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 この隔離部屋に押し込まれてからというものの、黒姫様はずっと押し黙ったまま、考えごとに耽っているようだった。

 私にはこういうとき、なんと声をかけたらいいのかわからない。陛下のような軽快な冗談も繰り出せなければ、アシュロム様のように耳触りのいい甘言を囁くこともできない。

 明日にはもう黒姫様は元のお部屋へと戻られる。二人で話せる時間も、あとわずかだというのに。


「騎士サンダルディア」

「黒姫様」


 思い切って声を出した瞬間、なんとも間の悪いことに黒姫様と被ってしまった。

 暫くお互いに譲り合ったあとに、とうとう黒姫様が根負けして、ほんの小さな一言をポツリと漏らす。

 向けられた濡れたような漆黒の瞳はなんとも心細そうで、キュッと胸が締め付けられる。



「あの、本当にいいんですか。このままいくと、一騎打ちに勝ったとしても……その、私と結婚しなければならなくなりますよ」


 ……まさか黒姫様は、この私さえも気遣おうとしているのだろうか。


「私が助けを求めたばかりにこんなことになってしまって、申し訳なくて……あなたは私のせいで結婚相手を選ぶことすら、できなくなってしまいました」


 もしかして黒姫様はずっと、このことを気にして、一人悩まれていたのだろうか。


「でもそれは、あなただって同じことでしょう」


 ずっと、あなただってそれを強要されていたというのに。


「あなたを助けたくて、でも私にはこんな形しかとれなかった。だがそれは結局相手が私に変わっただけで、あなたに意に沿わない婚姻を強要しているということには変わりない。黒姫様に心を通わせる方がいらっしゃったとしても、あなたにはその方と結ばれる(すべ)などない」


 ちらりと脳裏に、いつも黒姫様のことを気にかけている薄色の怜悧な文官の姿が過ぎる。……彼でなくても、きっと黒姫様が心を開けば、それに応えたいと思う者はほかにもいる。陛下は今はそれをお許しにはならないだろうが、私との婚姻後であれば話は別だ。イスタルシアとの縁さえ繋がっていれば、イスタルシアに愛着を持ってもらいさえすれば、あとは黒姫様が国内でどう過ごされようと陛下には関係ないのだから。

 だから、せめてものその心だけは、と続けた言葉は、予想外の黒姫様の言葉によって意味を成さぬものになってしまった。


「……そっか、私が助けを求めてしまったばっかりに、あなたをそこまで追い詰めてしまってたんですね」


 黒姫様は震えていた。かわいそうなほどに震えて、その真っ黒な目に零れそうなほどに涙をためて、そしてその心を傷つけたのはほかでもない私なのだと、そう突きつけるように。


「私、あなたがあんまりにも優しいものだから、縋りついてその優しさにつけ込んで甘えていました。でもそのせいで、そんな覚悟を背負わせてしまっていただなんて……本当にごめんなさい」

「黒姫様、私は……」

「私のことは気にしないで。大丈夫です。そんな相手もいませんから」


 違うのです、と続けた言葉は、受け取ってもらえなかった。

 黒姫様が駆けこんでしまった寝室の扉を、ただ呆然と見遣る。私にそこに入る許可は与えられていない。そこまで追いかけることはできない。

 固く閉じられた扉。かすかに聞こえるくぐもった声。

 控え室からベルゼンヌ侯爵夫人が出てきた。立ち尽くす私を見て、今にも頭を抱えたそうな顔をする。


「ベルゼンヌ侯爵夫人……」

「ええ、なにを聞かずともわかりますとも。あなた方は圧倒的に言葉が足りないのです。……今に始まったことではありませんが」


 夫人はため息をつくと、ふと疲れたように視線を床に落とす。


「リネイセル様だけが悪いとは言いません。黒姫様はこのニ年間、誰にも心を開かずに過ごされてきて……助けを求めれば救う手もあったでしょうに、それらすべてを見ようともせず、自分は一人きりなのだとそう悲観的に過ごされてきました。その黒姫様が今回初めて、やっとリネイセル様に助けを求める手を伸ばして、あなたはその手をとってくださいましたね。そのことには大変深く感謝いたしております。ですが、その過程において、リネイセル様にも言葉足らずだったところはございませんか」


 こんなふうに叱咤されるのは家を出奔して以来で、一瞬だけその面影が母と重なった。そんな私の心理を見抜いたように、夫人の鋭い視線がピシャリと飛んでくる。


「そもそも、これだけ共に過ごす時間があったというのに、お互いがどういうつもりでここまでに至ったのか、まったく話もしていないとは……黒姫様もですが、きちんと向き合っていただけないのであれば、アシュロム様の二の舞いになるだけです」


 静かな、抑揚のない言い方だった。言葉を荒げるわけでもない、辛辣に批判してくるわけでもない。それでも、その言葉は私の心を深く抉った。


「アシュロム様には、私の言葉も陛下の言葉も、とうとう届きませんでした。リネイセル様はどうでしょうか」


 動揺に言葉を失った私を、どこか憐れむように夫人は見ている。


「黒姫様はあなたならばと、ほかでもないリネイセル様にその手を伸ばしました。……リネイセル様はきっと、その手を蔑ろにしない。私も黒姫様も、今もそう信じております」


 やがて夫人が返事をしない私をちらりと一瞥して部屋を去って行ったが、その言葉だけはいつまでも私の頭の中を巡って離れなかった。








 翌日、寝室から出てきた黒姫様は、もう目も合わせてくれなかった。


「護衛を引き受けてくれて、ありがとうございました」


 消え入りそうな声で、それだけを告げられる。


「……黒姫様」

「お元気で」


 それだけを言いおいて、その華奢な後ろ姿はあっという間に遠ざかって行く。

 警戒する護衛騎士、身を縮ませている黒姫様、ベルゼンヌ侯爵夫人の視線さえも黒姫様は拒絶している。


「黒姫様……」


 私がとるべき道を間違えてしまったから、またも彼女をああも追い詰めてしまった。


 “アシュロム様の二の舞い”


 その言葉が再び頭の中を回りだす。いくら振り払おうとしても、それは止まなかった。








 次の日の午後、久しぶりに顔を出した騎士団の待機室で物品の点検を行っていると、騒がしい音とともに珍しい来客が到着した。


「ごきげんよう」


 冷徹な美貌に苛立ちを滲ませたアシュリー様だった。


「悪いけど急ぎの用なの。それも()()()()ね」


 半分血が繋がっているとはいえ、相手は自分よりもはるかに身分の高い女性。実際に言葉を交わすのは初めてだった。

 アシュリー様は戸惑う周囲を睥睨し、扇の先をピシッと振って退室の指示を出す。その苛立つような黄金の魔力に宛てられて、ほかの騎士たちはいそいそと休憩室をあとにした。あっという間にがらんどうになった部屋は、目の前の存在も相俟って随分と寒々しかった。


「なぜ私がここにいるか、もうご存知だとは思うけれど」


 アシュリー様が一枚の紙を投げ渡してくる。それを拾う。どうやら誰かの書いた言伝のようだ。

 そこには黒姫様の署名で、私とアシュロム様の一騎打ちを中止してほしい旨の嘆願がしたためられていた。

 思わず表情を失ってしまった私に、アシュリー様がなおも追撃してくる。


「だそうよ」

「これは……」

「なんなのよ、これ」

「……」

「なんでカレナリエル杯優勝からの口づけから、こんな事態になってしまっているのよ!」


 そんなの、決まっている。


「私の、説明不足です」

「わかっているのなら、今すぐ“愛してる”でも“君を奪い去りたい”でも、なんでもいいから伝えてきなさいよ!」

「ですが、このような事態を引き起こしたアシュロム様を刺激してしまうのは、今は避けたほうがいいのでは? 私は黒姫様にご迷惑をおかけしたいわけではないのです」


 アシュリー様は私の言葉に、呆れたようにため息をついた。


「じゃあ、どうするのよ」

「……辞退はしません」

「当たり前よ」

「必ず勝ちます」


 真っ直ぐにその目を見つめると、アシュリー様は鼻でフンと笑った。


「それも当たり前のことね。わざわざそんなこと言わないで」

「勝った暁には黒姫様にこの胸の内を明かし、あの方の愛を乞いたいと」

「……言ったわね?」

「ええ」


 アシュリー様はようやく突きつけていた扇の先を下ろした。


「ここまでやっと突き進んできたっていうのに、あなたたちはどうしてこうもわけのわからないところで躓くの? あまりに理解できなくて、気持ちが悪いったらありゃしないわよ」


 アシュリー様は言いたいことだけ言うと、これ以上私を視界に入れるのも不快だと言いたげにくるりと背を向けた。


「五日後、たしか非番よね」

「……ええ」

「演習場よ。いいわね。たった一度だけ、それだけならあの子のために動いてあげなくもないわ」


 半面で振り向いたアシュリー様の瞳が、凍てつくように黄金色に光る。


「あなたのほうがあのろくでなしのヘタレよりマシってこと、ちゃんと証明してちょうだい」


 今度こそ、アシュリー様は靴の音を高く響かせながら去っていってしまった。

 途端にわらわらと戻ってくる同僚たち。


「おまえ、アシュリー様相手になにしたんだよ!?」

「もしかして今夜の相手を命じられたりとか!? ってさすがに色無し相手にそれはないか!」

「そもそも、血の繋がりがありますが」

「ハハハッ! おまえなに真面目に返してるんだよ。っていうか、色無しが呼び出されるくらいなら、俺なんかとっくに呼び出されててもいいはずだぜ!」

「おまえなんか呼ぶわけねぇだろ! なにせアシュリー様は色無しなんかがお気に入りの特殊性癖がおありなんだからな!」


 下種な話題で盛り上がっている同僚を尻目に、スールウェが心配そうに私を伺っている。


「大丈夫か?」

「ああ、問題ない」

「黒姫様のことか?」

「……ああ」


 スールウェは言うか言わまいか迷っていたが、やがてポツリポツリと零すように伝えてきた。


「……力になれることがあれば、言ってくれ」


 その言葉に、不意を突かれてまじまじとスールウェを眺める。

 だって、スールウェの兄のラエル卿は。


「……それとこれとは、また話が別だ」


 スールウェは不器用だがいい奴だ。魔力量の多少で相手の力量を甘読みせず、初めて私に真剣にぶつかってきた稽古相手でもあった。


「兄のことも、もちろん力になりたいと思っている。だからといって、おまえを助けない理由にはならない」

「……そうか、感謝するよ」


 頷き合い、そしてそれ以上は言葉を交わさなかった。未だに騒がしい待機室内を一瞥する。

 黒姫様がこの私にもがいた手を伸ばしているというのならば、私はその手に応えたい。そして――今度こそ、包み隠さずこの気持ちを告げよう。

 そうと決まれば、あとは努力するだけだ。久しぶりに限界まで打ち込みを行うべく、私は足早にそこを立ち去った。







 

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