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百年の誓い【Ⅰ】

 ――聖暦864年5月――


 朝になると澄んだ風の向こうに広大な山々が見える。

 王都グルダニアの朝は遅い。

 ゆったりとした時間の中で人々は穏やかにと動き出す。

 かごに入れられた採れたての果物と山積みにされたドライフルーツが放つ甘い香りの横で、今朝焼かれたばかりの多様なパンが並ぶ。  

 ハム、腸詰。職人の手によって加工された肉類が並ぶ場所では香ばしいスパイスの匂いが混じり胃を刺激する。

 ハーブティーにするためのハーブ、お茶、色鮮やかな花……。通りに店が広がっていくと、それに呼応するように市場にはお客の足音で埋め尽くされていく。

「今年のワインの出来はどうだい?」

 ワインを売る店の前で、でっぷりとした腹の常連客が聞いた。すると、女主人は「最高さ、グルダニアワインは世界一だよ」と笑う。その言葉に常連客も満足そうだ。

 国境の境、グルダニア東部駐屯地から、久しぶりに王都グルダニアへと帰って来たユリウスが店に顔を出すと女店主は驚きと喜びを同時に表した。

「おや! ユリウス、いつ戻ったんだい?」

「おばさん久しぶり。つい昨日だよ。親友の結婚式があるんだ。お祝い用に薔薇をもらえるかい?」

 寒暖差があり、水はけの良い土壌が育むグルダニアローズは、花弁が大きく香りが強い。この時期の王都周辺では特に大輪の薔薇が咲く。深紅の大輪はグルダニアの豊かさを表し、祝いの席には特に縁起物として好まれる。

 ユリウスの注文に女店主は愛想よく薔薇を包みながら「任が解けたわけじゃないんだね。いつまでこっちにいるんだい?」と尋ねる。

「もうすぐさ。その時はまたよろしくな」

 女店主は薔薇を数本おまけしてくれた。ユリウスは礼を言ってその店を出ると、その足で人が賑わう大聖堂に向かう。

 大聖堂に近づいていくと、礼装の若者達が道を作っていた。

 ユリウスはそれを遠巻きに見ながら、誓いの言葉を交わし、夫婦になりたての二人が出てくるのを木陰で待った。

 祝いの熱気がこの木陰までやってきそうだとユリウスは思わず頬を緩める。

 二人のための演奏が始まった。独特のリズムを刻む太鼓の音と杏の木で作られたグルダニア民族に伝わる笛の音が鳴る。

 身体にしみ込んでくるようなリズムにユリウスは自然と体が揺れ、その心地よさを楽しんだ。

 子供の頃から馴染んできたリズム。熱を帯びたように心が高揚する。

 心弾ませる音楽、薔薇の匂い、青い空と、陽気な人達。

 幼い時の記憶がふと蘇り、肩の力が抜けていく。心が町に馴染んでいくのがわかる。

 次の瞬間、大聖堂の前に出来た人だかりが「わっ!」と声が上がった。

 ユリウスがその方向に目を向けた時、ちょうど新米夫婦の周囲に花びらが舞っている最中だった。

幸せそなうな二人の姿に目を細める。

 しばらくそこで二人の様子を見ていたユリウスだったが、新郎ミエスが彼に気がつき「ユリウス! ユリウスじゃないか!」と声を上げた。すると、新婦のレベッカがよく通る声で、ドレスにも関わらず無邪気に手を振る。

「ユリウス! 久しぶりじゃない! いつ帰ったの?」

 ユリウスは周囲の視線が集まったことに苦笑いしながらも用意した花束を二人に渡す。

「二人ともおめでとう」

「ありがとう」

「素敵な薔薇! いい香りだわ」

 レベッカは花束に顔を近づけ、新鮮な薔薇の香りを楽しんでいる。その様子にミエスもうれしそうだ。

「いい式だな、さすがはミエスとレベッカだ」

 ミエスは照れたように頭を掻く。

「ユリウス、仕事は? こっちではゆっくりしていけるんだろう?」

「ああ、そのつもりだよ。今夜はお前らの歌が聴けるんだろ?」

「もちろん! グルダニア歌姫が最高の歌を聴かせてあげるわ」

 小柄なレベッカが元気よく胸を張る。

「未来の、だろ?」

「まあね、でも、『すぐにでも』よ」

 レベッカは笑った。

 ユリウス、レベッカ、ミエスはともに孤児院で育った仲間だった。

 十五歳でユリウスが騎士団の訓練生になった時に生活を別にすることになったが、それ以降も交流は変わらず続いていた。

 二人はユリウスを応援し、ユリウスも二人のコンサートの場に仲間を連れて行った。おかげで、騎士団や王宮内でも、レベッカとミエスの名は広まりつつある。

「これからお披露目をしてからパーティーなんだ。夕方には楽団も来る、その時、レベッカも歌う予定さ」

「そうか。それはいいな。お前の演奏にレベッカの歌、それを肴にグルダニアンコニャックでも飲みたいよ」

「もちろん! 歓迎するよ」

 薄絹のような繊細で、普段は寡黙なミエスが上機嫌に声を弾ませる。ユリウスは二人の姿に思わず心の中が温かくなるのを感じた。

 グルダニアの結婚式は教会で誓いの言葉を交わし、永遠の愛を誓った後、両家の家族親戚や近所の人まで参加して一日中宴を催し祝うのが普通だ。

 しかし、ミエスとレベッカは二人とも孤児。そのため孤児院の仲間や彼らの音楽仲間、友人、昔から彼らをよく知る人達などが集まることになっている。ユリウスはグルダニア騎士団兵舎に顔を出し、あいさつをしてレベッカ達のパーティーの内容を伝えて周った。

 夕方になるとその会場は二人を祝う人達でごった返していた。

 音楽と歌が会場を包めば、誰ともなく踊りだし、やがてそれは熱気を帯びた輪になった。

 その一団から離れた場所で、ユリウスはレベッカの歌を楽しみ、グラスを傾ける。甘い深みのある香りが鼻腔を通り、柔らかな刺激が喉をトロリと通っていく。

「上等なコニャックだな、歌もいい……」

 隣に腰かけた肩幅の広い、いかにも武人と言った男が、ユリウスのテーブルにやってきて腰かけた。

「来てくれたのか」

「酒が飲めると聞けばな、あとお前に会いたかった」

 武人は人懐っこい笑みを浮かべる。

「もうすぐ王都に戻って来られるんだろう? いつ頃になる?」

「おそらく、今回辞令が出ると思う……お前のおかげさ、アラン」

 ユリウスは空いたグラスにコニャックを注ぎ、ついでアランのグラスにも注ぐ。琥珀色の液体がグラスに移動するたびに豊かな香りが立ち昇る。この酒は舌だけでなく、この町に来た戻ってきたという懐かしい記憶も蘇らせ胸を熱くさせる。

「あの試合でお前が負けてくれたから……」

 アランは豪快に笑ってユリウスの背中を叩いた。

「バカいうな」

 周囲を山々に囲まれる堅牢なグルダニアではあったが、その歴史は侵略者との戦いの歴史でもあった。多くの犠牲を払い、多くの血を流したこともある。時には領土を奪われ、民を失ったこともあった。

 グルダニアの歴史の中で今ほど平和な時が長く続いたことはないのだ。

 そのため平穏な時がいくら長く続いても、グルダニア騎士団で出世していくためには、何よりも武勇が必須であった。

 戦のない今では武功は立てられない。そのため若手は公開試合という形で技を競い合う場を設けられる。試合の結果の上位者ほど中央部へ、敗退者は各地方へと配属されるのだった。

「俺はお前に希望を見たのさ。だからあれでいいんだよ」

 ユリウスの試合。対戦相手は今横に座るアランだった。経験、実力の上ではアランの方が上手。アランはグルダニア槍術の名手として、若手の中で頭抜けた存在だった。

 ユリウス自身もそう思っていたように、誰もが、アランの勝利を疑わなかった。

 そして大方の予想通り、試合は終始アラン優勢のまま運ばれたが。

 しかし、最後の最後でアランの槍は鈍った。勝利を手にしたのはユリウスだった。圧倒的な劣勢から、奇跡的な逆転は試合会場を沸かせ、観衆の心に強くユリウスの名を刻んだのだ。ユリウスの機転が、咄嗟の判断が、実力で上回るアランを超えた。そう誰もが思った。  

当のユリウス以外は。

「これからのグルダニア騎士団には腕っぷしが強いだけの人間じゃダメなんだ。お前みたいに頭のキレる人間がもっと必要になる」

 アランはあの試合で、出世の道をユリウスに明け渡したのだ。ただ単にやられるだけでは疑いをもたれる。そのための逆転劇をわざわざ演出したのだった。

「でも、配属はギュルムだろ? 森を抜ければすぐにアステリアだ。そんな辺境にお前ほどの男が行くなんて」

「正式にはこれからだが、この前様子を見てきたよ。穏やかでいい村だ。アステリアとの関係も今は良好……」

 アランは上機嫌に笑い、酒を喉に流す。

 会場周囲に配置された温もりのある篝火の光がアランの姿を揺らす。その姿は大きく頼もしい。こんな男が自分を認め、担ぎ上げてくれた、そう思うとユリウスは身が引き締まる思いがした。

「その上、飯もうまい。まあ、女は期待できないかもしれないが。ゆっくりさせてもらうさ。お前が出世したら、王都に呼んでくれ。腕は錆びつかせないつもりだ」

「ああ、頼りにしている。田舎の女に入れ込むなよ?」

 二人は笑いあう。

「おっ……?」

 アランがふと何か気がついた。彼はニヤリと笑って自分のグラス片手に席を立つ。

「アラン、どうした?」

「何、用事を思い出したんだ。お前はゆっくりしていけよ、今夜はいい夜だ」

 アランはユリウスの肩を厚みのある手で軽く叩いてから、楽団の演奏と盛り上がる人の海に消えて行った。

「用事? あんなに酒を飲んでいるのに?」

 ユリウスが訝しんでいると、ちょうどアランと入れ替わるように一人の女性が、彼の名を呼んだ。

「ユリウス」

「エルヴィ……!」

 その女性は、流れ落ちるようなブロンドの髪と透き通るような白い肌、やや色の濃い蒼い瞳が印象的な英雄譚に描かれるエルフを思わせる一目を引くような美しさを持つ人だった。しかし、その整った顔立ちとは裏腹にエルフのような儚げな印象はなく、張りのある皮膚の下にはしなやかに鍛えられた強さが感じられる。

 細い腰に長剣を差し、宮廷騎士特有の軽鎧に身を包んでいても、女性的な魅力を少しも損なっていない。

 ユリウスは篝火の明かりに浮き上がる、少々汗ばんで光る彼女の肌に思わず見とれてしまった。

 エルヴィは、驚くユリウスを大きな瞳を細めて睨み「久しぶりに帰ったっていうのに、挨拶もなし?」と言った。

 凛とした声にユリウスはドキリとする。別にエルヴィに声をかけるのを後回しにしたわけではなかった。養成所時代からの同期である彼女は自分よりもはるかに上位の役職についている。簡単に会いにいけるわけがない。それは彼女自身もわかっているはずだ。

「幼馴染の結婚式だったんだ、すまない」

 レベッカ達の方に視線を投げた。楽団は演奏を止め、ミエスがソロで演奏を始めた。

 先ほどまでの賑やかな雰囲気とは違った、ゆったりとした曲調だ。

 曲名はわからなかったが、いい曲だとユリウスは思った。身体にジワリとしみ込むメロディに、会場の熱気も穏やかに凪いでいく。

 聞き惚れる。

 上等な酒に身体は熱く、音楽に引きこまれ陶酔する。会場はミエスの演奏に一つになっている。その様子に、エルヴィも先ほどより声を抑えて「東部はどうだった?」と言った。

 彼女は先ほどまでアランが腰かけていた席にフワリとした身のこなしで座る。

 ユリウスは椅子の上に水鳥の羽でも落ちたような気がした。

 また腕を上げたな。

 そう思った。

 養成所時代、早い段階から、彼女は周囲から一目置かれる存在だった。

 その理由は三つ。彼女の美しい容姿、名門の出という出自、そして武の才。

 養成所を終えると彼女は異例の速さで精鋭が集められる宮廷騎士団へと配属された。

 宮廷騎士団は女性だけで構成された、グルダニア王家を最も近い場所で守る最後の砦だ。彼女が腰に下げる白銀の長剣がその証である。

 グルダニアでは槍術、騎馬術を重視する。そのため隊長クラスが持つ剣はその権威を表す飾りにすぎないが、彼女らの剣は違う。

 グルダニアで選ばれた剣士にのみ与えられる特別なものだ。

 宮廷騎士団に伝わる剣技、グルダニア剣術は遥か昔、辺境より訪れ、グルダニアの危機を救ったと言われる勇者リーンより伝承された秘剣術であり、一対一はもちろん多数を相手にしても無類の強さを発揮する。

 おそらく今のユリウスが得意の槍を持ち、戦いを挑んだとしてもエルヴィに勝てるかどうかわからない。

「ああ、いい勉強になったよ」

 自分も東部に出向になって少なからず成長したと自負していたが、彼女もまた一層に練られている。安堵とともに焦りのようなものがユリウスの酔いを少し覚ます。

 会場を周る給仕ががワインの入ったグラスを彼女の前にコトリと置くと頭を下げて離れていった。まだ仕事に戻るのか、彼女はグラスを手にとっただけで口をつけない。

「それだけ?」

「……これからに活かせると思うよ」

 グルダニア最大の地方要塞のある東部グルダニアの警備を経験した後、王都騎士団へ復帰。間違いなく出世コースだ。うまくすれば、騎士団でも上に行くことができるだろう。

「それは頼もしいわね」

 エルヴィの口調にはまだ棘がある。どうやらユリウスが王都に帰って来て、彼女の元に出向かなかったこと相当不満に思っているらしい。ユリウスは内心慌てて取り繕うと思ったが、今度はエルヴィに真っすぐに目を向けられ、言い訳をするタイミングを逃した。

「約束、覚えている?」

「……ああ、もちろん」

 エルヴィとの約束。

 養成所時代に交わしたものだ。

「この国を守る……お前には戦わせない」

 ほぼ反射的に、その言葉が口から出た。

エルヴィはやっと笑顔を見せる。

「できる?」

 甘い問いかけにユリウスは自然と姿勢を正していた。

「そのために東部に行き、還ってきたんだから。何があっても……お前に戦わせるようなことはしないよ」

 例え戦いの果てに命を落とすことになっても、男が女を守る。女を守り、戦うのは男の仕事。それがグルダニアの伝統的な考え方だ。

「へぇ、それから?」

「えっ?」

「その続きは?」

「……お前のすべては俺が引き受ける」

 ユリウスはそう言った。

 エルヴィは満たされたように微笑んだ。

 それはグルダニアにおける誓いの言葉でもあった。


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