42.もう隠さない
アイリスとて、幼い頃のことを覚えていないわけではない。
ただ、幼い頃の思い出としてまず思い浮かぶのは、父や兄に混じって剣術を身につけていた日々のことだ。
そのため、ルイスとどのようにここで出会い遊ぶようになったかなどと、鮮明に思い出すことが難しかった。
(うぅっ〜〜!どうしてこういう時に限って、思い出したいことを思い出せないのかしら)
ルイスは「無理をするな」と言ってくれたが、アイリスだって折角なら彼との思い出を覚えていたいし、一緒に笑い合いたい。
(どんな些細なことだっていい。ルイス様とのことを、私だってもっと知っていたいわ)
ふと、ルイスの方を見ると、美しいマゼンタの瞳と目が合う。
婚約者として接する彼は、いつもアイリスのことを優しい眼差しで見つめてくる。
それは、今も同じだ。
なぜルイスがそんな眼差しで見てくるのかは分からないが、それを受けるアイリスは何処か落ち着かない気持ちになってしまう。
「ルイス様。やっぱり私は、少しでも幼い頃のことを覚えていたいです。なので、貴方様が知っていることを教えてください」
「アイリス、だから無理に一一」
「わ、わたくしが、ルイス様とのことを覚えていたいのです!!」
「!」
つい大きな声が出てしまったが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
今アイリスの気持ちを伝えなければ、きっとルイスは幼い頃のことを教えてくれないだろう。それだけは、絶対に嫌だった。
「お願いです、ルイス様。どうか私に、貴方様とのことを教えてください」
粘るアイリスに、ルイスは諦めたように小さく息を吐き出す。
「全く、俺の負けだ」
ルイスはそう言うと、風に靡くアイリスの髪へ手を伸ばし、耳へかける。
そしてそのまま、ルイスの指がアイリスの輪郭を辿るように流れていく。
「んんっ…」
そのくすぐったさに、アイリスは思わず身を竦めた。
一方でルイスは、アイリスのそんな反応を楽しむかのように目を細めるのだ。
「……くすぐったいか?」
「っ!一一ル、ルイス様、絶対に分かってやってます!?」
「さぁ?なんのことだかな」
とぼけたような口調で、ルイスが言う。
顎から流れてきたその手はアイリスの頬まできたかと思うと、下瞼を親指でゆっくりとなぞっていく。
(これは、ぜっったいに確信犯だわ!)
アイリスがじとっとした目で彼を見ても、その手が止まることはない。それどころか、何度も何度も下瞼を優しい手つきでなぞってくるのだ。
まるであやされているような仕草に、アイリスの心臓は、どきどきと音を立て続けている。
(どうして、ルイス様はこのようなことをなさるのかしら…?私の心臓はギリギリだというのに!!)
そんなアイリスの心境を知らないルイスは、ぽつぽつと、その薄い唇から言葉を紡ぐ。
「ーー何から話そうか。……ただ、一つ言うのであれば、お前と出会ったおかげで、俺は公爵家を継ぐ覚悟も、王国騎士団のトップに上り詰めるという決意もすることができた」
そう語る声色は、とても穏やかだ。
「その頃の俺は少し荒れていてな。お前と会った日も、実は誰にも言わずに外へ飛び出してきたんだ」
「えっ、ルイス様がですか!?」
「あぁ。今の俺からは想像もつかないだろう?」
少し自嘲気味に、ルイスが微笑む。
(確かに…。ルイス様は仕事もできて、剣の腕も素晴らしい。だから、そんなルイス様は幼少の頃から完璧だと思っていたけれど……)
それは、ただの偏見に過ぎない。
何でもこなせるルイスだが、最初から完璧だった訳ではないのだ。今のルイスがあるのも、幼い頃からの彼自身による努力があったからなのだろう。
「ですが、ルイス様。きっとその頃の私は、ただ剣術に憧れるだけのお転婆娘だったはずです。そんな娘が、貴方様の何を変えたというのでしょう…」
五歳のアイリスは、「まだ危ないから」という理由で剣を握らせてはもらえなかったのだ。
しかし剣に憧れがあったアイリスは両親や兄、使用人たちの隙を見ては、訓練場へばかり足を運んでいた。
それは王都のタウンハウスに滞在している時も同じで、両親が昼間いないとなれば剣代わりの木の枝を持って、敷地内を走り回っているような娘だった。
そんなことを考えていると、アイリスの下瞼をなぞる指が止まる。
「一一………」
「一一わっ!ちょっ、る、ルイス様!?」
突然、ルイスによって腰を抱き寄せられたと思うと同時に、アイリスの顎を掴まれ、強制的に上を向かされてしまう。
「ルイス、様」
「……」
アイリスの瞳のすぐ近くには、美しいマゼンタの瞳があり、互いの吐息が絡まる。
鼻先が触れてしまいそうな距離の近さに、アイリスは顔に熱が集まってくるのが分かった。
「距離が…、と、とても、近いのですが」
「アイリス」
ルイスが掠れた声で、優しくアイリスの名を呼ぶ。
そして掠れた声のまま、ルイスはゆっくりと口を開く。
「俺は、きらきらとした目で純粋に『剣が好きだ』と言うお転婆なお前が、眩しかった」
「一一」
「何処からともなく現れた俺に臆する様子を見せないどころか、そんな俺を引っ張り回し、共に日暮れまで遊んだ」
そう話すルイスの瞳から、不思議と目が離せない。
「楽しそうに笑うお前が美しくて、堪らなく愛おしくて。一一俺はその時、お前を『守りたい』と強く願った。それは、今も変わらない」
アイリスは、その言葉に大きく目を瞠る。
ルイスが、アイリスに対してそのような感情を持っていたとは思わなかったのだ。
驚くアイリスを見つめながら、ルイスはさらに言葉を紡いでいく。
「だからこそ、俺はここまで強くなれた。…だが、その少女のことは、『アイリス』という名だということしか分からなかった。一一そんなある日、あの時の面影を残した少女が男装して騎士団へやってくるものだから、とても驚いたな」
「そ、その件は、大変、申し訳ありませんでした」
「別にいいさ。こちらから探す手間が省けた」
ルイスは一度目を伏せ、口元に笑みを浮かべると、真摯な眼差しをアイリスへ向ける。
「アイリス。なぜ俺がお前と婚約したか、理由を話せと以前言っていたな」
「……はい」
「先程も言ったが、俺はお前を愛おしく思っている。それはそれは、狂おしいほどに」
「!!」
(ルイス様の瞳、剣を握っている時と同じで、とっても真剣なものだわ)
そんな瞳を向けられてしまえば、ルイスの言葉が本当なのだと信じるしかなくなってしまうではないか。
「い、いままで、私を抱きしめたり、髪へ口付けをしたりしてきたのは…」
「抱きしめたのは、つい抑えが効かなかったんだ。それ以外は、俺なりの愛情表現をしてきたつもりなんだが…。お前は一切気が付かなかったな」
ルイスは、わざとらしく溜息を吐く。
すると、ルイスがおもむろに何かを企むような顔をした。
「っ!」
それを至近距離で見てしまったアイリスは逃げようとするものの、腰と顎を掴まれていることを思い出す。
「アイリス。俺はお前が愛しいのだということを、これから隠さない」
「なっ…!!」
「俺の長年の思いを、伝えたいんだ」
そう言いながら、ルイスはアイリスの顎を優しく左へ向け、身を屈める。
首に、くすぐったいものが触れたと感じた次の瞬間。何か柔らかいものが首筋に当てられ、ちりっとした痛みが走った。
「んぅっ!」
アイリスは空いてる手で、ばっと口を塞ぐ。
(一一な、なに、いまの声。それより、今の痛みは、もしかして…!)
恐る恐る視線だけルイスに向けると、身を起こしたルイスと目が合う。
その瞳はぎらぎらとしており、まるで獲物を狩る捕食者のようだ。
「アイリス」
腰から手を離したルイスが、先程彼自身がつけたであろう赤い痕へ指を添え、ゆっくりとそこをなぞっていく。
「アイリス。俺は、俺自身が思っているよりもかなりお前を愛おしく思っているらしい」
ルイスは未だ掴んでいるアイリスの顎を、再び優しい手つきで正面へ向ける。
「だからアイリス。無理にとは言わないが、俺のこの気持ちを、どうか少しずつ受け止めてくれ」
(わ、わたくし、ちゃんと生き延びられるかしら…!?)
恥ずかしさで瞳を潤ませたアイリスは、これから先の日々に、頭を悩ませるのだった。




