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未来

なかなか更新できずにすみませんでした。

ここまで付き合ってくださって、ありがとうございました!

やっと、最終話です。

 

 整理した書類を隅に押し遣り立ち上がった私に、陛下は顔を上げて信じられないような目をした。


「まさか、もう帰るの?」

「ええ、今日はそのつもりで、ちゃんと事前に申請も通していますが」


 そう告げて立ち去ろうと背を向けるも、陛下はなおも追い打ちをかけてくる。


「でもまだ先日のニムラス訪問の経緯を纏めた最終的な報告書ももらってないし、そもそもグルーイル第二王子について尋問調書やら治療の進捗状況報告書やら、それらも含めた彼の国との仔細な応酬やら、君には早急に仕上げて僕に提出しなければならないものがそこに死ぬほど山積みになっているよね?」

「ええ、ですが陛下はそれらの書類に関しての提出期限を明確に定めなかったでしょう。事前に申請していた休みが通らない理由にはならないと思いますが」


 振り返ると、陛下はラエル卿に助けを求めるところだった。


「ねぇシル! 彼ちっともやる気がないんだけど!」

「それは仕方ありませんね」


 他の臣下から陛下へと提出された書類を捌いて纏めていたラエル卿は、顔も上げずににべもなく言った。


「その気ままさを最初に許したのは陛下でしょう」

「だってそれはさ、最初のころはそうでもしないとあまりにもリネイセルが仕事に根詰め過ぎていたから……」

「黒姫様をひどく憔悴させてしまいましたもんね?」


 うっと言葉に詰まった陛下に、ラエル卿のしらっとした視線が送られる。


「だったら、なおさら許可してあげるべきでしょう。あのですねぇ、今回だってリネイセル様がいったいどれだけここに詰めていると思っているんですか。この辺でいい加減に一旦帰しておかないと、黒姫様は心配のあまりにまたお一人で思い詰めてしまうかもしれないですね」

「いや、黒姫だって最近はもうそんなか弱くもないしさ……彼女、随分と図太く、逞しくなったよね?」

「では陛下、そういうことですので」


 まだなにか言いたげな陛下に無理矢理礼を捧げて、私は半ば強引に執務室を後にした。速やかな帰宅にご協力頂いたラエル卿には、後日なにかお礼でも送っておくか。もっとも、彼の行動原理は私のためではなく、すべて彼女のためではあるが。







 二人の新居として宛てがわれた、王宮の敷地内にあるこじんまりとした離宮。何日ぶりか、やっとそこへと帰り着く。

 待っていてくれているはずの愛しい人の姿が見えずに使用人に尋ねると、彼女は庭に出て、どうやら熱心に花を選んでいたようだった。


「“  ”」


 私だけが知っている名で呼びかけると、彼女は飛び上がらんばかりに驚いて振り返ってきた。


「リネイセル! おかえりなさい! 帰宅の知らせを受けてあなたのために花を選んでいたんですけど……思ってたよりも随分と早かったですね? お仕事のほうは一区切りついたんですか?」

「ええ、お気になさらずとも、きっちりと済ませてきましたよ」


 安心させるように微笑みながら言ったのに、黒姫様には疑わしそうに目を細められてしまった。


「……そう言いながらも、いつも陛下から急かすようにとんでもない量の言伝が飛んでくるじゃないですか。またすぐに戻らないといけなくなったりとか……ないですよね?」

「ええ、今回は大丈夫ですから」


 いい加減に陛下に諫言しなければなるまい。これ以上公私を分けられないようであれば、それ相応の休みをまとめていただくことになると。


「今日はもう言伝はきませんよ」

「本当、ですか?」

「ええ」


 自信たっぷりに頷いてみせると、ようやく彼女は破顔した。実際のところは、いくら陛下からの言伝がこようとも今日は絶対に自分の元に取り次ぐなと家令に厳命してきただけだが。


「でしたら、やっと久しぶりに一緒に過ごせますね!」

「では、以前仰っていた絵のスケッチをしに遠出でもどうですか。描きたい風景があると仰っていたので」

「はい。……あの、リネイセルが疲れてなければ」

「もちろんですよ。今日はあなたとそうやってゆっくり過ごすと決めていましたので。そのためにも()にも来てもらっています」


 そばに佇んでいた太陽の天馬は、やっと自分の話題になったと言わんばかりにどこか不満そうに嘶いた。そんな天馬の様子など露知らず、黒姫様は嬉しそうにはしゃいだ声を上げて彼へと飛びつく。


「太ちゃん、久しぶり!」


 どうもタイチャンというのが伝説の生き物である彼の愛称らしい。彼は明らかに不服そうな顔をしながらも、黒姫様に撫でられるがままに首を下げた。


「なかなか会えなくて寂しかった! 今日はよろしくね!」


 黒姫様の無邪気な笑顔に、太陽の天馬も仕方なさそうに少し機嫌を持ち直す。やっと捻くれた態度を収め、鼻面をその手に押し付け始めた。彼の機嫌を取るのはそのまま黒姫様に任せ、自分はピクニックの準備をすませに一旦その場を離れる。

 なんでも厄介事を押し付けてくる陛下からの呼び戻しが来る前にさっさと行方をくらまさなければ。そう思って天馬を振り返ると、彼は呆れたようにたてがみを振りかぶってきた。








 以前太陽の天馬に騎乗しての遠出の際に、偶然見つけた風景があった。

 鮮やかな花畑に埋め尽くされた海近くの崖上のそこへと、今日も彼に連れて行ってもらう。

 ふわりと着地した天馬から降りた黒姫様は、色とりどりに咲き誇るまるで極楽のような花々の絨毯に、さっそくはしゃいだように感嘆の声を上げた。急かすように軽く手を引っ張ってくる。

 もう何年も前から、この手は幾度となく黒姫様との温もりを繋いできた。そこには最初のころのような、ぎこちなさも遠慮もなくなったけれど。

 あのころから伝わっていた柔らかな手のひらの体温は、今でも変わらずに私を包み込んでいてくれる。

 彼女はしばらくどの風景を切り取るか悩んでいたようだが、やがて場所が決まると敷物を敷いて画材を取り出し、並べ始めた。

 太陽の馬はそんな彼女のそばで足を畳んで蹲った。どうやらそばで見守りながら微睡むつもりらしい。

 そうやって拙いながらもひたむきな一生懸命さで絵を描く彼女を、束の間太陽の天馬と一緒に見守っていた。








 しばらくの後。ある程度着色も終えたのを見て、彼女に声をかける。


「さて、この絵はどこに飾りましょうか」

「えっ? また飾るつもりなんですか」


 後ろから覗き込むと、彼女は不満そうな声を上げた。そうやって恥ずかしがっていやだ、飾りたくないと抵抗に合うのはいつものことだった。

 黒姫様の絵はたしかに、決して上手とは言えないのかもしれない。だがその一目見て黒姫様のものだとわかる独特のタッチは、そこにあるだけで彼女の存在をひしひしと感じ取ることができるもので私はとても好きだったし、叶うことならば常に家の中で目にしていたいとも思っていた。


「嫌って言っても……リネイセルのことですから、あとでこっそりと飾ってしまいそうですね。だったらせめて人の目につかない、使ってない部屋にでも飾っておきますか」

「それでは飾る意味が」

「人目に付くところに飾ると、あとで面倒なことになるんですよ? この間なんか、突撃訪問してきたアシュリー様に“これはいったいどこの画家の作品なのか”って訊かれて、ごまかすのに苦労したんですから」

「それは……」

「そのときは誰も知らない無名の画家の作品だ、って誤魔化したんですけど……結局私だってバレたんですけどね。あのときほど活き活きとしたアシュリー様は見たことなかったなぁ……まるでおもしろい玩具を見つけたいたずら小僧みたいで、心底ぞっとしましたよ。私はこれからいったいいつまでこのネタでからかわれ続けるのでしょう」

「そう萎縮せずとも、堂々としておけばいいではないですか。私にはあなたがなにをそう恥じているのか、アシュリー様にとってなにがそう面白いのか、皆目見当もつきませんが」

「……。リネイセルの目には色々とその、フィルターがかかっているんでしょうね……でもありがとうございます、ちょっと元気でました」


 意味のわからなかった私に黒姫様は首を振って、この話題はもう終わりだと暗に示した。

 再び景色を眺め始めた彼女を覗き込むままに後ろから腕を回し、私よりも一回り小さい体を腕の中に抱き込む。彼女は抵抗することもなく、すっかりと安心しきって背中を預けてきた。

 ここまでの関係になるのに、お互いどれだけの辛抱と対話を重ねてきただろう。

 始めは口下手同士、大事なことが多々相手に伝わっておらず、数々のすれ違い騒動を引き起こす羽目になった。そのたびにベルゼンヌ侯爵夫人に叱られ、アシュリー様に詰られ、陛下に呆れられながらも、何度も話し合いを重ねてお互いの言葉を待って――そして私はようやくこの許しきったような柔らかな笑顔を向けてもらえるようになったのだ。


「ねぇ、リネイセル」


 黒姫様は遠くの空にぼやける水平線を、目を凝らすように見つめている。


「私、いつかこの先の景色を見に行けたらなって思ってるんですよ。この見惚れるほどに美しい景色の先がどこに繋がっているのか、知りたいんです」


 黒姫様の性質上、叶うことのない願いを口に出されて、刹那言葉に詰まる。


「でももちろん、今の私が好きに旅行なんてできないこともわかっています。私だってちゃんと、これからもリネイセルの妻として、イスタルシアの一員として、果たすべきことはきちんと果たしていくつもりです」


 腕の中の黒姫様はただただ穏やかに、目の前の景色を眺めていた。

 思い思いに咲き誇る鮮やかな花々、その先に広がる目の覚めるような青空、そしてその空と曖昧な境界線で繋がっているはるか向こうの水平。


「だからと言ってはなんですが、リネイセルに一つお願いがあるんです」


 ふと、黒姫様の吸い込まれるような黒々とした目が私を仰いできた。


「私が亡くなったあとは、亡骸を燃やした灰をこの海に撒いてほしいんです」

「……灰を、ですか」

「ええ、そうしたらこの風に乗って、波に浚われて、どこまでも自由気ままに飛んでいける気がして」


 黒姫様の目は、いつか訪れるであろう自由への期待に輝いていた。まるでそのときがくるのが楽しみだとでも言わんばかりのその輝きに、思わず抱き締める腕に力を入れてしまう。


「リネイセル?」

「その旅には、私も連れて行ってくれますか」


 思わず口にしてしまった私に、黒姫様は目を丸くした。


「あなたが真にこの国から縛られなくなったあとも、あなたのそばであなたと共にいたい。そう言ってしまったら、迷惑でしょうか」

「そんなの……」


 束の間まん丸に目を見開いていた黒姫様が、やがてにっこりと満面の笑みを浮かべる。


「嬉しいに決まっているじゃないですか! リネイセルがそばにいてくれる限り、私はもう一人ぼっちじゃないんです。その旅だってきっと、とても素晴らしいものになりますね!」


 実現するかもわからない死後の話だというのに、黒姫様は本当に嬉しそうに笑ってそう言うものだから。


「リネイセル?」


 私は彼女が当惑するほどに、その華奢な体を抱き締める。


「心配しなくても、私はもう寂しくないですよ。だってこうやって、いつだってリネイセルがそばにいてくれるじゃないですか。私にはもう、あなたがいるから……」


 ――かつてはこんな気安い会話さえ交わせる間柄ではなかった、私たちは。

 おはようもおやすみも、負の感情も陽の感情も、私たちはお互いになにも交わし合える関係になく、ただ知っているのはその瞳の透明な輝きだけだった、私たちの関係は。

 あのときお互いに伸ばした手に気づいていなければ、きっとこの幸せな時間は……。


「愛しています、“  ”」


 赤くなった耳朶にふわりと口づけを落とすと、照れ混じりの軽やかな笑い声が返ってきた。


「私も。愛していますよ、リネイセル」


 腕の中の愛しい温もりを、そっと抱き締め直した。








これで終わりとさせていただきます!

ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました!

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