顔を浮かべて歩いてくる。まだ入隊して半年の新入りで、年齢はカイルと同じ十五歳。小柄ながらも俊敏な動きと、鋭い観察眼を持つ少女だった。
「ミリア……」
カイルが振り向く。
「隊長、皇帝に進言しちゃったんだよ? あれ、ちょっと痺れたよね」
「……痺れたって、お前……」
カイルが呆れたように言うと、ミリアは肩をすくめて笑った。
「だって、いつも鉄の仮面みたいだったじゃん。だけど今日の隊長、なんか……人間味あったっていうかさ。 あんなに堂々と進言してたのに、今は人目も気にせず自己嫌悪してるし。……むしろ、ちょっと好きになったかも」
その言葉に、カイルが目を丸くする。
「え……今の……あの隊長の姿が?」
「うん。まあ、前から『かっこいいな』とは思ってたけど、今日のは別格だった」
そう言って、ミリアはどこか嬉しそうに微笑んだ。
その言葉を聞いて皆が思わず言葉を失うが、少し間をおいてレオニスも苦笑して頷いた。
「確かに……そうかもしれないな」
「副長……」
「隊長は、ずっと帝国のために戦ってきた。命令に忠実で、誇り高くて。俺たちにも真剣で厳しい『鉄の女』だった……でも、何かあの瞬間から変わったと思う」
ラヴィーネは、まだ頭を抱えたまま動かない。
ただ、そんなラヴィーネの姿にレオニスは……
「ミリアの言う通り、なんだか……初めてあの人の人間らしい姿を見た気がして、俺もちょっと嬉しかったよ」
そう言いながらレオニスは手に持っていた紙の束と共に、項垂れているラヴィーネに近づいた。
「隊長、失礼します。報告書が届いております」
ラヴィーネは、ゆっくりと顔を上げた。 その瞳には、まだ迷いが残っていた。
「……報告を」
レオニスは、手にした書類を開きながら、落ち着いた声で語り始める。
「バニシュ王国の戦後処理、第二王子セファンは、帝都の中央監にて厳重に拘束中。尋問には応じておらず、沈黙を貫いています。一方、第三王女アリシアは南部の要塞にて隔離されておりますが、彼女の存在が現地の民衆の間で『慈悲の姫』として語られ始めているようです」
ラヴィーネの目が鋭くなる。
「……慈悲の姫?」
「はい。王女アリシアは、戦時中に負傷兵の看護や民の避難誘導に尽力した記録が残っており、特にフェルノア地方では『慈悲の姫』と呼ばれています。 彼女の処遇次第では、民衆の感情がさらに過熱する恐れがあります」
ラヴィーネは、報告を聞きながら深く息を吐いた。
「……民の象徴がアマンス以外にも複数存在するということね」
「その通りです。加えて、一部の元王国兵の動向も不穏です。アマンスの名のもとに、各地で残党兵が再結集を始めています。特に西部の山岳地帯では、元騎士団の幹部クラスが集まり、『王国再興軍』と名乗る組織が形成されつつあります」
「王国再興軍……」
「彼らは、帝国軍の補給路を狙った襲撃を繰り返しており、現地の駐留部隊では対応が追いついていません。また、アレスト、グランディアの都市では、民兵による蜂起が発生。帝国軍が鎮圧に当たっていますが、民衆の間では『アマンスが生きている限り、希望はある』という噂が広まり、士気が異常に高い状態です」
ラヴィーネは、目を細めながら空を見上げる。
「……止まらないわね」
「ええ。帝国の勝利は確かですが、統治はまだ始まったばかりです。民の心は、剣では縛れません」
レオニスは、少しだけラヴィーネの顔を覗き込んだ。
「隊長。俺たちは、あなたの背中を見てここまで来ました。だから、今どんなに迷っていても……俺は、あなたを信じます」
ラヴィーネは、静かに目を伏せた。
今、彼女は帝国の英雄として、揺れていた。
するとラヴィーネがゆっくりと立ち上がる。
その動きに、周囲の騎士たちが一斉に視線を向けた。
レオニスが一歩前に出て、声をかける。
「……隊長、どちらへ?」
ラヴィーネは、抑揚のない声で答えた。
「……アマンスと少し話をしてくる」
その言葉に、空気が一瞬止まる。
「お供いたします」
レオニスがすぐに申し出るが、ラヴィーネは首を横に振った。
「いい。二人で話したいことがある」
それだけを告げると、彼女は背を向けて歩き出した。白銀の髪が揺れ、鎧の音が静かに響く。
誰も、彼女を止められなかった。
その背を、騎士たちはただ黙って見送る。
「……隊長、あんなふうに『話したいことがある』なんて……」
すると沈黙の中、ミリアがぽつりと呟いた。
「……なんだか恋煩いみたいだね~」
その瞬間、周囲の騎士たちが一斉に振り向いた。
「んん?」
「……は?」
「今、何て言った?」
ミリアは、少しだけ肩をすくめて笑った。
「いや、冗談だってば。そんな顔しないでよ。……でも、ちょっとだけ、そう見えたでしょ?」
騎士たちは、真顔のまま沈黙する。
「……いや、まさか……」
「……いやいやいやいや」
「……でも、あの隊長が『二人で話したい』って……」
「……『恋煩い』……?」
「……いや、ないない。絶対ない。……たぶん」
騎士たちは、ざわめきながらも、どこか否定しきれない空気を漂わせていた。
レオニスは、そんな部下たちを見ながら、ふっと笑った。
「……まあ、何にせよ。隊長が人間らしくなったのは、悪いことじゃないさ」
その言葉に、誰も反論しなかった。




