第10話 大した存在ではない
アマンスとの会話を終え、ラヴィーネは静かにその場を離れた。
鉄格子の前から背を向け、重い足取りで地下牢の通路を進む。
彼の言葉が、まだ胸の奥で響いていた。
――どういう関係になりたいのか?
その問いは、鋭く、深く、彼女の心を突き刺していた。
だが、答えはまだ見つからない。
帝国の英雄として、騎士として、そして一人の人間として自分は、何を望んでいるのか。
そのときだった。
「……やめろ! やめてくれ!」
「黙れ、王国のくそが!」
地下牢の奥から、怒号と悲鳴が聞こえた。
ラヴィーネは足を止め、眉をひそめる。
通路の先には、将であるアマンスとは違い、何十人もの一兵卒たちが収容されている牢屋が並んでいた。
その前には、帝国兵たちが看守として立っていた。
いや、立っているどころか、捕虜たちを殴り、蹴り、罵倒していた。
「ッ! な……何をしている!」
ラヴィーネの声は、冷たく鋭く一喝した。
「た、隊長……っ」
「ラヴィーネ隊長……! その、我々は……」
「こ、これは、ですね……その……」
帝国兵たちは、ラヴィーネの姿を認識した瞬間、血の気が引いたように顔を強張らせた。
一人が慌てて背筋を伸ばし、もう一人が反射的に敬礼の姿勢を取る。
「言い訳は聞かない。今、何をしていたのかを答えなさい」
その声は、冷たく、鋭く、容赦がなかった。兵たちは、俯いたまま言葉を探す。 だが、沈黙の中で、ついに一人が声を震わせながら口を開いた。
兵たちは一瞬動きを止めたが、すぐに振り返り、開き直ったように言った。
「これは当然の報いです、隊長。こいつらは、俺の弟を……」
「俺の友も……」
その言葉にラヴィーネは静かに冷静に答える。
「言い訳は聞いていないと言ったでしょう。捕虜への危害は禁じている。」
ラヴィーネはあくまで規則を口にする。
しかし、やはりそれで簡単に引き下がれない理由であり、言い訳を彼らは叫ぶ。
「隊長……! こいつらは、俺の弟を殺したんです! あいつは、まだ十九で……! 戦場で、何もできずに斬られたんです!」
「俺の親友も! フェルノアの丘で、王国兵に囲まれて……! 助けに行けなかった! あいつの叫び、今でも耳に残ってるんです!」
「こいつらは、ただの捕虜じゃない! 俺たちの大切な人を奪った、憎むべき敵なんです!」
その言葉を聞いてもラヴィーネは揺るがなかった。
何故ならそれは今のこの世界ではありふれたものだからだ、
そのうえで、ラヴィーネは 拳を握りしめながら、視線を逸らさずに返す。
「……あなたたちの痛みは、理解している。私も仲間を失った。私も、王国兵に斬られた者たちの顔を忘れたことはない」
兵たちは、少しだけ動きを止めた。 だが、すぐに一人が叫ぶ。
「だ……だったら、なぜ止めるんですか! こいつらを殴って何が悪い! こいつらがやったことに比べれば、こんなの……!」
「こんなの、当然の報いだ!」
ラヴィーネは、ゆっくりと一歩前に出た。
その瞳は、冷たく、鋭く、揺るぎなかった。
「……それでも、捕虜を虐げることは許されない。それが規則であり、帝国の秩序を守る者として、あなたたちの行いは誇りを汚している」
兵たちは、言葉を失った。
だが、納得したわけではない。その顔には、怒りと悔しさが滲んでいた。
ラヴィーネは、少しだけ声を落とした。
「忘れてはならない。戦場で傷ついたのは、帝国だけではない。王国の兵も、民も、家族を失った。彼らも、同じように泣き、怒り、憎しみを抱えている」
兵たちは、俯いたまま、拳を震わせていた。
「戦争とは、そういうものよ。お互いに傷を負わせ、奪い合う。だからこそ、終わった後にどう振る舞うかが、帝国の未来を決める。憎しみを抱えたままでは、次の戦を呼ぶだけよ」
「……でも、隊長……!」
「命令よ」
その言葉に、兵たちは一斉に唇を噛みしめた。誰も反論できなかった。それが、帝国の英雄の命令である以上。
「今後、捕虜への度を越した行為は一切禁ずる。彼らは、武器を持たない者だ。戦場では敵だったかもしれない。だが今は、帝国の秩序の中にいる者。その秩序を乱す者は、敵と同じだと心得よ」
兵たちは、黙って敬礼した。その動きは、悔しさと葛藤に満ちていた。
ラヴィーネは、彼らの前を通り過ぎながら、牢の中の王国兵たちを一瞥した。
そしてそのままゆっくりと通路を歩き、誰もいない一角で、壁に手をついて頭を抱えた。
「ったく……私もみんなも、何をしているの……?」
怒り。 悲しみ。 そして、果てしない葛藤。
帝国の秩序を守るために戦ってきた。勝利を手にした。だが、その勝利の先にあるのは、こんなにも醜い現実だった。
――どういう関係になりたいのか?
アマンスの問いが、再び胸を突く。
敵として、憎しみ合うのか。支配者として、恐怖で縛るのか。 それとも――
「……そんなこと、簡単に決められるわけがない」
ラヴィーネは、目を閉じた。
何もかも、簡単にはいかない。戦争は終わった。だが、心の戦いは、まだ続いている。
そのとき、ふと脳裏に浮かんだのは―― 日之出大翔の顔だった。
あの、かったるいが口癖で、何事にもやる気を見せなかった男。そして、誰よりも自由で、誰よりも優しかった。
「……大翔なら、どうするの?」
ラヴィーネは、ぽつりと呟いた。
彼なら、きっと捕虜を守る兵を怒っただろう。だけど、怒りっぱなしではなく、最後は和ませて仲直りし、そして捕虜には、気さくに話しかけて、 みんなを笑わせて、空気を変えてしまう。
「ああ……そうね……大翔なら……捕虜と帝国兵もまとめて友達にさせてしまったかもしれないわね……」
自分の想像にラヴィーネは思わず笑みが零れた。彼ならやりそうだと思った。
「けれど……私には、そんなふうにはできないわ」
だが、彼のようにできなくても、 彼のように誰かの心に寄り添うことは、できるかもしれない。
ラヴィーネは、深く息を吐いた。
その背中には、まだ迷いがあった。だが、確かに何かが変わり始めていた。
ラヴィーネはふと足を止め、目を閉じる。
――一人でやるな
また、アマンスの言葉が、再び胸の奥で響いた。
その言葉は、ただの助言ではなかった。彼女の心の奥深くに、静かに染み込んでいく。
今、自分は帝国軍の隊長として、何十人もの部下を率いている。彼らは、自分の武力を認め、功績を讃え、命令に従ってくれる。説教ばかりの自分にも、誰一人文句を言わず、忠誠を尽くしてくれる。
それは、軍という環境があってこそ。規律があり、階級があり、命令が絶対である世界だからこそ、皆がついてきてくれる。
そう思っていた。
だが、違った。
――何が何でもそなたに生きて欲しいと思った者たちだ
騎士としては許されない行為をしてでも、自分を助けてくれた者たちだ。
今の自分にはそこまで想ってくれる人たちがいる。
――一人で悩んでいたところで、かったるいことになる
その言葉と共に、ふと前世の学生時代を思い出した。
軍も、規律も、肩書もない。ただの一人の女子高生として、クラス委員長を任されていた自分。
真面目に、責任感を持って、全力で取り組んだ。でも、何もかも一人でやろうとして、空回りした。
三十人程度のクラスすら、まとめられず、反感を買った。
「……そうだった」
忘れていた。自分は、大した人間ではない。
ただ真面目なだけで、融通が利かず、空気も読めず、周囲に壁を作っていた。
「……私なんて、全然大したことないのにね」
自分が大した人間ではないと気づいた瞬間、 「一人でやるな」という言葉が、より一層身に染みた。
今の自分には、仲間がいる。 部下がいる。 信じてくれる者がいる。
ならば、頼ればいい。
一人で背負うのではなく、共に歩めばいい。
ラヴィーネは、踵を返した。
その足は、自然と軍司令部の仲間たちの元へと向かっていた。
迷いはまだある。 答えも出ていない。
それでも彼女は、もう一人ではなかった。




