第15話 捕虜と看守
臭い。汚い。空気が悪い。
帝都の地下牢は、帝国の威光とは程遠い場所だった。
石壁には苔が生え、湿気がこもり、空気は重く淀んでいる。
そんな場所に、煌びやかなドレス姿の姫が足を踏み入れた。
宝石の髪飾りが揺れるたびに月光を反射していた。
その姿は、まるで舞踏会から迷い込んだ貴婦人のようだった。
「……え?」
最初に声を漏らしたのは、入口近くの若い看守だった。
「なんだ……また、ラヴィーネ隊長が……んん?」
「ちょ、ちょっと待て……あれ、姫様じゃないか?」
「は? 姫様? こんな場所に来るわけ――」
「いや……間違いない……!」
「うわ、マジだ……なんで姫様が監獄に……!?」
看守たちは慌てて姿勢を正し、直立不動になった。
誰もが顔を青ざめさせ、目だけで互いに確認し合う。
「ふふ……臭いですわね。まるで豚小屋」
そう言いながらも、セラフィナはまるで箱の中にどんなオモチャが入っているのかを楽しみにする子供のような笑顔を浮かべていた。
ラヴィーネは黙ってその隣を歩く。この異常事態に、彼女の心は静かにざわめいていた。
「まだ奥なのね……あら? 何か聞こえますわね」
二人が奥へと進むと、地下牢の奥から騒がしい声が聞こえてきた。
笑い声。叫び声。何かを叩く音。
それは一人二人ではなく、複数人の男たちがやけに楽しそうに盛り上がっている声だった。
「……!」
ラヴィーネは、足を止めた。その声に、聞き覚えがあった。
(まさか……)
先日、捕虜をいたぶっていた看守たち。
その声と笑い方が、あまりにも似ていた。
そして、次の瞬間――
「うっわ! お前それ、マジでやる!?」
「ぎゃはははは! アマンスに容赦ねえ!」
「おい、アマンス、お前もこれまでだ!」
「そうそう、頭下げるなら許してやるぜ!」
ゲラゲラと笑い転げる看守たちの声が、石壁に反響していた。
何かを机に叩きつける音。
椅子を蹴るような音。
叫び声と罵声が飛び交い、まるで喧嘩でも始まったかのような騒ぎ。
ラヴィーネは、顔を強張らせた。
(……まさか、アマンスが……!)
ラヴィーネは駆け出した。
セラフィナも、興味深げにその後を追う。
そして、そこで目にした光景は――――
「げ……げえ!? ちょっと待て、何でそこからこんなカウンターができるんだよ!」
「クソー! また負けたー!」
「アマンス、ツエー! この手札でどうやって勝つんだよ!」
「お前、また罠カード伏せてただろ! ずるいって!」
そこには、先日の看守たちが数人。
そして、檻の向こうでアマンスが向かい合っている。
床の上には、手作りの盤面とカード。サイコロが転がり、紙の駒が跳ねる。
看守の一人が頭を抱え、別の一人が椅子を蹴って悔しがる。その様子は、まるで戦場の緊張など知らぬ少年たちの遊び場だった。
「……は?」
ラヴィーネは、足を止めたまま、すっとんきょんな声を上げてしまった。
「……何……コレ」
流石のセラフィナも、この予想外の光景に扇を口元に当てたまま、ぽかんと目を見開いていた。
もし、扉の外から声だけを聞いていたなら、誰もが「捕虜をいたぶっている」と思っただろう。
だが、実際にはその捕虜が、看守たちを手玉に取っていた。
アマンスは、カードを並べながら淡々としていた。
いったい彼らは何をしていたのかというと……
「……戦紋盤?」
セラフィナがぽつりとつぶやいた。
アマンスと看守たちがやっていたのは『戦紋盤』。 最近、帝国中で流行している戦略型の盤上遊戯。 兵士や魔導士、騎兵などの駒カードを使い、魔紋と陣形を組み合わせて戦う、軍略と魔法が融合した知略の遊び。
本来は専用の盤と駒があるが、紙と筆があれば誰でも簡易版を作れるため、庶民の間でも広く親しまれていた。
一方で、帝国軍の軍師たちはこのゲームを訓練に取り入れ、戦場での思考力や陣形判断を鍛えているという。
「このターンで幻影騎兵を左翼に展開して、魔紋・風裂を重ねる。それで、そなたの炎盾兵は包囲されるわけだ」
アマンスは、淡々と説明しながらカードを置いた。 その動きは滑らかで、まるで盤上の兵たちが彼の意志で動いているかのようだった。
「うわっ、マジかよ! それで俺の本陣が丸裸じゃねえか!」
「くそっ、また罠かよ! この人、読みが深すぎる……!」
看守たちは頭を抱え、悔しがりながらも笑っていた。その様子は、囚人と看守という立場を忘れた、ただの戦紋盤仲間だった。
その盛り上がりぶり、集中ぶり、それは英雄ラヴィーネと皇女セラフィナがそばに居ることに気づかないほどのものであった。
「あ~……コホン」
流石にいつまでもこのままでいいはずがない。
ラヴィーネの咳払いが、地下牢の空気を切り裂いた。 看守たちは一瞬だけ顔を上げるが、まだ状況を理解していない。
「あ~、ラヴィーネ隊長に姫様ですか。少々お待ちを。もう一度だ、リベンジマッチだ!」
「アマンス、次こそは勝つからな! 本陣落としてやる!」
「おい、誰か紙と筆持ってこい! 盤面拡張だ!」
看守たちは一度ラヴィーネたちに振り返るも「後にしてくれ」と、そのままアマンスに向き直り、勝負の続きを始めようとした。
その瞬間、
「……ん?」
一人が違和感に気づいた。
「……あれ?」
もう一人が首を傾げる。
「……え?」
三人目が、ゆっくりと振り返る。
ギギギギギ…… まるで油の切れたブリキの人形のように、全員がぎこちなく首を回し、ラヴィーネに気づく。
そして同時に、そのラヴィーネの隣に立つ人物を見た。
「……皇女……セラフィナ様……?」
最初に気づいた看守が、震える声でそう呟いた。
その言葉が引き金となり、まるで雷が落ちたかのように、全員の表情が一斉に変わった。
「えっ……ええええええええええっ!?」
「うそ……なんでここに……!?」
「まさか……本物……!?」
驚愕が連鎖し、全員が一瞬硬直する。
そして次の瞬間、まるで爆発したかのように、看守たちは跳ねるように後退した。




