38.唯一無二の
そう名を告げたヴィンセントは、とても柔らかな雰囲気を纏っている。
しかしその柔らかな表情や雰囲気には隙がなく、何者にも取り入ることができないのだと、アイリスは理解せざるを得なかった。
「ルイス。そんな怖い顔してないで、はやく君の婚約者を紹介してくれないか?」
「……」
ルイスは顔を顰めると、深くため息を吐きだす。そのあと彼はアイリスの方に顔を向け、静かな声色で名を呼んだ。
「アイリス」
「はい」
名を呼ばれたアイリスはドレスの裾を持ち、右足を斜め後ろへ引くと左膝を軽く曲げる。
そしてヴィンセントへ挨拶をするために、ゆっくりと口を開いた。
「お初にお目に掛かります。私、バーレイ辺境伯が娘、アイリス・バーレイと申します。よろしくお願い致します」
「よろしく、バーレイ嬢。今日はごめんね、いきなり呼び出して」
「全くですよ。貴方の好奇心だけで、俺の婚約者を呼ぼうとするのは如何なものかと」
ルイスが鋭い目つきで、ヴィンセントを睨みつけるように言う。
だが、ヴィンセントは変わらず飄々としたままだ。
「一一一一」
すると、そんな様子のヴィンセントがアイリスに視線を向けていることに気が付く。
アイリスが不思議に思っていると、ヴィンセントがおもむろにこんなことを口にした。
「ーーところでアイリス嬢、君は随分とギルに似ているね」
「ギル?」
「ギルバートのことだよ。君の父親の」
「!?」
アイリスは、思わず目を瞠ってしまう。
ヴィンセントの口から父であるギルバートの名が出てくるとは思ってもみなかったのだ。
(……というかこの感じ、前にもあった気がするわ)
ルイスと婚約した当初、彼が兄のグレンの名を呼び捨てにしたことで二人が面識があり、仲が良かったのだとアイリスは知った。
そのことを思い出したアイリスは「まさか」と思い、恐る恐る口を開く。
「アースキン公爵様は、お父様と仲がよろしかったのですか…?」
アイリスの言葉に、ヴィンセントは青紫色の瞳をふっと細める。
「ああ、そうだよ。ギルとは同級生でね、今でもよく手紙のやり取りをしているんだ」
「ーー!」
「ここ最近は君がついに婚約してしまって寂しいと、そういう内容が多いかな」
そう話すヴィンセントはとても楽しげで、どうやらギルバートと仲が良いと言うのは本当のことらしい。
「そうだアイリス嬢、私のことは『ヴィンセント』と呼んでくれ。『公爵様』だなんて、堅苦しいだろう?」
「い、いえっ!そんな恐れ多いことは……!!」
「いいじゃないか。私は君とも仲良くなりたい」
ヴィンセントは和かに告げるが、アイリスは完全に萎縮してしまう。
(どうしましょう、ここは素直に名前で呼ぶべき!?それとも……)
アイリスがぐるぐると頭を悩ませていると、ルイスがアイリスの肩を軽く引き寄せた。
「ヴィンセント団長、あまりアイリスを困らせないでください。貴方からの頼みは断りづらいからほどほどにしろと、普段から言っているでしょう」
「おや、それはすまないね。私としたことが、アイリス嬢に会えて気分が上がっていたようだ」
「すまない」と、ヴィンセントはアイリスへ謝罪をされ慌ててしまうが、それと同時にほっと息を吐く。
「団長、正直あなたの名前呼びなどはどうでもいいので、さっさと用件を話してください」
「全く、ルイスはいつもつれないなぁ。ーーけど、そうだね。早く仕事に戻らないと君に怒られてしまうから、本題に入ろうか」
ヴィンセントは「仕方がない」という風に一度目を伏せると、改まった様子で話し始める。
「アイリス嬢、今日君をここへ呼んだのは、純粋にルイスの婚約者がどんな子か気になったのもあるんだ。けれど一番はね、お礼がしたいからなんだ」
「……お礼、ですか」
「そう、他の誰でもない。君へのね」
(ヴィンセント団長が、私にお礼を…?貴族令嬢として団長に会ったのは、今回が初めてのはず。しかも、私は今まで表立って何かを成し遂げた訳ではないわ)
全く身に覚えのなかったアイリスは、いったい何に対してのお礼なのか分からず仕舞いだ。
「ーーー……」
ふと、隣にいるルイスを見上げると彼は何かを知っているような、そんな眼差しをしていた。
それを見たアイリスは、ついヴィンセントの前だということを忘れてルイスへ聞く。
「ルイス様。何か知っていることがあるなら、おっしゃってください」
「ーーそれは、」
「私、身に覚えがないので、何のことか分からないのです」
じいっとルイスの瞳を見つめていると、「ぷっ」と吹き出す声が聞こえてくる。
「ははっ!あのルイスがこんなに押されているとは、なかなか珍しいものを見たよ」
「……はぁ」
ルイスは、どこか諦めたように息を吐く。そしてアイリスと瞳を合わせると、渋々といった様子で口を開いた。
「ーー以前、辺境伯家のタウンハウスに、ルークラフト侯爵家のご令嬢が来ていただろう」
「キャロルのことですか?」
「そうだ」
何故ここでキャロルの名が出てくるのかと、アイリスは疑問に思う。
そんなアイリスにルイスが何かを告げる直前、それを遮るようにヴィンセントがあることを口にした。
「実はね、キャロルはルークラフトの姓を名乗っているけれど、僕の娘なんだ」
「え」
ヴィンセントの言葉に、アイリスは思わず目を瞠る。
ヴィンセントの言うことが事実であるならば、キャロルはアースキン公爵家の令嬢、つまり公爵令嬢ということだ。
「この国の民やほとんどの貴族には僕が結婚していること自体、公表していないからね。しかも彼女はどちらかというと妻似だから、僕の娘であることは、そう簡単には分からない」
「そう簡単には分からずとも、いずれは分かってしまうことです。早めに公表した方が良いのでは?」
「できればそうしたいんだけどね。キャロルが『私が二十歳になるまではだめ』って言うんだ。二十歳までは、婚約とか王弟殿下の娘という立場に縛られていたくないんだって」
ふぅっと、ヴィンセントがため息を溢すと同時に、「ーーでもね」と穏やかな声色で言う。
「そんなキャロルが、とても嬉しそうに君の話をするんだ」
「私の?」
「ああ、『学園で互いの立場関係なく、とても気の合う親友を見つけた』と、瞳をきらきらさせて言うんだよ。だから、君には直接お礼をしたくてね」
ヴィンセントは、とても優しい瞳をする。きっと、キャロルのことを思い出しているのだろう。
「娘と、ーーキャロルと仲良くしてくれてありがとう。君のおかげであの子はよく笑うようになったし、何より楽しそうなんだ」
「いえ、私のほうこそキャロルと親友になれて、とても嬉しいです。彼女は私にとって、唯一無二の存在ですから」
「…そう言ってくれて嬉しいよ。本当は君たちの婚約発表の夜会でアイリス嬢に伝えようと思ったけれど、それだと下手をしたら他の貴族に聞かれてしまうし娘との約束を破ることになる。そうしたら、僕はキャロルに『父様きらい』と言われてしまう」
まるで恐ろしいものを見たかのように、ヴィンセントは自身の腕をさする。その様子はアイリスに嫌われたくないと、そう叫ぶギルバートとそっくりだ。
やはり娘からの拒絶は、父親にとって相当辛いものなのだろう。
「そんなわけだからアイリス嬢、これからもキャロルをよろしく頼むよ」
「はい。こちらこそよろしくお願い致します、ヴィンセント閣下」
「ああ、勿論だよ。それとルイス、こんな素敵な子を手放すんじゃないぞ。そして願わくば、これからも定期的に連れてきてくれ。団長権限で許可を出すからさ」
「謹んでお断りします」
ぽかぽかとした暖かな日差しが浴びる部屋に、「あははっ」と穏やかな笑い声が響く。
それから三人は少しの間、何気ない些細な話を続けた。それもあってか、ヴィンセントのもとから帰る際、アイリスの心は嘘のようにすっきりとしていたのである。




