嫉妬
前回の続きになります。
ベルゼンヌ侯爵夫人って誰なんだろう。
昨日、リネイセルの口から二度も出てきたその名前に、今日になって今さらもやもやしている。
侯爵夫人っていうからには既婚者なんだろうけど、私の知らないところでリネイセルと接点があった女性がいるというだけで、お腹の底に黒い澱みたいな、嫌な感情が溜まっていく。
ずっと会いたかったリネイセルと会えて幸せなはずなのに、私はどんどん贅沢になっている。
昔は、その陽の光に透き通る湖のような瞳を向けてもらえるだけで、幸せだった。でも今は、その瞳に私以外の誰も映してほしくないとさえ思っている。
こんな心の狭い自分じゃダメだ。リネイセルに知られたら幻滅される。
思わず頭を抱えて呻いていた。
「黒姫様」
お茶を淹れに部屋にきていたメイヤさんが、見兼ねたように声をかけてきた。
「お加減でも悪いのでしょうか」
この世界に来てから、この方風邪も引いたこともない。この魔力が関係しているのか知らないが、まったくの病気知らずの私がうんうん唸っているのが、よほど変に映ったのだろう。それも昨日リネイセルに会えたばかりで、今はなにもかもが順調であろうはずの私が。
「……メイヤさん、ちょっとお聞きしたいんですけど」
恐る恐る尋ねた私に、メイヤさんは姿勢を伸ばしてまっすぐに見返してくる。
「あの……ベルゼンヌ侯爵夫人って、誰ですか……?」
その途端、いつも粛々としているメイヤさんが噎せたように咳き込みだした。
今まで一度たりともそのような姿を見せたことのないメイヤさんが、である。
なにがあっても絶対に曲がらないだろうと思っていた背中を丸めて咳き込む姿に、すぐに対応できなくて、しばらくポカンと見つめていた。
「だ……大丈夫ですか?」
「……失礼しました」
メイヤさんは慌てて体裁を取り繕うと、すぐにいつも通りの控えめな表情に戻る。
「黒姫様は、ベルゼンヌ侯爵夫人が誰か分からないと、そう仰るのですね?」
「あっ……はい」
なぜ念押しのように確認されたのか分からなくて、戸惑いながら頷く。
私が関わりのある貴族の婦人といったら、アシュリーぐらいしか思い浮かばない。
「なぜ今さら、その名を気になさるのですか」
「あの……えっと、ですね……」
まさか嫉妬してるだなんて、言えない。急にしどろもどろになった私に、メイヤさんがまた生温い目になった。
「……リネイセル様、でしょうか」
「……っ!」
分かりやすく挙動不審になった私に、メイヤさんは質問の答えをくれなかった。
「であれば黒姫様、その質問は直接リネイセル様にされるのが、一番良いのではないでしょうか」
その返事にどきりとする。まるで私の内心を見透かされたかのようだった。
「リネイセル様に言伝を伝えておきますので、ゆっくり話されてはどうでしょう」
「でも……」
リネイセルは今、忙しいはずだ。その忙しい中を、わざわざ昨日会いに来てくれたのだ。それなのに、昨日の今日で呼び出すなんて……。
「黒姫様は以前、仰られていましたね。アシュロム様ともう少し会話を重ねていれば、この結末は変えられたのかもしれない、と」
結局私には、アシュロムがなぜあんなことをしでかしてしまったのか、分からず仕舞いだった。
国を裏切ってまで隣国に私を売って名を上げたかったのか、ならなぜ最期に私を庇って命を落としたのか。
今でもときどき考えることがあるけれど、多分一生答えは出ない。あの言葉が嘘なのか、本当だったのか、今はもう確かめる術はない。
「……そうですね」
恐怖に竦む心を、手をギュッと握りしめて押し込める。
私とリネイセルは、これから夫婦になる。せっかくリネイセルの妻になれるのだから、アシュロムのときみたいに、形式だけのもので終わらせたくない。ちゃんとした、心の通った夫婦になりたい。
そう望むのなら、これから話し合わなければならないことなど、きっと山ほど出てくるのだろう。
こんなことで怯んでちゃだめだ。きっと冷静に尋ねれば、リネイセルもちゃんと答えてくれるはず。彼は私の話を聞いてくれる。絶対にないがしろにしない。
「メイヤさん、お願いできますか?」
メイヤさんは、躊躇いながらもそう言った私に、しかめつらしい顔で重々しく頷いた。
リネイセルはなんとその日の夕方、駆け込むように私の部屋を訪ねてきた。
「黒姫様、お加減が優れないというのは本当でしょうか」
乱れた髪を直しもせずに現れたリネイセルに、控えていたメイヤさんに視線を送る。まっすぐに前に向けられた視線とは交差しなかった。
「いえ、あの……えっと、それはですね、ちょっとした、その……そういうこともあるような、ないような……」
尻つぼみになった声に、リネイセルが目の前にしゃがみ込んできた。覗き込むように透き通った翠の目が向けられる。その瞳を向けられると、嘘はつけなかった。
「……ごめんなさい! どうしても、その、聞きたいことがあって……」
「黒姫様」
なかなか切り出せない私の手を、リネイセルが優しく握ってくる。
「遠慮なさらず、仰ってください。あなたがなにを気にしているのか、私も知りたい」
優しい声音は、いつでも私を待ってくれる。
この人はなぜこうもいつも私に優しく、甘く接してくれるんだろう。
「あの……その、ベルゼンヌ侯爵夫人って、いったい誰なんですか!」
覚悟を決めてそう募ると、リネイセルの目が驚いたように見開かれた。
「なんだかリネイセルとお知り合いみたいですけど……仲がいいんですか!」
その瞬間、リネイセルの目がメイヤさんの方へ向けられた。そして後ろでメイヤさんがまた咳払いをした。
「それは……」
リネイセルの視線はまた私に戻ってきた。なんだか困惑しているみたいだ。
「知り合いでは、ありますが……」
「どういった……お知り合い、でしょうか……」
怖い。知りたくない。昔想いを寄せていたとか言われたら、どうしよう。
まだ昔ならいい。いや、よくないけど……でも実は今もちょっと未練があるとか言われたら……。
「ベルゼンヌ侯爵夫人とは、メイアーデン・ベルゼンヌ……あなたがメイヤさんと呼んでいる、ちょうどその方になりますが……」
リネイセルの言葉に私は信じられない思いでメイヤさんを振り返った。
メイヤさんはいつもと変わらず粛々とその場に立ち、私を見返してくる。
「初めにお伺いしたときに、お伝えはしておりました。黒姫様には二年もの間、お側に仕えさせていただきましたが……どうやら覚えていただけてはいなかった、ということですね」
そう言われたら、なにも言い返せなかった。
みっともなくポカンと口を開いたまま、わなわなと震える私を、リネイセルが心配そうに見上げてくる。
「黒姫様、大丈夫でしょうか」
「あ、はい……あの、大事な時間をこんなことに割かせてしまって、本当にすみませんでした……」
がっくりと肩を落として、ソファに項垂れるように座り込む。
「……教えてくれてもよかったのに」
思わず恨めしげに呟くと、後ろからしれっとしたまま、粛々とした声でメイヤさんが反論してくる。
「私からお伝えするのは簡単ではございますが、それではなんの解決にもならないと思いました故。差し出がましい真似をしてしまい、大変に失礼いたしました」
「いえ……」
言われたことになにも反論できない。
この二年間、言いたいことなどなにも言えずにひたすら流され続けたのを、誰よりもそばで見てきたのは、紛れもないメイヤさんだった。
「ですけれど、その、そんな侯爵夫人ともあろう方がまさかそんな、私の身の周りの世話だなんて……」
「それこそお言葉ですが、黒姫様のような、王族をも凌駕するほどの高い魔力に耐えられる者など、高位貴族ぐらいしかおりません。実際にこの二年間、様々な貴族子女を侍女へと取り立ててきましたが、誰も長続きする者はおりませんでした」
いつも身の周りの世話をしてくるのが、私が苦手にしていたあの貴族の令嬢たちだと知って、びくりと身を震わす。
「そうだったんですね……じゃあ侍女はもう、メイヤさんだけで結構です。他のことは自分でしますから」
「黒姫様、またそんな……」
困ったようなメイヤさんに構わず、私はリネイセルの手を縋るように握った。
「リネイセル、私、結婚したら侍女は要りません。元々私は、ここに来る前は一人暮らししていたんです。自分のことは自分でできます。ある程度の使用人さんは必要だろうと思いますけど、私の周りには要りませんから」
「分かりました。黒姫様がそう仰るなら……」
「リネイセル様」
快く要求を呑もうとしたリネイセルを、メイヤさんが水を差すように遮った。
「ドレスの着付けは、誰がするのでしょうか?」
それに二人とも無言で黙り込む。
「……黒姫様もリネイセル様も、元は慎み深くお暮らしになっていらっしゃったとのことですから、そのお気持ちも分かりますが……黒姫様、イスタルシア一族となられるのでしたら、その程度のものを恐れていては話になりませんよ?」
いつになく厳しいメイヤさんに、しょぼんと項垂れる。覚悟していたとはいえ、その覚悟が甘かったということか。
項垂れたまま唇を噛み締める。その私の手をぎゅっと握ったのは、真摯な顔のリネイセルだった。
「黒姫様、恥ずかしい話ですが、私も同じです。今まで人の上に立つことを知らずに育った私が、今度は人の上に立って動かさなければならない。私も今、かつてない困難の壁にぶつかって四苦八苦しています。……ですが、私たちは幸いにも一人ではない。一筋縄ではいかないことも多々あるとは思いますが、共に頑張りましょう」
……そうか。
リネイセルだって、私と結婚するために色々と大変な目に遭ってるんだ。
ふと、今までの一人ぼっちの時間を思い出した。
みんなに遠回しにされ、婚約者のアシュロムは素っ気なく、ほかの女性のところにばかり居て。王の言いなりのまま、人形のように暮らしてきた二年間。
そのときの寂しさに比べると、今はこれ以上ないほどの幸せを手に入れることができた。ずっと私の心の支えだった新たな婚約者は、辛いことも一緒に乗り越えようと声をかけてくれる。
……だったら、これくらい乗り越えてみせなくては。リネイセルの隣に立ちたいなら、これくらいのことで負けていられない。
コクリと静かに頷いた私に、メイヤさんが満足そうに頭を下げた。
「リネイセル、一緒にがんばりましょう……!」
「はい」
リネイセルは淡く微笑んでくると、また私の手の甲に口づけた。
そのふと見せてくれた甘い表情に、構えもしてなかった私は見事に撃ち抜かれる。
「……黒姫様?」
どうしたのか訝しげなリネイセルに首を振りながら、しばらくの間その手を握りしめて、一人もだもだと悶えていた。




