9話 仕事と仕事
金髪の美青年である我らが王子様から『借りた』、女流作家の著作とされる本を、シルヴァンは帰宅してすぐに精査した。開けばわかる。アウスリゼで出版される本は、ページの頭頂部分が切り離されておらず、他のページとつながったまま製本される。なので、初めてその本を手に取った人間はペーパーナイフで一ページごと切り離して読むのだ。本当に読んだのであればページがばらばらになって――いた。
がっくりとうなだれて、シルヴァンは最後の希望を手放した。ああ。よりによって、腹黒王子様に。
同僚どころか王宮中にこの事実が広がるのは時間の問題と思えた。いや、むしろ自分への目に見える脅迫のために秘するだろうか。あの王子様は、本当になにを考えているのかわからない。
渡された任命書には適当過ぎる出張理由が書かれている。知っている。昨年マディア公爵領へだいたい同じ書類で派遣された先輩は、数カ月そちらで激務をこなして舞い戻って来た。そして自分にも当然と言わんばかりに任務を口頭で伝えられ、今はげんなりと出発準備をしている。
そして、シルヴァンは『借りた』本に挟まっていた『指令書』を開いた。
本当の目的は、そちらなのだ。――エリオ子爵へ。
(……なるほど?)
よくわからない内容だった。しかし、シルヴァンがその内実にまで踏み込む必要はないだろう。むしろ知りたくもない。知るとたぶん仕事が増える。まっぴらごめんだ。細かく破りコンロの焚き付け部分へその紙を入れ、火を着けた。
二カ月の出張にはどんな準備が必要なのだろう。よくわからずに、進学のため王都ルミエラへ移住して来たときに使った旅行鞄を引っ張り出して来た。
仕事柄身だしなみには気を遣っているが、元はと言えば、シルヴァンは自分にそれほど興味がない。それゆえに所持している被服類も種類が多いとは言えなかった。立場上、質の良い物を身に着けなければならないが、それも百貨店で見立ててもらった服をそのままで着回している。
何にせよ、それほど手間取らず彼は旅支度を終えた。そしてその日の夜のうちには、目的地へ向かう蒸気機関車へと乗り込んでいた。それもこれも、少しでも我らが王子様から遠いところへ赴きたかったからである。それに、出張が決まったとなれば同僚たちから批難ごうごう、何を言われるかわからない。引き継ぎもせずにさっさと逃げるのが得策と思えた。
夜行列車の二級客室で揺られ二日。そしてそこで乗り換えてさらに四日。グラス侯爵領ディルゼーへとシルヴァンはやって来た。狭い列車内での運動は限られ、さすがに体中が悲鳴を上げている。シルヴァンはベンチに荷物を置いて、両肩をぐるぐると回した。
グラス侯爵領は、アウスリゼの北東部を覆う形をしている。ちょうどその真ん中あたりに、ラスタラン連峰と呼ばれる美しい景観の山々がある。それらを挟んで西南西部に、領都であるディルゼーが位置していた。四季折々の山の様子を楽しめるため、観光地としても名高い街だ。事実足を踏み入れたその瞬間から、シルヴァンは空気の美味しさを感じていた。そして、駅舎を出て目の前へ広がった風景に息を呑む。
ディルゼーの街は区画により建築制限がかけられ、そこには五階建て以上の建築物はない。それはこうして、多くの人々へ山峰の荘厳さを惜しみなく提示するためだ。地図上ではグラス侯爵領を二分しつつも、その南端の標高は低いはずだ。しかしシルヴァンが今目にしているのは、城壁のごとくそびえ立ち、新緑に潤う堂々とした姿だった。
山を美しいと感じるのは生まれて初めてだ、とシルヴァンは思った。これはなにかのネタになる、としっかり心へ刻みつける。
まずは、グラス侯爵ボーヴォワール家の当主、ドナシアン氏へあいさつに行かなければならない。体裁を整えるために王子様からの手紙も預かって来ている。いちおう査察との名目になっているのだ。それっぽい事をしなければならない。できうるならば二カ月丸々、この美しい景色を眺めながら執筆でもしていたい。心からそう思う。
あらかじめ予約してあった駅前の宿泊施設へ向かう。瀟洒な街並みに馴染んだレンガ造りの建物で、一級の号を持っている場所だ。受付にて名乗り出て部屋鍵をもらうと同時に、グラス侯爵家へと訪問の伺いを立ててもらう。この施設では伝令も請け負ってくれるのだ。受付係の男性は小慣れた少しのほほ笑みで「では、館内でお待ちください」と言った。
シルヴァンは余裕を見せる体で「急ぎません、ありがとう」と言った。むしろ急がないでほしい。ゆっくり行ってゆっくり尋ねて、ゆっくり戻って来てほしい。待ちぼうけている間――それはすなわち、シルヴァンの自由時間だ。
(――よし。書く。書く。俺は書くぞ!)
一人で滞在するにはいささか大げさな広さの部屋へ荷物を置き、取り出した愛用の小型鞄を抱える。これを開くのはいったいいつぶりになるだろう。忙しさの極みが通常の生活をしていて、触れることすらなくなってしまった。
部屋の窓から見える風景もすばらしかったが、どうせならもっと違うところも見てみたい。館内地図を参照すると、晴れている日は屋上で喫茶できるようだった。すぐさま向かった。
平日の午前だったからか、屋上に客はひとりしかいなかった。給仕がにこやかに好きな席を取るよう促す。柱を背に座れる席を取り、座った。書くならば、背後に気をつけねばならぬからだ。注文を尋ねた給仕へコーヒーを頼む。そしてふと目に入った、入口付近に申し訳なさそうにたたずんでいる手回し蓄音機を見て尋ねた。
「あれは、動かせるの?」
「はい。お好みがございましたら、演じます」
「そうか。では――エボニーの『あでやかなバラのように』を」
小額紙幣を二枚折りたたんでテーブルの下から渡すと、慣れた手つきですっと受け取り、給仕は「承知しました」と言った。頼んだ曲は世界的な歌姫の定番曲で、女性の恋心をしっとりと歌っている。歌詞の繰り返し構造を持ち、小唄の中でも連立歌と呼ばれる。昨年この国でも公演会があったが、現職に着いたばかりだったシルヴァンが行けるはずもなかった。なにせ、一番安い席でも月給の半分が飛ぶ値段だったのだ。手に入るわけがなかった。
それでもシルヴァンは、この女性歌手が大好きだ。仕事帰り、悔しい思いで回り道をし公演会会場の傍を通りがかった。同じ思いの人間はよく居たもので、少しでも声が聴こえないかと会場の裏に人だかりができていた。夜も遅くだ。そこに仲間入りして「聴こえますか?」などと声を掛け合っていたら、なんと、公演を終えた本人が二階の窓に現れた。
『――遠くにいるあなたを想い
夜風が切ない旋律を運ぶ
窓辺に座り見つめる星空
あなたの笑顔が浮かぶたびに』
給仕が蓄音機を動かすと、朗々とした女声が響いた。あのときの声と同じだ。入場券を購入できなかったシルヴァンたち貧乏人のために、褐色肌の歌姫は夜風にその声音を乗せてくれた。
集っていた者たちはもちろん大歓喜で聴き入って、笑顔で手を振る彼女へたくさんの声援を送った。それまではめったに来ない大物歌手を珍しく思い、どうにかネタのためにその生歌を聴きたいと思っていただけだった。けれどシルヴァンはそれですっかり彼女の愛好者になった。いつか自作に、あのときの感動を場面として書きたいと思っている。
コーヒーを受け取り、鞄から書き物のための一式を取り出す。眺めはラスタラン連峰。流れるのはエボニーの歌。侯爵家からの返事が届くまでは待機時間。最高の執筆環境が整った。
「さて――やるか」
気合いを入れて書き途中の紙へ目を走らせる。もはや懐かしかった。頭の中から作品の設定を掘り起こしながら、シルヴァンは万年筆を走らせた。
しかし、そうして居られたのは一時間に満たなかった。
「――シルヴァン・ガイヤール一等書記官殿でしょうか?」
主人公女性の転換点となる重要な場面を書き連ねていたときだった。おそらくシルヴァンはかなり真剣な表情をしていただろう。控えた音量でそっと声をかけられ、しかもそれが没頭しきっていた世界観に由来する言葉ではなく現実世界での自分の名だった。あまりにも驚いてシルヴァンはペン先で紙面を突き破る。そして見られぬよう慌ててひっくり返す。
「お仕事中に申し訳ございません。グラス侯爵家から参りました、デュドネと申します」
「早っ」
「リシャール殿下の名代と伺っており、取り急ぎお迎えに上がりました」
「え、そんな話になっているんですか」
「はい。ぜひ侯爵邸に滞在していただきたく」
嫌がらせだ。なんだこれは。
とりあえず、シルヴァンは創作の世界へ旅立たせていた頭を泣く泣く現実へと連れ戻した。
不定期更新になってしまい申し訳ないです……






