30.心躍る
「副団長、お待たせしてすみません」
「来たか、アルフ」
訓練場の整備を終えたアルフはニコラスたちと別れ、ルイスが指定した西側の器具庫へと来ていた。
この場所は騎士団の宿舎からも、王宮の回廊からも死角になっているため、誰の目につくことはない。
器具庫裏の壁へと背を預けていたルイスは、アイリスを見るなり頬に触れてきた。
いきなりそんなことをされたアイリスは、声を潜め苦言を零す。
「ちょっと副団長!外でこのように触れるのは、いかがなものかと…!!」
「心配するな、ただ頬の汚れを取っただけだ」
「それはありがたいのですが、少しは危機感を持ってください!」
アイリスの言葉にルイスは、はぁっとため息を零し、眉を顰める。
「お前も人の心配をする前に、自分の心配をしろ。くれぐれも、他の連中に女だとバレてしまうなよ?」
「それは、もちろん心得ていますよ!」
「ならいいんだが、細心の注意を払っておけ」
「はい。ところで副団長、ここに呼び出したと言うことは、何か急ぎの用事でも?」
アイリスが抱いていた疑問をルイスへと投げ掛けると、おおよそ想像通りの答えがかえってきた。
「確かに急ぎと言えば急ぎだが、それはアイリスとしての方が主だな。もちろんアルフとしての話もある」
「なるほど。ではまず、アルフとしてのお話しから伺っても?」
「わかった」
ルイスは、淡々とした表情をして話し始める。
「アルフとして話す内容は一つ、現在も行っているお前の街娘に関する件だ。ついこの間、進捗を確かめに街へ行ったんだが、想像通り、順調にお前の噂が広まっていた」
「…ちなみにそれは、どのような噂ですか」
するとルイスは、ふっと口の端をあげて面白がるように言うのだ。
「王都の街に週一度、必ず決まった曜日に見惚れるほど美しい容姿をした『クレア』という少女が現れる、と。週一回の任務とはいえ、上々の成果だぞ、アルフ」
「複雑な気分ですが、成果が出ているならよかったです…」
アイリスはここひと月の間、ルイスに命じられた通り王都の街へと赴いていた。もちろん、長髪のプラチナブロンドの鬘を用意し、クレアという名を名乗っての上でだ。
さらに少し離れたところには、軽装をした数名の先輩騎士たちがアイリスと一定の距離を保ち、周囲を注意深く観察している。それに加えて彼らはアイリスの護衛役と、万が一アイリスが拐われた場合、犯人の尾行とルイスへの報告役も兼ねていた。
しかし今のところ、不審な人物を見かけることも、危害を加えてくる人物もいない。
そのためアイリスたちは毎回、数刻の間街を練り歩くだけで終わってしまっていた。
(まだひと月しか経っていないのだし、そう簡単に首謀者たちが動き出すはずないのよね)
そう考えると、ルイスの言った通り噂が広まっただけでも充分だろう。
「では引き続き、クレアとしての任を遂行致します」
「ああ、頼んだ。ーーそうしたら、次はアイリスとして話を聞いてくれ」
「はい」
「実は、もう決定事項になってしまったんだが…」
ルイスはそう前置きをすると、彼にしては珍しく言いにくそうにしながら、驚くべきことをアイリスに告げてくる。
「ヴィンセント団長が婚約発表の前に、どうしてもアイリスに会いたいと言っているんだ」
「え!」
「もちろん俺も断ろうとはしたんだが、『絶対に会う』の一点張りでな。申し訳ないが、承知しておいてくれ」
「……」
全く予想していなかった展開に、アイリスは固まることしかできなかった。
ヴィンセント団長ーー、ヴィンセント・アースキンは、このエアハート王国国王の弟、つまり王弟殿下である。
ヴィンセントはルイスと同じように、団長でありながら公爵としての公務を行なっている。しかし公務の膨大さからか、なかなか訓練へ出られないため、ヴィンセントと直接会話をしたことがある者は少ない。
それはアイリスも例外ではなく、入団式でヴィンセントの姿を見て以降、数ヶ月も彼の姿を見ていなかった。
(そんな方が、私に会いたい!?ルイス様は約束を違える方ではないから、きっと男装の件はバレていないのだろうけれど…)
では、なぜ会ったこともないアイリスに会いたいと言っているのだろうか。
その理由がどうしても理解できなくて、アイリスは混乱しながらもルイスへ尋ねる。
「ルイス様、団長はどうして、私に会いたいと言っているのですか…?」
「俺も尋ねたんだが、『会ってからのお楽しみだ』と言っていて、何も教えてくれなかった」
ルイスは、はぁっと溜め息を吐き、申し訳なさそうにアイリスの肩へ手を置く。
そして何かを企むような、悪い顔をして言うのだ。
「呼び出された理由がくだらなかったら、すぐ帰るぞ」
「え!?それは、いろいろ不味いのでは…」
「大丈夫だ、あの人は俺に色々と貸しがあるからな。下手に口出しはできない」
「………」
王弟殿下相手にそんなことを言えるのは、きっとルイスだからだろう。
しかし先程ルイスが言っていた、貸しがあるからどうのという話。アイリスは非常にそのことが気になってたまらないのだが、それをぐっと堪え口を開く。
「ルイス様、私への話はこれで全部ですか?」
「いや、もう一つだけある。すまないな、つい話が脱線しかけた」
肩に置かれていたルイスの手が、するりと離れていく。
何故かそのことを残念に思いながら、アイリスはルイスの話へと耳を傾ける。
「実は今朝、辺境伯家から明日には王都のタウンハウスに着くとの連絡があった」
「まあ、そうなのですね!」
「ああ。だが明日着くとなると予定の調整が難しいだろうから、我が家を訪れるのは到着から四日後にしたいとも書かれていてな。俺はなんら問題はないが、お前もそれで大丈夫だな?」
「はい!」
アイリスは久しぶりの家族との再会に、胸を躍らせる。
騎士団へ入ってから度々手紙を出してはいたが、それでも話したいことは山積みなのだ。どんなことを話そうかと考えるだけで、うずうずしてしまう。
そんなアイリスを見て、ルイスは優しげな瞳を向ける。
「楽しみか?」
「はい!とっても!」
「そうか」
穏やかな声色でそう告げられ、アイリスは頬が緩むのを感じる。
(ふふっ、とーっても楽しみだわ!早く時間が過ぎてしまわないかしら)
そんなアイリスの願い通り、あっという間に時間は過ぎていき、ついに再開の日がやってきたのだった。




