56.愛おしい人
一瞬何が起きたか分からなかったアイリスは、呆然としたまま目の前の彫刻のように美しい顔を見つめた。
そしてそのまま自身の唇へ指を添え、思考を巡らせる。
(一一いま、もしかして、ルイス様の唇が触れっ…!?)
ルイスに口付けをされた。
そのことを自覚した途端、ぶわっと、頬に熱が集まり、先程よりも速く心臓が脈打つのを感じる。
(わたくしの勘違い一一、なんてことはないわよね!?だ、だって、明らかに指以外の感触だったし、ルイス様の顔が近付いてきたもの…!!)
自分でも何を考えているか分からなくなりながらも、アイリスは何とか口を開く。
「ルイス様、あの、今のは…」
「……すまない。つい、歯止めが利かなかった」
「わ、わたくしに、その、く、口付けを…、?」
「ああ、お前に口付けをした」
「どうして、ですか…?」
すると、ルイスはアイリスを軽く抱きしめ、アイリスの肩へと頭を預けるようにしてくる。
そして、僅かだが戸惑いを隠せないような口調で、ルイスはゆっくりと言葉を紡いでいく。
「お前が俺を『好き』と言ってくれたことが、堪らなく嬉しかったんだ。一一これが、夢なんじゃないかと疑ってしまうくらいに、俺は動揺している」
「ふふっ、夢ではありませんよ、ルイス様」
アイリスは首に回していた手を離し、ルイスのサラサラの髪を撫でる。
そうしたことで、ルイスに更に強く抱きしめられてしまうが、今のアイリスにとって、それはただ嬉しいだけだ。
「好きですよ、ルイス様。世界で一番、愛しています」
「……お前は、俺を嬉しさで殺す気か」
「あら、そんなつもりはないですよ。一一ただ、これが夢ではないのだとルイス様に知って貰うまで、何度でも言います。もちろん、知ってもらった後も!」
アイリスがそう言い切るとルイスは顔を上げ、嬉しそうに笑う。
「全く、俺はお前に敵わないな」
「そうですか?私からしたら、逆なような気がしますけど…」
アイリスは、不思議に思い首を傾げる。
しかし、ルイスは「分からなくていい」と言わんばかりに微笑むと、再びアイリスの唇を塞いでくるのだ。
「んんっ」
ついばむような軽い口付けが何度か繰り返されたあと、ルイスは美しいマゼンタの瞳をアイリスへ向けて言う。
「アイリス、誰よりもお前を愛している。それはきっと、この先も変わらない」
「ルイス様…」
「それに、想いが通じあったからには、今まで以上に俺の気持ちを伝えるから、覚悟しておけよ?」
「っ!?一一わ、私だって、負けませんからねっ!!」
ルイスに負けじと宣言しながら、アイリスはそう言い合えることを何処か嬉しく感じる。
(この先もこんな風にルイス様と過ごせたら、とても嬉しい…)
そう思ったアイリスは再びルイスを抱きしめ、囁くように言う。
「大好きです、ルイス様」
「一一あぁ、俺も好きだ」
二人は暫く見つめ合ったあと、どちらからともなく笑い合い、もう一度唇を重ねたのだった。
一一事件から数日が経った頃、公爵家のアイリスが滞在している部屋にはキャロルが訪れていた。
「アイリス!もう、心配したんだから…!!」
「ごめんなさい、キャロル。心配かけた上に女の子のことも任せたままで…」
「そんなことはいいの!!一一いろいろ事情があったというのは、軽く父様から聞いたわ。とにかく、アイリスが無事でよかった…」
ぎゅうっと、キャロルに抱きしめられる。
キャロルの表情や声色から、彼女がどれだけアイリスを心配していたのかという事が伝わってきて、胸が締め付けられる。
「せっかくのお出掛けだったのに、ごめんなさい」
「アイリス!『ごめん』って言うのは、もう終わりよ!それにお出掛けだって、まだこれから何度でもする機会はあるのだから、そう気を落とすことはなくてよ」
キャロルはそう言いながら、パチンっと片目を瞑る。
そんな彼女の言葉と明るさに、アイリスは心が軽くなるのを感じた。
「ありがとう、キャロル」
「ふふっ、いいのよ。…それよりも、何か私に報告するべきことがあるのではなくて?一一……例えば公爵様との関係、とか」
「〜〜っ!!」
そう言われ、頬に熱が集まるアイリスをキャロルが見逃す訳がなかった。
キャロルは目を煌めかせると、次々と言葉を紡いでいく。
「その様子だと、ついに公爵様のことが『好き』だと自覚したのね!」
「そ、そうです…」
「まあまあ!!それで?一一もしかして、公爵様にその想いを告げたの!?」
アイリスは恥ずかしさで俯きながらも、こくりと頷く。
「まぁ、やっぱりそうだったのね!!不思議に思ったのよ。先程、偶然公爵様にお会いした時に、以前よりも雰囲気が柔らかくなったというか、『幸せだ』っていうオーラが滲み出ていたから、もしかしてって思って!」
「うぅっ…!そんなに滲み出ていたの?」
「ええ、それはそれは分かりやすかったわ。本当に、心からアイリスを愛しているのが伝わってくるほどに」
「!!」
キャロルは優しく微笑むと、アイリスの手を取って告げる。
「アイリスが、自分の気持ちに気付いてくれて安心したわ。公爵様と、幸せになるのよ」
「うん、ありがとう」
「ないと思うけれど、もし公爵様に泣かされたら私が文句を言いに来るから!!それだけは覚えておいてちょうだい!!」
「ふふっ、頼りにしてるわ!」
そうして暫くの間二人で話していると、ふと思い出したようにキャロルが口を開いた。
「ところで、アイリスは今後も騎士団に残るのよね?」
「そのつもり、なんだけど。今そのことでルイス様と話していることがあって…」
「一一まさか、男装しているのがバレたの?」
「その可能性が大きいんじゃないかって、仰っていたわ」
実際のところその真偽は明らかではないが、「アルフは実は貴族令嬢なのでは?」という噂が騎士団内に広まっているそうなのだ。
(まぁ、無理もないわよね。ルイス様があの部屋に入ってくる前から、辺り周辺を包囲して様子を伺っていたみたいだし)
その際に小屋の周りにいた数人には、何となくだが会話が聞こえていたらしいのだ。
またそのことに加え、婚約発表で休んでいた期間と、攫われたことで本来ならいるはずの日にアルフが急に欠勤した事が重なり、「アルフ」は男装した姿である可能性が増してしまったのだ。
「本当にどうしましょう。もし男装がバレてしまっているなら、お父様達だってきっと辞めるように言うでしょうから、私は騎士団にいられないわ…」
「アイリス…」
一一騎士団を辞めなければならない。
そんな嫌な想像をしてしまうが、まだ全てが決まったわけではないのだ。
(一一……しっかりなさい、アイリス!!悩んでばかりいてはダメ。まずは何事も行動あるのみよ!!)
アイリスは両手で頬を軽く叩き、そう自分に言い聞かせる。
「私、もう一度ルイス様と相談してみるわ…!」
「えぇ、それが良いと思うわ。頑張ってね、アイリス」
「ありがとう、キャロル!」
***
その日の夜、湯浴みを済ませたルイスを部屋へ呼び止めたアイリスは、彼へ勢いよく頭を下げていた。
「お願いです、ルイス様。私はまだ、王国騎士団にいたいです」
「あぁ、俺もその意思は充分理解している。しかし、今の騎士団に『アルフ』として戻るのは、かなり難しいだろうな。何せ、中にはお前が女であることに気付いている奴もいる」
「そ、そうなのですか!?」
「残念ながらな…。やはり、セシルとの会話でお前が女だと判断したそうだ」
その言葉に、アイリスは目を瞠る。
(やっぱり、騎士団に戻るのは難しいのかしら…)
アイリスは、どうしてもやるせない気持ちになり、ぎゅっと、ナイトドレスの裾を握る。
そんなアイリスを見たルイスは、ふっと口元に笑みを浮かべ、口を開いた。
「全く、いつまで経っても騎士馬鹿だな、お前は。まあ、そこがお前らしいし、可愛いところだ」
ルイスはそう言うと、立ったままのアイリスに隣に座るように促してくる。
指示された通りに座ると、ルイスは何処か真剣な眼差しでアイリスを見つめ、驚くべきことを口にした。
「なあ、アイリス。王国騎士団に女性騎士を置こうと考えているんだが、どう思う?」
「!?」
「まだ考案中だが、これまでの誘拐事件で幼子や少女を保護する際に、男の騎士だけではどうも厳しい所があってな…。それだけじゃない。この先、お前のように女性でも騎士になりたいと憧れる者も少なからずいるだろう。勿論、男と同じ力量を求めたりはしないが、それ相応の体力や剣術を身に付けてもらう必要はある」
話を聞きながら、アイリスは視界がぼやけていく。
ルイスが提案してくれていることは、今のアイリスにとって願ってもないことだったからだ。
「だからアイリス。今すぐにとは言えないが、女性騎士として王国騎士団に入らないか?」
「はいっ…!是非、入らせてください!」
「ははっ、即答だな」
ルイスは苦笑しながらも、アイリスの涙を拭ってくれる。
その手つきがあまりにも優しくて、つい頬を掌に押し付けてしまう。
「ありがとうございます、ルイス様」
「気にするな。遅かれ早かれ、女性騎士を置くことは検討されていた。それが今になったというだけの話だ」
「それでも、です。一一本当に、嬉しいんですから」
女性騎士として入団すれば性別も、身分も偽る必要がなくなる。
そのことは全てを偽ってきたアイリスにとって、とても嬉しいことなのだ。
(やっと、何かを偽っている心苦しさから解放される…)
そう考えているアイリスの様子を、ルイスは静かに見つめている。
「……」
その様子から、何となくアイリスが考えていることを予想したのだろう。
アイリスの頬が触れている手を今度は彼女の首の後ろへ回すと、ルイスの方へ顔を引き寄せるようにされる。
「…っ!」
ふわっと石鹸の匂いがしたかと思うと、アイリスの唇はルイスの唇と重ねられていた。
しかし、すぐ離れると思われていた唇は離されることなく、深いものへと変わる。
「んんぅっ……」
「一一……」
まともに息継ぎが出来なくて、苦しくて、胸板を叩くのに、ルイスはなかなか離してくれない。
「っる、るい、す、さま……」
「一一」
ようやく離してくれた頃には、アイリスの瞳は苦しさから再び涙が浮かんでいた。
そんなアイリスをルイスは静かに力強く抱きしめると、懇願するように言葉を紡ぐのだ。
「アイリス、俺と結婚してくれ」
「る、ルイス様…!?」
「お前を好きだと思う気持ちが日に日に強くなって、誰かにお前を取られるんじゃないかと思うと怖いんだ」
(ルイス様も、怖いと思うことがあるのね)
それが自分のことなのだと考えると少し恥ずかしく感じるが、それよりも嬉しいという感情の方が大きかった。
「もしかして、私がこの姿で騎士団に入ることが嫌なのですか?」
「あぁ。きっと誰もが美しいお前に見惚れ、恋情を抱く。そうなる前に正真正銘俺の妻になれば、そんな輩は減るはずだ」
「ふふっ。存外、ルイス様は嫉妬深い方ですね」
「嫉妬深い俺は嫌か?」
そう拗ねたように聞くルイスを、アイリスは可愛いと思ってしまう。
だが、その思いをそっと胸に秘めたまま、アイリスは口を開く。
「嫌なわけありませんわ。どんなルイス様も、私は愛しています」
「一一……じゃあ、俺と結婚してくれるか?」
「はい、喜んでお受けしますわ」
「あぁ、ありがとう」
ルイスはそう言うと、とても嬉しそうに微笑む。
それを見たアイリスも、つられるようにして口元に笑みを浮かべた。
一一そんな二人が名実ともに夫婦になるのは、あと僅かのこと。
次回で最終話です!




