幻想
倒れ込んできたグルーイルの体を、間一髪でリネイセルは弾き倒した。
普段物静かで穏やかな彼にしては、随分と似つかわしくない、乱暴な動作だった。
「お疲れさまでした」
振り返ったその顔がいつも通りであることに、黒姫は内心ほっとため息をつく。彼女がグルーイルに話しかけられるたびにリネイセルの瞳が冷たく凍りついていくので、彼女は内心、気が気でなかったのだ。
リネイセルはしゃがみ込むと、倒れたグルーイルの体に触れた。
「リネイセル、彼は意識を取り戻すでしょうか?」
「五分五分、といったところです」
顔を上げずにリネイセルはそう返す。
「夢の中ではきっと、黒姫様を手に入れた勝利に酔いしれているかもしれませんね。その甘美な夢に浸りきってしまえば、彼はもう目覚めないかもしれません」
「そうですか……」
魔力中毒に対してのとりあえずの応急処置を施したあと、リネイセルは立ち上がって扉の方へと視線を遣った。
どこまでが現実でどこまでが夢だったのか。くたりと横たわったグルーイルの体は、微動だにしない。
「ですがこれで、はっきりと証明できましたね。ご覧いただけましたか」
リネイセルが静かに声をかけた先、そこには青ざめた顔で呆然と立ち尽くしているニムラス王がいた。
「ニムラス国第二王子は黒姫様を歓待するどころか、これを機にその魔力を手に入れようと画策していた。そうでなければ、この床下にこれでもかと敷き詰められていた魔道具の説明がつきませんよね?」
床へと敷かれた美しい模様の絨毯は所々焼け焦げており、その隙間からはプスプスと火花を上げる魔道具が姿を見せていた。
極めつけは、扉の奥の部屋を占領している、聳え立つ巨大で異様な建造物だ。
グルーイルが黒姫を無力化するべく心血を注いで完成させたその魔力吸収装置は、しかし黒姫とその伴侶が一瞬のうちに爆発的に放出した魔力に耐えきれずに、今は物言わぬただの物塊と化していた。
「ニムラスのとる道は、一つです」
恐れ慄き、思考さえも停止しているような国王に、リネイセルは容赦なく突きつける。
「グルーイル殿下の身柄を要求します。それと、二国間の友好条約の見直しを」
「それは……」
思わずといったように口を挟んだニムラス国王に、リネイセルは目を細める。ふわりと巻き起こる、抗いがたい甘い芳香。ニムラス国王やその後ろに控えている臣下の顔に、一様に動揺が走る。
「……あなたは、今ここで黒姫様の魔力なしでは生きられぬ体になっても構わないと、そう仰るのですね?」
リネイセルは戦慄く国王を気にかけることもなく、冷静にそう尋ねる。国王からの返答はなかった。
「リネイセル」
そのとき、黒姫の控えめな声が空気を破った。
「私からも、少しお話しさせてください」
床に寝転されたグルーイルをしばらく眺めていた黒姫は、やがて振り返ると真っすぐにニムラス国王へと視線を合わせた。彼の王はヒッと小さく喉を鳴らしたが、黒姫は構わずに静かに話し出した。
「ニムラス国王陛下」
黒姫は簡単なカーテシーを披露する。彼女が動くたびにふわりふわりと甘い魔力が漂い、死屍累々と折り重なって倒れていたグルーイルの部下たちが、それに合わせてピクリピクリと痙攣する。
「以前私は、グルーイル様の部下を名乗る男に拉致されたことがありました」
黒姫の顔には、ぞっとするほど表情がない。まるで虚ろに空いた穴の中がどろりとした闇で満ちているように、そこには底なしの黒い魔力しかなかった。
「あのときの恐怖は、未だに忘れることができません。どこへ行くのかもわからない馬車の中、両手は拘束され満足に動くこともできず、私は有無を言わさずに連れ去られました。……おまけに彼は、途中で私を殺そうとまでした。殺意をもって何度もナイフを振り下ろされました……鋭く尖った刃が、肌を滑っては切り裂いていくあの感触……! 痛くて痛くてとても怖くて……あなたたちに、あのときの私の恐怖がわかりますか?」
ニムラス国王は目を瞠る。今度は返事をしたくとも、声がうまく出せないようだった。
「でも私は、決してニムラスの仕業ではないと信じていたんです。ニムラスほど、イスタルシアと長い友情で繋がってきた国はありません。そのニムラスがまさかそんなことをするはずがない。これはニムラスの名を語った他国の陰謀ではないかって、私はそう信じたかった。だから今回の訪問はそれを証明する重要なものとなるはず、だったのに……」
黒姫が視線を伏せ、悲しげに声を震わせる。
発露した感情の振れ幅に呼応するように、ぶわりと膨れ上がった黒色の芳しい魔力が容赦なく彼らを襲う。グルーイルの作った魔道具がまったく機能しない今、彼らに成す術はなかった。
「まさかそんな、彼が本当に私を手に入れようとしていたなんて!」
黒姫は、再び床に横たわったまま微動だにしないグルーイルへと視線を遣った。
まるで屍のように生気のない、肢体。
閉ざされた彼の意識の中では、はたしてその野望は果たされたのだろうか。だがしかし、そんなことは黒姫にはどうでもよかった。
「これはニムラスの重大な裏切りです。私たちはこのことをイスタルシア国王陛下にお伝えせねばなりません。ああ、なんて心苦しいんでしょう! 陛下はさぞや、深く悲しまれることでしょう……私にもその悲しみがわかります。ニムラスの皆様とはいいお友だちになれると思っていたのに……」
「黒姫様……」
顔を覆った黒姫からはなんとも言えない濃密な香りが渦を巻いて立ち、慰めるように肩を支える彼女の伴侶からも、同じく絡みつくようなねっとりした魔力が忍び寄ってくる。
ニムラス国王は思わず膝をついた。意図したわけではないが、それは図らずも黒姫に跪いているように見えた。
「起きた裏切りは、犯した罪は償わねばなりません。陛下、どうかご英断を。幸い、イスタルシアはいまだニムラスに手を差し伸べています。これ以上ニムラスを悲しみの魔力で覆ってしまうことのないように、さぁ……!」
黒姫が顔を覆っていた手を降ろし、そろりと顔を上げた。二つの双眸から覗くどんな闇よりも深い闇が、ニムラス国王を覗き込んでいる。
彼は跪いたまま、許しを請うように両手を黒姫に捧げた。
「仰せのままに……」
しばらくニムラス国王を覗き込むように目を合わせていた黒姫は、やがてにこりと微笑んだ。それと同時に、彼らを拘束するように周りを渦巻いていた悪魔のような香りが、波が引くようにさっと消えていく。
軽くなった空気を求めるように、ニムラス国王は口をはくはくと動かした。その後ろでは臣下や護衛の騎士たちも一様に、蹲って喘いでいる。
「失礼いたします。リネイセル様、終わりましたか?」
「ええ、恙無く」
扉が開き、控えていたイシルウェが顔を出した。大方の魔力は回収されたはずだが、それでも色素の薄い彼は僅かに顔を顰めてみせる。
「これは、また……」
その濃密な残滓に、大方のことは察したのだろう。
だがイシルウェはその中心に立っている黒姫が、僅かに震わせた肩を抱いて立ち竦んでいるのを見て、迷わず彼女の元へと向かった。
「黒姫様」
視線を上げた彼女は、イシルウェに気づくと無理やりに微笑みを浮かべてみせる。
「イシルウェ、お待たせしました」
「いえ、あとはお任せください。……よく頑張りましたね」
黒姫の笑顔が一瞬泣きそうにちらりと歪む。その彼女の肩を抱いて、リネイセルは足早に彼女を連れて部屋を出ていった。
イシルウェは去っていってしまった二人の後ろ姿をしばらくの間、眺めていた。
やがて、振り返った彼の瞳にはもう、感情の色は浮かんでいなかった。




