第21章(2)
第21章(2) ライバート・ジェシー・カイトウ名誉市長
戦場で覚えたピッキング技術で病院の前の路上に駐めてあった車を拝借し、わたしは南区にあるメフィレシア公爵邸へ向かった。
わたしの荒れ狂う内心とは無縁に、夕刻の内周ハイウェイは秩序立った車の流れに支配されていた。
――もともと、メフィレシア公爵邸へ押し入ってもらうよう依頼する目的で、シュナイダー盗賊団に近づいた。昔からつき合いのある占い師のヘレナ婆さんに「メフィレシア公爵が陰謀を企てているかもしれないから調べてくれ」と頼まれたので、公爵一家の手紙や書類を盗み出してもらうつもりだった。身辺を探られているとメフィレシア公爵に悟らせてはいけない。だから屋敷への侵入には高度なプロの技が必要だ。そういう判断だった。
しかし、今日のわたしの目的はそれとは違う。家人に気づかれたって構わないのだ。それに――「盗みはするが、人は傷つけない」をモットーにしているシュナイダー盗賊団の友人たちを、こんなことに巻き込みたくはない。これは純粋に、わたしの個人的な問題なのだから。
貴族の豪華な屋敷が並ぶ、閑静な界隈。その一角にメフィレシア公爵邸はあった。何度も訪れたことがあるので、その門の形は記憶に刻み込まれている。
わたしは車の遵法制御装置をオフにした(普通の人にはできない。これもわたしが戦場で覚えた技術のひとつだ)。その結果、交通法規に沿わない運転が可能になった。上昇と時速二マイル以上での走行が禁止されている一般道で、車を急加速、急上昇させる。
そのまま屋敷の門を飛び越えた。
ライトアップされた美しい芝生の庭を突っ切った。夕闇の中にそびえ立つ壮麗な屋敷が見る見る眼前に迫ってきた。照明の灯っている窓はほとんどない――ほんの二、三か所を除いては。わたしは細かく侵入箇所を選べるほど屋敷の構造に精通しているわけではなかった。だいたいこの辺りに大広間があったはずだと思われる、三階のひときわ大きな窓に車を突っ込ませた。破壊音と共にガラスが粉々に砕け散った。わたしは車を広い部屋に着地させた。
車のエンジンをオフにすると、とたんにヘッドライトが消えて視界が闇に閉ざされたので、わたしはゆっくりと車から降りた。
屋敷の中は拍子抜けするほどしずかだ。この上なく派手に侵入を果たしたのだから、家人が大騒ぎしていても不思議はないはずなのだが。わたしはしばらくその場で静止し、夕刻の暗さに目が慣れるのを待った。その間ずっと、辺りの物音に耳を凝らしていたが、何も聞こえてこなかった。
この静けさは、あきらかに異常だ。
屋敷には公爵家族の他に、住み込みの使用人が十五、六人いるはずだ。そのだれも物音に気づかなかったなどということはあり得ない。もしかすると、荒事担当の使用人が侵入者に対処するために、銃など構えて慎重にこちらへ近づいてきている最中か。公爵ほどの大貴族なら屋敷に護衛を常駐させていても不思議はない。
わたしはベルトに差してあったハンドガンを抜き放った。
怖い物など何もなかった。目的さえ果たせれば、あとは我が身がどうなろうと知ったことではなかった。
銃の扱いは得意ではないが、銃口を人に向けたことがないわけではない。身を守るために暴力に訴えなければならない状況も何度か経験している。ボガスキョイ星系でこのハンドガンを見つけたとき、操作方法については売手からひと通り説明を受けている。使えるだろう。問題なく。
わたしは銃を構えたまま、薄暗い大広間から廊下へ歩み出た。
廊下はシャンデリアの上品な光で満たされていた。高価な輸入物の絨毯が敷きつめられ、優美な花台が規則正しい間隔で並べられた、端正なたたずまいだ。あいかわらず屋敷内は静まりかえっていて、人の気配もない。
異常だ。だれも出てこないのは異常だ。そんな考えがちらりとよぎったが、激情に支配されたわたしの脳は、それを些末なことだと意識の隅へ追いやった。家人がわたしの侵入を騒ぎ立てないのなら、むしろ好都合ではないか。
わたしは大股に階段へ向かった。公爵家族の私室が四階にあることは知っていた。
自分の荒い呼吸だけを聞きながら四階へ達し、まっすぐシャルル・ド・メフィレシアの部屋へ向かった。扉が細く開いたままになっており、室内の灯りが廊下へ漏れ出している――中に、人がいるのだ。
わたしは思いきって扉を引き開けた。
とたんに視界に飛び込んでくる、金のかかった豪華な内装。二、三十人集めてミニパーティでも開けそうなほど広い部屋の真ん中で、メフィレシア公爵がわたしを振り返った。
室内にいるのは公爵一人だけだ。シャルルの姿は見えない。
公爵の周囲には、シャルルのものだと思われる派手なタキシードやスーツが散乱していた。奇怪なことに、公爵はそのうちの一着を胸に押し当てるように抱きしめていた。
公爵の顔に涙の跡が見えたと思ったのは、わたしの目の錯覚か。
「……シャルル殿はどちらかな?」
わたしの口から出たのは、とても自分の声とは思えないほどしわがれた奇妙な声だった。
メフィレシア公爵は蒼白な顔で銃口をみつめていた。公爵の丸い眼鏡が照明を受けて一瞬ぎらりと光った。
長い長い沈黙。
ようやく発せられた公爵の声はかぼそく、耳をすまさなければほとんど聞き取れないほどだった。
「息子は……ここにはおりません。もう二度と、ここへは戻りません」
「どこへ行ったんですか? まだフラーテス宮におられるのか、それとも……?」
「あなたが狙うべきなのはシャルルではなく……私ですよ、カイトウさん。息子は私の手足に過ぎません。すべての元凶は私です」
話しているうちに度胸がすわってきたらしい。公爵の声が少しずつ大きくなってきた。唇を震わせながらではあったが、公爵は昂然と顔を上げてわたしを睨んだ。
「あなたのご子息と私とは、完全な敵同士でした。あの人が最後に私を見たときの、あの冷たい目つきといったら……あなたにもお見せしたかったですよ。あの人のせいで私は破滅しました。地位も、仲間の信望も、すべてを失いました。そのせいで昨日、家族を領地へ帰さなければならなかったのですよ。あんな、まるで夜逃げみたいな、みじめな出立……! ですから、私は微塵も後悔していません。あなたのご子息を死に追いやる結果になったことを。……さあ、その銃の引金をお引きなさい、カイトウさん。ご子息の仇を討つがいい。あなたにはその権利がある」
「……!!」
わたしの顔が、ひとりでに歪んだ。涙で視界がじわりとぼやけた。獣のように泣きわめきたかったが、かろうじてそれだけは自制した。
両手でしっかりと銃を握り、引金を引いた。
生まれて初めて聞くハンドガンの銃声は爆弾のように轟然と響きわたった。ハンマーでぶん殴られたみたいな衝撃が手から腕へと伝わり、銃口がはね上がった。狙いはとてつもなく外れた。少し離れた飾り暖炉の上の鏡が爆散した。わたしは、反動でじんじん痺れている腕を持て余しながら、茫然と立ち呆けた。
メフィレシア公爵が腰を抜かして床にへたり込んだ。失禁したらしく、ズボンの前の部分に染みが広がった。
わたしは唇を噛みしめて懸命に嗚咽をこらえ、再び銃口を公爵に向けた。今度こそ確実にとどめを刺してやる――この両手の、どうしようもない震えさえ治まってくれたら。
「あなたに撃たれるなら……私も納得できます。私とて人の親。子を失った苦しみは理解できます。仲間のような顔をしながら、常に人の足を引っぱる隙をうかがっている日和見どもにやられるぐらいなら、ここであなたに殺された方がよい。
ああ、カイトウさん。皮肉な話だが、私はだれよりもあなたの感情を理解できる。私もまた、愛する我が子を失ったのですから。シャルルは……耐えられなかったのです。罪の意識に。人を手にかけたという事実の重みに。息子は自分を失ってしまった。心を捨て、永遠の夢の世界に逃げ込んだ。シャルルはもう……シャルルではなくなってしまった」
何も言うな。聞きたくない。仇の言葉など聞きたくない。
わたしの両手の震えはなかなか治まってくれない。情けない。目の前に息子の仇がいて、手の中には弾丸をこめた銃があるのに。わたしは何を逡巡しているのか。
「シャルルは、もともと、それほど出来の良い子ではなかったのです。意思が弱くて、何をやらせても長続きしないのですよ。すぐに疲れてしまって、努力も続けられないので、何一つ身につかない。――貴族社会といえば、表面は上品に取り繕いながらも、実際には食うか食われるかの厳しい世界。栄光あるメフィレシア家をハイエナどもから守りきるには度胸と才覚が必要なのに、あの子にはどちらも備わっていませんでした。唯一の取り柄といえば容姿だけだったので……私は仕方なく、女性に取り入る術を息子に教えました。家柄の良い女性さえ娶れれば、あとはその女性の実家に頼れますから。
息子はまずまずうまくやっていました。社交界で女性に大人気でした。あの子が両殿下に愛されていると知った時には、私は快哉を叫んだものです。エヴァンジェリン殿下を射止めれば王配になれますし、システィーン殿下と結ばれたとしても将来は安泰です。あのシャルルにしては、本当に上出来でした」
メフィレシア公爵は常になくぺらぺらとしゃべり続ける。こんな公爵は初めて見た。動転がこの饒舌をもたらしたのか、それとも、現実逃避のため思い出に没頭しているのか。
わたしはただ、銃を握る自分の右手に神経を集中し、一秒でも早く震えよ止まれと念じ続けていた。
「あなたは優秀すぎるほど優秀なご子息をお持ちだから、おわかりにならないでしょうが……弱い子を持つ親というのは、我が子が何かに対してやる気を見せてくれただけでもうれしいのです。自分の意志で何かを始めようとしている。ただそれだけでも。シャルルがシスティーン殿下にそそのかされて、よからぬ企てに参加し始めたことを知り、私は喜びました。もともと陰謀や策略はメフィレシア家の最も得意とするところ。ようやくシャルルも、メフィレシア家の後継者にふさわしい事業に手を出し始めたのか、と……。陛下の暗殺とは、初仕事にしては大それた企てですが、成功すれば報酬は莫大だ。私は親として、ときどき必要な手助けをしながら、シャルルの初めての陰謀を見守りました」
血にまみれた暗殺計画を子育て論に転化しようとする、この男の感覚が理解できない。貴族という連中は皆そういうものなのか。
わたしは口をはさまずにはいられなくなった。
「その『必要な手助け』の中に、わたしの息子を殺したことも含まれるわけですか」
メフィレシア公爵は急に口をつぐみ、夢から覚めたような表情でわたしをみつめた。
「いえ。その。本当のことを言いますと」
公爵の常ならぬ饒舌は途切れた。いつもの、ためらいがちな朴訥とした口調が戻ってきた。
「うちの執事にあなたのご子息をフラーテス宮へ案内させたのは。ご子息の顔を見ればシスティーン殿下が観念して……その……自害されるのではないかと予想したからです。問題がここまで大きくなってしまっては……これ以上システィーン殿下の企てに加担し続けることは、メフィレシア家の利益にならないと判断しました。私もそのようにシャルルに話しておいたのですが……あの子は案の定、引き際を誤りました。これまであの子に任せたすべての仕事で誤ってきたのと同様に」
わたしは急に、自分が鳥か何かになって、非常に高い位置からすべてを見下ろしているような感覚に襲われた。南区でも屈指の広大かつ贅沢な屋敷。その四階の一室で、ズボンの前を濡らしたまま床に座り込んでいる男。その男に銃口を向けているもう一人の男。すべてがひどく小さく、無力で、取るに足りない。
夜の闇に包まれたクテシフォン・シティ。華やかな虚飾の灯りに彩られたその暗い街で、二千万人超の間が眠り、夢を見、愛し合い、働き、酒を飲み、娯楽に興じ、笑い、嘆き、苦しみ、絶望し、その他の些末な営みにうつつを抜かしている。この引金を引いたところで、たいしたことは起こらない。二千万人のクテシフォン市民の暮らしは明日も変わらず続いていくし、クテシフォン市以外の自由都市にとっては、存在しないに等しい些細な出来事だ。
わたしのこのちっぽけな身ひとつを満たす憎悪も慟哭も。
広大な世界から見れば何の意味も持たない。何も動かさないし何も変えられない。
わたしはいつの間にか自分が銃を下ろしていることに気づいた。メフィレシア公爵は床に座り込んだまま、シャルルのタキシードを胸に押し当て、すすり泣いていた。
「悪いのは私です。あの子の身の丈に合わない陰謀を任せて、すべてをだめにしてしまった。どうか……どうか私を裁いてください、カイトウさん。元凶は私なのです」
公爵の女性的な容貌は涙でぐしゃぐしゃだった。しゃくり上げるたびにその顔が醜く歪んだ。
「あなたに裁かれるのなら納得できる。あなたの怒りは正当だ。あんな悪魔みたいな人でも、あなたにとっては可愛いわが子だったのでしょうから。……保身のために私を切り捨てた《あの連中》にやられるぐらいならっ……!」
いくら泣かれても憐れみを感じなかったし、その言葉にも共感を覚えなかった。わたしは公爵に背を向け、歩き始めた。急に、この男と同じ部屋の空気を吸っているのが耐えがたくなってきた。わたしの足は速まった。
心を支配していたのは、おそらくこういう形で仇を討っても息子はけっして喜ばないだろうという思いだった。
アンドレアは、数えきれないほどの人命を奪ったし、やり方はめちゃくちゃだったが、それでもいちおう正義を実現しようとして闘っていた。
こんな風にいきなり人の家へ乗り込んで、感情のままに相手を撃ち殺すのは、正義ではない。それは単にわたしの怒りを発散するための行為だ。そこいらの犯罪者と大差ない、そんな私の行いをアンドレアは許してくれないだろう。
(地獄で再会してまで嫌味を言われたのじゃ、たまったもんじゃないからな)
わたしの唇が苦い笑みに歪んだ。たとえ地獄であっても、またアンドレアと再会できると想像すると、それだけで心が少し明るくなるのを感じたからだ。
部屋を出て、背後で扉が閉まる音を聞いたとたん、堰を切ったように大量の涙があふれ出し、頬を伝ってしたたり落ちた。わたしは、今や息子の形見となったハンドガンを抱きしめ、号泣した。




