塀の上のおじさんの話
ぼくの近所は住宅街で、一軒家がひしめき合っている。狭い路地。どこか別の世界に続いていそうな、家々の隙間。そのうねり。そんな場所では、塀はほとんど途切れない。どこまでも続いていそうに思えた。まるで迷宮。道みたいに思える。
その時、ぼくはふと思い立って、塀の上に昇ると、そこを歩き始めたんだ。
“どこまで行けるかやってみよう”
ちょっとおどけたピクニック。
どこまでも歩いて、どうしても降りなくちゃいけない状況になるか、落ちてしまうまでこれを続けるんだ。
それがその時ぼくが、自分自身に課したルールだった。
もしも猫なら、こんな気分だろうか? ぼくは家の間を縫うように、塀の上を歩き続けた。
ところが、
そのうちに、目の前から人影がやって来るのが見えたんだ。しかも、大きな。そしてそれは、どう見てもおじさんだった。
ぼくはそれを見て少し困った。引き返したくはない。でも、それは相手も同じかもしれない。でも、そんな心配は無用だった。おじさんは僕の目の前まで来ると、二ッと笑い「トゥッ」と声を上げると、ぼくをジャンプで飛び越してそのままぼくの後ろの塀の上に着地したのだ。物凄いジャンプ力とバランス感覚。ぼくはそれを見て思わずこう言った。
「おじさん、凄いねぇ」
するとおじんさは気を良くしたのか、「ハハハ、おじさんはもう数十年も塀の上で生活しているからね。これくらい、朝飯前なのさ」と、そう答えた。
ぼくはその言葉に驚く。
「数十年?」
「ああ、数十年」
ぼくが疑問に思っているのを察したのか、それからおじさんは説明をし始めた。
「あれは、おじさんが子供の頃の話さ。ある日に、ちょうど君みたいに、ふと塀の上を歩きたくなってね。それで、塀に昇ると歩き始めてみたんだ。もう進めなくなるか、落ちるまでこれを続けてみようって。そういう自分ルールを決めたのだな。
ところがだ。おじさん自身も気が付いていなかったのだが、おじさんにはどうやら、塀の上を渡る天性の素質が備わっていたようなんだ………
どれだけ渡るのが困難な塀が現れても、それを渡りきってしまう。一度も落ちない。それでもう数十年も塀の上さ」
そう言うと、おじさんは軽くジャンプしてとなりの塀に着地した。全くぶれていない。凄い。
「凄いねぇ、おじさん!」
ぼくはそう言うと、おじさんの真似をして隣の塀にジャンプしてみた。なかなか上手くいって、なんとか着地できた。おじさんはそれを見るとこう言う。
「なかなか、やるじゃないか。しかし、こんな事はできるかな?」
それからおじさんは、柵の上をスキップして渡り始めた。塀ならまだ分かる。でも、柵なんて。ぼくは驚いたけど、なんとか付いていった。スキップとまではいかなかったけど、僕も渡る事ができた。
「ははは、凄いぞぼうず!」
おじさんはぼくが渡りきったのを見てそう言った。それからぼくらは、塀の上を歩きながら色々な話をしたんだ。色々なと言っても、塀の事ばかりだから、色々な塀の事と言うべきかもしれない。今までで一番難しかった塀は何か、簡単だけど嫌いな塀はあるか。逆に一番好きな塀はなにか。
しばらく話してから、ぼくは「素敵だね。ぼくもおじさんみたいに、色々な塀を渡ってみたいな」と、そう言った。本当におじさんの話が楽しかったからだ。ところが、そう言った瞬間に、おじさんはいきなりぼくの事を突き落としたのだった。
「何をするの? おじさん!」
道路に尻餅をついたぼくは、そう塀の上にいるおじさんに向かって叫んだ。すると、おじさんは、
「これで、ぼうずの自分ルールは破られた。もう、塀を降りて普通に生活できるぞ」
と、そう語る。
「え?」
ぼくのその声を聞くと、おじさんはとても悲しそうな顔をした。
「私はもう戻れない。手遅れだ。しかし、お前はまだ戻れる。こんな、私のようになってはいけないぞ!」
それから物凄い速さで、おじさんは塀の上を走り、家の影へと消えてしまった。
それから数年が経った。その出来事以来、ぼくはそのおじさんに出会っていない。だけど、今もきっとおじさんは塀の上にいるのだとそう思っている。何故なら、
「子供が塀の上から、突き落とされたらしいわよ。中年のおじさんに。変質者かもしれない」
そんな噂話を、今も時々聞くからだ。
きっと、おじさんは今も子供達を、塀の上の自分ルールから護っているのだろう。




