第18章(3) アンドレア・カイトウ署長
メフィレシア公爵を逮捕した頃から、ぼくはなんとなく署で夜を明かす習慣がついてしまっていた。やらなければならない仕事は山積していたし、母を名誉市長に託してからというもの、だれもいない自宅に帰る意義はほとんどなくなっている。
王宮内で捜査を続けている捜査員からの報告書。留置中の《影の軍隊》の構成員や王党派の貴族たちの尋問調書。それに加えて、市内で急増しているデモや小規模な暴動に関する特殊戦略攻撃部隊(SSAT)からの報告書や、市長直轄の公安委員長からの意見書。目を通さなければならない書類は増える一方だ。
反王党派のぶざまな議会運営のせいで貴族院の迷走が続く中、王国政府に対するクテシフォン市民の不満はかつてないほどの高まりを見せていた。「パールシー王国からの独立」を叫ぶ声が、分離独立派だけでなく一般市民の中からも起こり始め、学生等による貴族院周辺でのデモが頻発していた。
――街が束の間の平穏に包まれている夜明け直前の時間帯。ぼくは淡い紫色に染まり始めた窓の外の空を眺めながら、仮眠をとるべきかどうか思案していた。
数日前、署長室で仮眠をとっている時にふと気配を感じて目覚めると、ジョー・ブレア警部補が無言でぼくの顔をのぞき込んでいたのだ。ぎょっとするほど近い距離だった。始業時刻よりはるかに前で、署内に職員がほとんどいないはずの時間帯だ。
ぼくがこれまでブレアを巻き添えにしてきたトラブルの数々を考えると――寝首をかこうとしているという可能性を排除しきれなかった。
「用事があるなら声をかけてくれ。そうやって無言で近づかれると、うっかり撃ってしまうかもしれない」
そう言ってやると、ブレアはあからさまに挙動不審な様子で「いえ。別に用事はないんです。お邪魔しましたぁ」と、そそくさと部屋を出て行った。
署長室の内側から施錠して仮眠しよう、という結論に達したとき、デスクトップのブザーが鳴り警備課との通信が開いたことを知らせた。閉庁時間後も唯一外へ向かって開かれている夜間受付窓口からの通信だ。
「署長。妙な男が、署長に渡してほしいと言って封筒を持ってきました。見るからに怪しいやつなんですよ。フードをかぶっていて、カメラに顔が映らないようにしてるのが見え見えで。用紙に名前と住所を書くよう言ったら、あわてて逃げて行きました」
窓口担当職員のそれほど緊迫感のない声が響き、封筒の画像と、封筒を持ってきた男の映像が送られてきた。フード付きの黒い外套を着込んだ大柄な男だ。目深にかぶったフードが口元近くまで顔を覆い隠している。
封筒は、質の良さそうな白い書簡用封筒だった。封筒の表には『a2F』という文字が書いてあった。
封筒の内容物の解析画面が表れ、前の二つの画像に重なった。
『二酸化ケイ素 100%』
の文字が明滅。描き出された内容物のシルエットは、チェスのクイーンの駒に似ていた。
「水晶ですね、おそらく。爆発物や毒薬の類は入ってないようです。どうしましょう? この封筒、科研に回しときましょうか?」
a2Fというのは、ぼくがメフィレシア公爵のフェアリーチェスを詰めた時の手だ。クイーンを使って。それを思い出した瞬間、眠気が吹き飛んだ。
ぼくは高速エレベータで一階へ降りた。最寄りの扉を開けて、朝靄の渦巻く路上に足を踏み出した。つめたい空気に満たされた早朝の凱旋門通りは、車が一台、二台行き交うだけで、閑散としている。案の定、フードをかぶった大男が舗道に立ち、ぼくを待ち構えていた。
眼窩の深みに沈む瞳、打たれ強そうながっしりした顎に見覚えがある。
メフィレシア公爵の執事のカルロス・フリードマン。べリアル大侯爵を死に追いやった疑いがある従者クルト・フリードマンの兄にあたる男だ。
夜と朝との狭間の薄闇はすべての事物に、現実感を削ぎ落す奇怪な陰影を加えている。明るみつつある空の下、その容貌をぼんやりしか見て取れない眼前の男が、不吉な使者に見えた。あきらかにメフィレシア公爵の命を受けて動いているこの男は、いとも簡単にぼくを市警本部ビルから誘い出すことに成功したのだ。
「何の用だ? こっちはなぞなぞ遊びにつき合っていられるほど暇じゃないんだ。……さっさと用件を言わないと適当な口実を作って留置場へぶち込むぜ」
普段より七割増しぐらいに短気なぼくのせりふにも、フリードマンは眉ひとつ動かさなかった。その物腰も口調も、名門貴族の屋敷の執事にふさわしい丁重さを失わなかった。
「このような非常識な時間に参りましたこと、どうかご容赦ください、カイトウ署長。さるやんごとなきお方が内密にあなた様にお会いしたいとおっしゃっておりますので……ご同行をお願いできないかと思って参上しました。今から出発すれば、朝のお茶の時間までには向こうへ到着できるでしょう」
「その『やんごとなきお方』というのは?」
「システィーン・リインヌ・アルシャーク殿下でございます」
相手の言葉に、ぼくは不思議なほど驚きを感じなかった。おそらく封筒に入れられていたクイーンの駒が一種の暗示になっていたのだろう。
「……姫君をかくまっているということか。やはり取調室で話をした方がよさそうだな」
すぐにでも銃を抜ける態勢でぼくが一歩を踏み出すと、フリードマンは落ち着き払った態度を崩さないまま、手のひらをこちらへ向けて制止の意を示した。
「わたくしを拘留されても、有益な情報は得られないと存じます。殿下は現在、市内某所の別荘でお過ごしですが、わたくしがあなた様を連れて朝のお茶の時間までに戻らなければ、即座に別の場所へ移動される手筈になっております。その移動先がどこであるか、わたくしは知らされておりません。もしあなた様が殿下にお会いになりたいのであれば、わたくしに同行していただくのが一番よろしいのではないかと」
ぼくは舌打ちしたい気分になった。宮内庁長官のケレンスキー公爵からは、市内の王家の施設のどこにもシスティーン姫は滞在していないという回答を受けていたのだ。反王党派を標榜していてもしょせんは貴族。完全に信用してはいけなかったということか。
ぼくの内心を読み取ったかのように、フリードマンは、
「宮内庁の中には、依然として我が主メフィレシア様に忠誠心を抱いている方も少なくございません。どさくさに紛れて長官になった程度のお方では万事を掌握するのは不可能でございましょう。ケレンスキー様のご存じない王家の別荘が市内にはまだまだ何か所かあるそうでございます」
と、しゃあしゃあと述べた。薄気味悪い男だ。
見えすいた罠の気配が気に入らない。メフィレシア公爵のほくそ笑む顔が目に浮かぶようだ。だがシスティーン姫の所在をつかむこの機会を、逃すことはできなかった。ぼくは瞬時に決断した。
「わかった。あんたと一緒に行く。少しここで待っていてくれ、すぐに戻るから」
「まことに申し訳ございませんが。殿下はあなた様と内密のお話合いを希望しておられます。無粋な警官隊の介入や騒動などは、殿下の望まれるところではございません。……部下の方々に連絡したりせず、このままわたくしにご同行いただけませんでしょうか? われわれの乗った車を交通監視システムで追跡させて別荘に警官隊を差し向けるというのも、できたらお控えいただきたいです。殿下とお話しになれば、警官隊の必要がないことがあなた様にもご理解いただけると思いますので。どうか、平にお願い致します」
言葉遣いこそ丁寧だが、それはあきらかに強要であり、命令だった。しかし、いったん乗ると決めた勝負だ。後に引くという選択肢はない。「上等だ。あんたの車はどこだ?」と尋ねると、フリードマンは二ブロック離れた駐停車可能道に停めてあるリムジンまでぼくを先導した。
執事がうやうやしい態度で、わざわざ手動で開いた扉から、車内の様子をうかがってみる。中でだれかが待ち伏せているという様子もなく、不審な点は見当たらない。車に乗り込む前に、ぼくは動きを止めて、自分より頭一つ分背が高い相手の深い眼窩の奥を睨みつけた。
「ひとつ警告しておくが。ぼくを一人でおびき出せばどうにかできるなどという考えは捨ててもらった方がいい。今のままでも、ぼくは百人は殺せる程度の火力で武装している。それに万一ぼくを殺しても現在行われている捜査は止まらないぜ」
すると、相手の顔の造作が初めて動き、表情らしきものを作った。それはかろうじて微笑みに分類できなくもない表情だった。
「あなた様は単刀直入な表現をお望みのようですから……『何をおっしゃっているのかわからない。わたくしは人に危害を加えるような人間ではない』という空事は抜きにさせていただきます。わたくしもこのクテシフォン市に暮らす人間ですから、あなた様のご評判は聞き知っております、カイトウ署長。単身でタブレット・ギャング団を壊滅させ、《セメスト》の四十人の殺し屋軍団を皆殺しにしたようなお方を相手に、真正面から暴力に訴えるほどわたくしは無謀ではございません。どうか信じてくださいませ。システィーン殿下は本当にあなた様との会談を望んでおられるのです。そして殿下のご希望をできる限りかなえるようにというのが、我が主から仰せつかったわたくしの勤めでございます」
高級リムジンの乗り心地はさすがに快適で、カルロス・フリードマンも優秀な運転手だった。車は意外と短い時間で《外周》ハイウェイを出て《郊外》へ入ったが、贅を凝らした後部座席にいると、車の無茶な走行ぶりはまったく伝わってこなかった(これだけ短時間で《郊外》へ着くためには、相当な制限速度違反を犯したはずだが)。《郊外》では建物もまばらになり、開拓前の時代を彷彿とさせる豊かな自然が広がっている。やがて、朝の日光を受けて眠そうにまたたく水面が右手に見えてきた。ハルルト湖だ。
狂ったように激しく明滅する木漏れ日の中、並木道を通って湖を半周すると、木立の向こうに白く輝く小宮殿が見えてきた。
フラーテス宮だ。宮内庁の記録によると老朽化のため五年前に使用が停止され、取り壊しが計画されている建物のはずだ。しかし、近づくにつれて視界に入ってくる、手入れの行き届いた庭園から察するに、現在も人の居住に使用されていることは明白だった。
色鮮やかな花の咲き乱れる庭園を抜けて、フリードマンは美しく清掃された車寄せにリムジンを停めた。
執事の手で車のドアが開かれると、さわやかな空気と鳥の鳴き声が流れ込んできた。
玄関に、恰幅の良いお仕着せ姿の中年男が待機していた。王宮の使用人と同じデザインのお仕着せだ。中年男はフリードマンと、こちらには聞き取れない小声でふたこと、みこと言葉を交わしてから、ぼくらを室内へ案内した。
最初の印象は「薄暗さ」だった。これでもかと言うほど灯された大量のシャンデリアも、建物の古さがもたらす陰鬱な空気を払拭しきれずにいる。玄関ロビーから廊下にかけて、錆だらけの甲冑や刀剣、古めかしい壺、素朴な作風の絵画など文明低迷期の骨董品が整然と並んでいる。まるで博物館だ。考古学愛好家にとっては垂涎ものの品揃えだろうが、宮殿の雰囲気を華やかにする役には立っていない。
目的地は、長くない廊下といくつかの部屋を通り過ぎた先にあった。ひときわ重厚な造りの扉。
フリードマンはその扉をノックし、控えめだがはっきりとよく響く声で呼ばわった。
「姫様。お話ししてあったお客様をお連れしました。朝のお茶をご一緒なさいますか?」
少しの沈黙の後、扉の向こうから、聞き覚えのある快活な声が聞こえてきた。
「あら。そういえば昨日、そんな話をしていたわね。あたくしをびっくりさせるような人を連れてきてくれるとか。どなたなの?」
「クテシフォン市警のカイトウ署長様です」
「まあ、素敵。少し待っていて。すぐに支度しますから」
どうやら目の前のこの部屋は王女の寝室らしい。間髪入れず、ぼくらの背後から足音をたてずに二人の侍女が現れ、扉を開けて寝室内へ消えていった。
システィーン王女と侍女が支度をしている間、ぼくは銃を突きつけ、フリードマンを手近な大理石の柱に手錠で縛りつけた。今のやり取りだけで、王女がぼくと話したがっているというやつの言葉が嘘であることが判明したからだ。戦闘訓練を受けていることを完全には隠せていないフリードマンに対し、背中を向ける気持ちになれない。
やがて寝室の扉が再び開かれ、侍女たちがしずしずと退出した。「どうぞ」という許しの言葉を合図に、ぼくはシスティーン姫の寝室に足を踏み入れた。
窓の多い寝室内はまばゆい日光と新鮮な空気で満たされていた。部屋のいちばん奥には開け放たれたフランス窓があり、ハルルト湖を一望できるテラスへと通じていた。揺れるカーテン越しに、深緑色の森に縁どられた輝く湖面が見て取れた。
絹張りの大きなソファに、システィーン姫がくつろいだ姿勢で腰かけていた。
窓から差し込む光の中で、長い金髪が黄金のきらめきを発した。その卵型の顔は美しく、王者の威厳と強烈な磁力を漂わせていた。
菫色の瞳に射抜かれると、追いつめられているのはこちらであるかのような錯覚にさえ襲われる。
「何てうれしい驚きでしょう。どうぞ、こちらへ来て、お座りになって」
差し招かれるまま、ぼくは姫に近い位置の椅子に腰を下ろした。
システィーン姫の背後に、裸にガウンをだらしなく羽織ったシャルル・ド・メフィレシアが立ち、親しさをアピールするかのように姫のむき出しの肩に両手を置いていた。
映画俳優と言っても通るような甘く整った顔立ち。長い睫毛に縁どられた青い瞳。
ひと目見ただけでわかる。どこの社会にも、掃いて捨てるほどいるタイプだ――女を食い物にして生きるしか能のない男。『ヒモ』というのが最も一般的な用語だ。
相手にする価値はないと判断し、ぼくは姫に神経を集中させることに決めた。
「あたくし、とても退屈していたんですの。この別荘に閉じ込められて、一歩も外へ出してもらえないのですもの。もう三週間以上。お芝居を観るのも水遊びも嫌いではありませんけど、そればかりでは、ね……。あなたが来てくださってうれしいわ。このシャルルは恋人としては最高だけど、正直言って、話し相手としては物足りなくて。ちょっと飽きてきたところでしたの。その点あなたなら、話し相手としても目の保養としても申し分ありませんものね」
「ぼくは、あなたに娯楽を提供するためにここまで来たわけじゃありません。もしかして……何も聞いておられないんですか? 本当に?」
ぼくは姫の目をまっすぐ見据えた。
こちらを見返す姫の瞳が、わずかに翳った。
その様子を見てぼくは再び、言葉にできない違和感を覚えていた。
「ねえシス。『飽きてきた』なんて言わないで。試していない遊びがまだ色々あるんだ。きみもきっと気に入るよ。こんなやつさっさと追い払って、ベッドに戻らないか?」
シャルルが身をかがめて姫の耳元に唇を寄せ、男らしさを誇示する低い声で囁いた。
姫は男を一顧だにしなかった。ぼくをじっとみつめている。笑みが消えたその白い顔の中で、双眸だけが不意に落ちくぼんだように見えた。
「――あたくし、だれからも、何も聞かされておりませんわ。何一つ。あなたがそれを私に話してくださると期待していいのかしら?」
「そうですね。ぼくは現状をあなたにお伝えします。そして、できれば、あなたの方もぼくの質問に答えてくださるとありがたい」
シャルルがシスティーン姫の耳や首筋にキスを落とし始めた。姫は振り返りもせずに、うるさそうに男の顔を押しのけた。
男の端正な顔が屈辱に赤く染まるのが見えた。やつは姿勢を正し、怒りの矛先をぼくに向けた。自分を大きく見せようとするかのように肩をそびやかし、胸を張って、眼をぎらぎら光らせながらこちらに歩み寄ってきた。
「とっとと消えたまえ。ここは身分の低い者が立ち入って良い場所じゃない。邪魔だと言っているんだ。分をわきまえろ」
大声で叫ぶ。
「……この男、叩き出してもかまいませんか。話の邪魔になる」
ぼくは姫に尋ねた。姫の瞳に、目新しい遊戯を面白がるかのような残酷な歓びの光が宿った。
「どうぞ。あまり、ひどくしないのであれば」
「ぼくをだれだと思ってるんだ! ぼくは、メフィレシアだぞ! メフィレシア家のれっきとした後継者だ。たかが平民風情が、何も知りもしないくせに……!」
ヒステリックにわめき散らすシャルル。ぼくは椅子から立ち上がり、初めてやつをまともに見据え、正面から視線を合わせた。
「あんたがだれなのかは十分わかってる。シャルル・ド・メフィレシア。三週間前からあんたをずっと探してたんだ。組織犯罪取締法第三十三条に基づく逮捕状が出ている。このフラーテス宮の敷地から一歩でも出たが最後、逮捕する。今のうちに身辺の整理でもしておけよ。もうあんたに逃げ場はない」
興奮に紅潮していたやつの頬から見る見るうちに血の気が引き、今度は蒼白になった。その青い瞳にはっきりと怯えが浮かび上がった。
「このっ……平民がっ……! たかが平民のくせにっ……! 思い上がったことをっ……!」
「ボキャブラリーが貧弱だな。同じ悪あがきをするのでも、あんたの父親の方がもっと表現豊かだったぜ」
「……!」
言葉を失い、シャルルの目の端に涙が浮かび始める。
恋人の狼狽ぶりに、システィーン姫の顔に同情の色が浮かんだ。
「ねえシャルル。食堂へ行って、朝のお茶を頂いていらっしゃいな。あたくしは、カイトウ署長と二人で大切な話がありますから、それが終わったら合流します。ルーファウスに、劇場で『美徳の終焉』を上演するように伝えておいて。今日はとびきり情熱的なお芝居を観たい気分なの」
「わかったよ、シス」
鼻をぐずぐず鳴らしながら寝室を出ていくシャルルの後ろ姿を見送りながら、ぼくは先日から姫の言動に覚えていた違和感がはっきりした形を取るのを感じていた。
社交の場に君臨している時の露悪的な言動、派手なふるまい、会話を深めるためではなく相手を追いつめるためにひけらかされる知性と教養。そういった攻撃的な要素を取り払った素のシスティーン姫は、落ち着いた普通の女性に見えた。ぼくをじっとみつめるその瞳には思慮深さがあった。
「三週間前からシャルルに逮捕状が出ているとおっしゃったわね。外ではいったい何が起きていますの?」
「三週間前、宮内庁の人事に大幅な変更があり、メフィレシア公爵に代わってケレンスキー公爵が宮内庁長官に就任しました。新しい長官は、王宮内で市警が捜査を行うことを許可しました。その結果、クレハンス十三世陛下がアズフォルデ・キノホルム中毒であり、その毒物を陛下に投与していたのがエヴァンジェリン殿下であることが判明しました。エヴァンジェリン殿下のご様子がおかしいので精密検査を受けていただいたところ、殿下が《星砂》という薬物の影響下にあり、自由意思を制限されていることがわかりました。《星砂》というのは人間を、与えられた指示通りにしか動けない低級ロボットに変えてしまう薬物です」
ぼくはざっくりと話を進めた。相手はすべてを知っている真犯人なのだから、詳しく説明する必要などないだろう。
「多数の使用人の証言から、警察では、エヴァンジェリン殿下に《星砂》を与えて言いなりにし、陛下に毒物を投与させたのはあなただと考えています。毒物を調達していたのはメフィレシア公爵です。公爵は、エヴァンジェリン殿下と大体同じ年恰好の、何も知らない女性たちを実験台にして《星砂》のデータを取り、エヴァンジェリン殿下をちょうど『操りやすい』状態に仕立てました。あなたにアズフォルデ・キノホルムや《星砂》を渡していたのはシャルル・メフィレシアです。ペンダントの宝石の中に隠して」
システィーン姫はひとことも口をきかずにぼくの言葉に耳を傾けていた。表情はほとんど動かなかったが、その顔色だけがどんどん蒼白になっていき、内心の動揺を表していた。
ぼくは、あっさりと説明をしめくくった。
「十分な物証と証言がありますので、宮内庁も市警の捜査結果に納得しました。それで我々はずっとあなたを探していたわけです。あなたは王族なのでクテシフォン市の刑法の適用を受けない。殺人未遂で逮捕されることはない。その代わり、あなたの処遇については宮内庁が決定します。――あなたの行為に加担していたメフィレシア公爵と現在の宮内庁長官のケレンスキー公爵とは犬猿の仲だ。ご存知かどうかは知りませんが。宮内庁によるあなたの処断は、けっして甘いものにはならないでしょう」
「……」
姫が何も答えなかったので、しばらく沈黙が続いた。テラスで飛び交う陽気な鳥の声だけが響いていた。
やがて、姫は、ふうっと大きな息をついた。称賛に値するほど冷静な態度だった。
「おしまいですのね。何もかも」
「そうですね。さしつかえなければ、動機を聞かせてくれませんか。王位継承権ですか、やっぱり?」
「あたくしはもう死んだも同然です。メッシモの僻地の寒い修道院に幽閉されて、一生だれとも会わずに朽ち果てていく身です。そんなあたくしが何を考えていたのかなんて……今さら知って、どうなるというのです? 結果は何も変わりませんわ」
理由はわからないが、彼女のその言葉は嘘だと直感した。彼女は本当は、動機を人に知ってもらいたがっている。理解されたがっている。
しかし、ぼくは肩をすくめて、「後学のためです」とだけ答えた。
謀殺犯の心を救済してやろうと願うほど、ぼくは慈悲深くはないのだ。
それに、他にも知りたいことがあった。メフィレシア公爵の執事フリードマンが、なぜわざわざ姫の隠れ家までぼくを案内したか、ということだ。市警も宮内庁もこの隠れ家の情報をつかんでいなかった。フリードマンの案内さえなければ、姫は好きなだけこの小宮殿に身を隠し、頃合いを見てクテシフォン市を脱出して行方をくらますこともできたはずだ。メフィレシア公爵の領地内に隠れてしまえば、公爵の同意がない限り、もはや何者も姫に手を触れることはできない。宮内庁による処断も逃れられただろう。
ぼくが公爵と打ったチェスの手を知っていたのだから、フリードマンが公爵の意を受けて動いていることはまちがいない。
しかし公爵がわざわざ、手配中の息子シャルルも潜んでいる隠れ家の所在を市警に教えるだろうか。
――疑問に対する答えは、フリードマンを尋問することによって得られるかもしれない。《影の軍隊》の連中の口の堅さを考えると見込み薄だが。
システィーン姫が動いた。ソファから腰を浮かし、まるでドレスの皺を直そうとでもするように、背中へ手を回した。背中から戻ってきた手には銃が握られていた。ゴライアス社の最新式の護身用小型銃だ。小さく無反動だが殺傷力は十分。銃口は揺らがずこちらへ向けられている。
ぼくは思わず舌打ちした。相手が王族だというそれだけの理由で油断していた、自分の愚かさに。高貴な身分だろうとなんだろうと、目の前の女性は、追いつめられ絶望した殺人犯にすぎない。武装の有無を最初に確認しなかったのは、うかつとしか言いようがなかった。
真新しい武骨な火器は、「王者の手には神が宿る」とまで言われる優美な手には不似合いだったが、銃を構える手つきに逡巡はない。
「ごめんなさい、カイトウ署長。悪く思わないで頂戴」
システィーン姫が、まるで本当に申し訳なく思っているような口調で言った。
「あなたが来ることは予見されていました。北の空に昇る、まがまがしく美しい新星。クテシフォン市警本部は宮殿から見て北にありますものね。おばばの占いは外れたことがないんですの。ですから、あたくし、準備していました。あなたが今日いらっしゃったと聞いて……悟りましたわ。運命の時が来たことを」
至近距離で突きつけられる銃を眺めながら、しかし、ぼくは恐怖を感じていなかった。小型銃に対しARFの防御は有効だ。それに、王女は射撃の名手かもしれないが、身体能力はむしろ一般市民より低い。日常の雑事を使用人に任せ、自分はほとんど動かない生活をしているのだから当然だ。この距離なら簡単に体術で圧倒できる。
整った顔を殴りつけることにためらいを感じているぼくは――できるだけ手荒な真似をせずに銃を取り上げたいなどと思案しているぼくは、たぶん自分で思っているよりはるかに甘い人間なんだろう。相手は犯罪者なのに。
「わかっています。逃げ切れないということは。でも、あたくし、できるだけあがいてみるつもりです。……僻地にただ一人、死ぬまで何十年も幽閉されるなんて、とても耐えられそうにありませんもの」
「あなたは……システィーン殿下じゃない。別人だ。……そうじゃありませんか?」
その言葉は、考えるより先にぼくの口から転がり出た。
意識的な洞察より、無意識のうちに蓄積した情報に基づく判断の方が先行することがある。俗に直感とか第六感とか呼ばれるたぐいのものだ。自分でも思いもよらない言説だったが、ぼくはそれが正しいことをなぜかすでに確信していた。虚を突かれ、目を大きく見開いている相手を見据えつつ、ぼくは言葉がひとりでに紡ぎ出されるに任せた。
「システィーン殿下なら……『悪く思わないで』なんて言わない。さっきみたいに男を気遣って、席を外すチャンスを与えたりしない。ぼくの知っているシスティーン殿下は他人の感情など考慮しない人だ。……先月の常夜会の時から、少しおかしいと思っていた。あなたはぼくに言いましたね、『ずいぶんうかない顔をしている』と。本物のシスティーン殿下なら、そんなことなど、気づきもしなかったはずだ」
「……」
沈黙。相手から否定が返ってこない。それを肯定のしるしとみなしていいのか。
ぼくは自分のせりふを手がかりに結論に達し、そしてその結論に慄然とした。
「あなたは、エヴァンジェリン殿下だ。そして《星砂》で自発性を失い、操られるままに陛下に毒を盛ったのがシスティーン殿下だ。……そうなんですね?」
彼女の両腕が、自らの重みに耐えかねたかのように、はらりと垂れ、体の側面に投げ出された。その勢いで、力を失った手から銃が飛び出し、床に落ちた。
ぼくはすかさず銃を拾い上げたが、彼女はもう武器の存在など忘れてしまったように、涙のたまった瞳で中空を睨み据えていた。
あなたのご両親は健在ですの、と穏やかな口調でエヴァンジェリン王女が尋ねた。
法律上血族一親等に該当する人間ならとりあえず生存していますが、とぼくはいささかぶっきらぼうに答えた。
天気の良い朝だった。いつの間にか日がかなり高くなってきていた。明るい外の世界で、鳥たちの声がうるさいほどに響きわたっていた。おそらくテラスで餌をもらうのが習慣になっているんだろう。カーテンのすぐ外に多数の鳥が集まっているようだった。
数か月前からシスティーン姫になりすましていたことを、エヴァンジェリン姫は白状した。瓜二つの容貌を持つ二人の王女が入れ替わっていることを周囲のだれも気づかなかったという。エヴァンジェリン姫は社交界で奔放に振る舞い、自分の殻を破る喜びを味わった。システィーン王女に「化けた」途端、周囲がちやほやしてくれるようになった。一方、《星砂》のせいで自発意思を失った本物のシスティーン姫は、ほとんど口もきかずぼんやりと日々を送ったが、周囲は不審に感じなかった。もともとエヴァンジェリン姫は無口でおとなしい人物だと思われていたからだ。
ぼくは王女の自白に耳を傾けながら、動機の手がかりを見出そうとしていた。下手人が第一王位継承権を持つエヴァンジェリン王女だとすると、システィーン王女を陥れた動機が見えにくくなる。彼女には妹である第二王女を排除しなければならない理由はないはずだ。逆ならば話はわかりやすいのだが。
「親が、自分を見てくれていない。見てくれようとしない。そう感じたことはおありになる?」
唐突な質問を受け、ぼくは思わず相手の顔を見返した。
エヴァンジェリン王女は奇妙に真剣な表情でぼくの目をのぞき込んでいた。
ぼくは自分の親のことを思い返してみた。いちおう父親に該当するらしい阿呆は、娯楽と刺激を求めて外宇宙をほっつき歩く風来坊。ぼくの幼少の頃の母は全身麻痺で、ただ生き続けるという他になにもできない状態だった。体の自由を取り戻した母と一緒に暮らすようになって三年になるが、ぼくが忙しいせいもあって、あまりまともに話をしたこともない。
「……たぶんぼくには、一般的な親子関係についてコメントする資格がないと思います」
そう答えるしかなかった。
エヴァンジェリン王女は、ぼくの無愛想な答えに気分を害した様子もなく、感情をこめて話し続けた。
「何よりもつらいことですの。親に見てもらえないというのは。世の中のあらゆる物を手に入れてもその欠落は埋められない。たとえ恋した殿方を射止めたとしても。すべてむなしい。いちばん認めて欲しい人に、認めてもらえないのですから」
全世界に聞かせようとでもいうような大声だった。激情がその言葉のはしばしを震わせた。
「システィーンとあたくしは双子なのに性格が正反対で、システィーンは明るくて天真爛漫で、人をひきつける魅力を生まれながらに備えていましたわ。家族は皆あの子を可愛がりました。あの子が家族の中心でした。みんなは、あたくしも他の人と同じようにシスティーンを愛しているはずだと思い込んでいました。あたくしがどれだけ苦しんでいるかも知らないで。二番手の愛情など、心を満たしてくれないのです。いちばん愛されたかったのです。あたくしはシスティーンの付属品ではないのに。……でも、けっきょくだれも、あたくしのことをちゃんと見てくれはしませんでした」
「それが殺人の動機ですか」
「そうね。お父様が生きていて、しかもあたくしを愛してくれないから、苦しいのです。お父様さえいなければ全然苦しくないわけだわ。そう気づいたとき、心を覆っていた黒い雲が晴れて青空がのぞいたような気持ちになりました。それに気づくまでの十数年間……苦しかった。本当に苦しかった。あたくしのいちばん大切な人たちでさえ、あたくしを妹の影としか扱ってくれないのですもの。いつも心の中で叫んでいました、『あたくしはここよ。あたくしを見て頂戴』と」
精巧な美術品のような調度品に囲まれた豪奢な部屋で、美しい貴婦人と向かい合って座っていると、まるで社交界のサロンのような錯覚に陥る。相手はついさっきまでぼくに銃を突きつけていた殺人犯で、ぼくは彼女の手放した銃を握っている状態なのだが。
父親が自分を愛してくれないから殺そうとした。
人一倍華やかな妹がうらやましかったから薬物を盛って意思を奪い、妹になりかわった。
一国の君主の生命を脅かし、多くの人々を巻き込んだ陰謀の動機としては、あまりにも幼稚で短絡的だ。
しかし人間というのは、実に些細な動機で人を殺し、傷つけるものだ。人の心の動きなどだれにも計り知ることはできない、その本人でさえも。そのことがわかるぐらいには、ぼくも経験を積んでいた。
「――親なんて、それほど重要視しなければならないものですか? 世の中、親がいなくても幸せに暮らしている人は大勢いますよ」
ぼくが軽い気持ちで発した言葉に対し、エヴァンジェリン王女は菫色の瞳を大きく見開いた。
かと思うと、突然声をたてて笑い始めた。ヒステリックな響きの混じる声で。
「ああ、きっとあなたは……『愛されない』苦しさを知らないのね。きっと周囲からの愛に包まれて育ったのね。だからそんなことが言えるのだわ」
絹張りのソファに座り、相手の笑い声を聞きながら、ぼくは一瞬まったく別の空間に放り込まれたような錯覚に襲われた。
六年前、全身用の補装具と数度の手術のおかげで再び体が動くようになったとき、母が最初にしたことは、ベッドから立ち上がってぼくを抱きしめることだった。
『……死ぬつもりか?』
中央区の公園で最後に会ったときの名誉市長の必死の顔。つらそうな声の響き。
――“愛されている”のか、ぼくは? いつの間にか、もうとっくに、赦されていたというのか?
これ以上考えてはいけない、と本能が告げていた。これ以上考え続けると――使命を果たすため必要な推進力を失ってしまう。
ぼくは小型銃を握った手に力をこめた。銃は特に構えておらず、膝の上に置いているだけだったが。慣れ親しんだテンシル鋼の感触が、必要な現実感を与えてくれた。
「あなたには絶対に理解できない。この苦しさ、寂しさは。なにをやっても満たされないの。体の中にぽっかりと穴が開いていて、そこからすべてが抜けていってしまうような気持ちですのよ」
そう叫ぶ王女は、もはや笑っているのか泣いているのか判然としない顔を歪めていた。
ふと、その声が止んだ。王女の顔から激情が消えた。あっけにとられたようなうつろな目で、ぼくをみつめている。
いや、正確には、ぼくの肩越しに後ろを。
灼熱の巨大な塊が背中を貫き、体内を埋め尽くした。ぐちゃぐちゃ、と肉を裂かれる感触が体の奥深くから伝わってきた。こらえきれず声をあげようとしたぼくは、気道が生ぬるい液体で満たされ、呼吸ができないことに気づいた。体を二つに折り、液体を吐き出して、空気を確保しようと喘ぐ。足元の純白の絨毯に濃い緋色の液溜まりができた。ぼくは自分の胸から先の尖った血まみれの金属片が飛び出しているのを見た。混乱する思考の中でも、それが槍の穂先であることは瞬時に察せられた。廊下に展示されていた大昔の骨董品のひとつだ。
「このっ! 腐った平民めっ!! 平民の分際で王女様に銃を向けるとは……わきまえろっ! 分をわきまえろっ!!」
シャルル・ド・メフィレシアの濁った声が遠く聞こえる。
「見たかいシス? ぼく、悪者からきみを守ったよ! きみを愛してるんだ! ぼくだって、やればできるんだ……!!」
苦痛以外の身体の感覚が消失していく。視界が真紅に染まり急激に狭窄する。火がついたような頭の中を「槍なんて。ずいぶん原始的な武器でやられたもんだな」という自嘲がよぎった。なにか巨大で真っ黒で恐ろしいものが四方からさあっと覆いかぶさってきて、緞帳のように重々しく世界を閉ざした。




