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懇願

 

 母は、愛情豊かな人だった。

 産まれた赤子の私が魔力なしと知った先王陛下に離縁状を叩きつけられても、母は私を恨んだりはしなかった。むしろ産まれてきたのが嬉しいと言わんばかりに、母は溢れんばかりの愛情を惜しみなく私に与えてくれた。

 社交界ではさぞかし肩身が狭かったであろう祖父母も、厭うことなく可愛がってくれた。おかげで私は、境遇の割りには捻くれることもなく、呑気に育つことができたわけだ。

 ただ、サンダルディア家を継ぐ予定の叔父だけは、私の存在を大変に疎んでいた。叔父はよく祖父母に、私たち親子を追い出すように詰め寄っていた。

 今日も社交の場で馬鹿にされた、このままではやがてサンダルディア家を継ぐであろう私の従兄弟が不憫だと、ことあるごとに喚き、ついには母のことまで罵倒しだしたので、私はサンダルディア家を出奔することにした。

 祖父母と母には今まで大事に育ててくれたお礼を、叔父と従兄弟には今まで苦労をかけた謝罪をそれぞれに済ませて、私は意気揚々と“魔力”に縛られたこの世界から飛び出した。

 不安はなかった。自分の腕ならば用心棒や、もしくは傭兵としてやっていけるだろうと自負していたし、目の前に広がる未来に期待さえ抱いていた。

 もう二度と“色無し”とは笑わせない。この腕一つでどこまでものし上がってやろうじゃないか。私の目の前は、明るくどこまでも広がっている、はずだった。

 ……しばらくしてのことだった。母の訃報が届いたのは。

 その知らせに、一気に目の前が真っ暗になった。私はとうとう一人ぼっちになってしまったのだと、唐突に実感した。ああ、自分はなぜみんなのためだと嘯いて、早々に家を出てしまったのだろう。こんなにすぐに別れがやってきてしまうとわかっていたのなら、周りのことなど気にせずに、もっと母のためにと尽くせばよかったのに、そのそばにいたらよかったのに。








 苛烈な炎が渦巻いている。すぐに周辺を囲まれて、なにも見えなくなる。さすがに腐っても近衛騎士の隊長を務め上げるだけのことはある。

 最終試合、セリオン隊長は今まで見せたことがないほどの本気を出してきた。下手したら命さえ燃やし尽くしてしまいそうなほどの、妄執の大炎だ。


『お願い……お願いです。必ず勝って』


 試合前に見た黒姫様の顔が過ぎる。その瞬間に間一髪のところで襲いかかってきた刃を受け流す。と同時に別方向から襲ってきた炎の渦に呑まれ、やむなく彼の魔力を吸収する羽目になる。

 途端、襲ってきた火傷しそうなほどの全身の痛み。思わず呻く。まるで抑えの効かないような、狂おしいまでの渇望に満ちた魔力。うねる炎そのままの激情を現すかのような、息苦しいほどの熱さ。

 制御できない炎が左腕から具現化し、そのまま私の身を喰らおうと踊り狂っている。

 とりあえず、まずはこの大炎の渦中から抜け出さねば。周りも見えないこの状況でひたすら逃げ続けるのは分が悪い。だがうねる炎と煙に撒かれて、いったいどこが突破口か。

 呼吸を整えて、気を研ぎ澄ませる。

 不思議と負けそうだとか降伏しようとか、そういった気にはならなかった。意識は驚くほどに凪いでいる。

 ただ、この勝利を捧げたい人がいる。この世にたった一人ぼっちの、いつも寂しげなあの人のために。







 あとは無我夢中だった。正直、紙一重の差だっただろう。

 必死に手を伸ばして、その一重の差を振り切ってやっと掴んだ勝利で、これでやっとあの人を笑顔にできるとそう思って。だがしかし迎えてくれた彼女が見せたのは、次々と零れ落ちる大粒の涙だった。


「ごめんなさい……ごめんなさいっ!」


 彼女は声を振り絞るようにして、むせび泣いていた。

 ああ……私は彼女にこんな顔をさせたかったわけではなかった。もう一度あの笑顔を浮かべてほしくて、いつも悲しげな彼女の心が少しでも晴れたらと思っていたのに。

 ただやはり、黒姫様は泣いていても黒姫様だった。その涙に人外じみた治癒力が宿っているのがわかると、陛下は容赦なくその魔力を出し続けるよう黒姫様に命じる。それが本来ならもう二度と使えないであろう私の左腕を元通りにするためだとわかっていても、やはり黒姫様の涙を見続けるのは心苦しいものがあった。私の怪我が治るまでのあいだ、その透明な涙を零し続ける黒姫様を見守ることしか私はできない。

 このように黒姫様を悲しませてしまうのならば、もう少し遣り様を考えて臨めばよかった。いつになく悔いの気持ちを噛み締めていると、傷が治ったことにホッとしたのか、彼女もやっと落ち着いたように泣き止む。

 そしていざ、カレナリエルの乙女の口づけをもらうという段になって。

 黒姫様はなんと衆人環視のこの状況で、あまりにもあっさりと私の額に口づけを落としてきた。

 あまりにもあんまりな出来事に、すぐには対応できなくてぽかんと呆けてしまったのは、男として最大の失態だったと思う。


「どこでもいいとは言ったけど、額にする人は初めてだなぁ」

「……?」

「きっと知らなかったんだろうけどさ、君、額への口づけは愛の囁きだよ?」

「……!」


 どこかからかうような陛下の囁きに、黒姫様はかわいそうなほど真っ赤になってしまった。彼女はまた泣きそうなほどに唇を噛みしめると、そのままなにも言わずに背を向けて駆け去ってしまった。


「あらら……」


 苦笑いを浮かべている陛下を思わず見上げると、「そんな目で見ないでよ」とうっとおしげに手で払われる。

 わかっている。あの様子からして、きっとその意味を知らなかったのだろう。あまりにも衝撃的な出来事だった分、その事実の落差にがっかりしなかったと言えば嘘になるが、だったら。

 ――黒姫様の世界では、額への口づけはどんな意味を持つのだろうか。そこに意味はあったのだろうか。

 会場は衝撃的な口づけをもらった色無し()を囃し立てる声で騒々しい。それらがどんな野次であろうと、あまりにも皆が囃し立てるせいで、最早どんな罵声も言葉としては届いてこない。

 そんな中、陛下は項垂れたまま動かなくなったセリオン隊長を一瞥し、私に立ち上がるよう目で合図した。


「ここに今回のカレナリエル杯の優勝者が誕生したことを、アシュクロフト・ティボリ・イスタルシアが証明する! リネイセル・サンダルディア! その身に太陽の乙女の加護よあれ!」


 会場中から襲いかかってくる、割れんばかりの歓声。いや、歓声なのか野次なのか、だが誰がなんと言おうと今代の優勝者は私なのだから、都合良く歓声とでも捉えておくことにする。

 そんな会場の様子を冷静に一瞥しながら、一応おざなりに形式に沿った礼を披露した。


「これから身辺が騒がしくなるから、気をつけなね」


 陛下は完璧な笑みを浮かべ民に手を振りながら、嫌なアドバイスをしてきた。


「ここで下手を打ったりなんかしたら、リネイセルの子を身籠ったなんていうご婦人方がわらわら出てきちゃうからね」

「ご心配いただかなくとも、そういった下手は打ちません」

「まああれだけ盛大な愛の告白をされちゃ、そう言うしかないか」

「陛下」


 見上げた先の宝石のような深い蒼の瞳は、いつにも増して読めない。


「君、覚悟はできているの?」

「ええ」

「本気? 僕は全然歓迎だけどさ」

「ええ」

「アシュロムは意外と渋るかもね。ああ見えて執着心は人一倍強いから」

「存じております」

「あぁー……また僕の仕事が増えるなぁ」

「陛下」


 一層たしなめるような響きを感じ取ってもらえたのか、陛下は一瞬口を噤んだ。


「わかってるよ」


 それは、今までよりも随分とからかうような色味を抑えた、陛下なりの意思表示だった。


「それで少しでも黒姫がここにいたいって思えるのなら、僕だって残業でもなんでもするさ」


 深々と騎士の礼をとった私に、陛下はため息を一つだけ寄越した。








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