番外編「私だけを見つめて」
お待たせして申し訳ありませんでした。
小さな恋の物語、です。
王弟ジュールの次女ヴァレリーは、静かすぎる姫だった。
少しも話さない、笑わない、ほとんど泣かない。
こんな赤ちゃんは初めてだわ、と乳母や侍女たちは思った。
声帯や耳には異常はなかった。
母親のアマリエは大らかな性格で、赤ん坊の身体はどこもなんともないとわかると静かな娘をあっさり受け入れた。
「ヴァレリーはそういう個性なのね。
オディーヌはやかましいくらいお喋りだったけど、姉妹でも性格がずいぶん違うのね」
そんな風に呑気なアマリエに比べて、父親のジュールは口には出さないが心配で夜の眠りも浅いほどだった。
ヴァレリーに聞かせようと評判の名曲を集め、暇さえあれば娘に話しかけたり笑いかけ、日頃無口な男とは思えないほどマメな父親ぶりだった。
1年、2年と月日が過ぎたが、ジュールの努力もむなしくヴァレリーは喋らなかった。
驚いたときや、うっかり転んだときに、「あ」とか「う」とか言うくらいで、ほぼ喋らない。お気に入りの音楽が奏でられているときに僅かに微笑むくらいで、ほとんど笑わない。
さすがのアマリエも「娘は本当に大丈夫だろうか?」と少しずつ不安がもたげるようになった。
基本的に呑気なアマリエがそう思うくらいなので、アマリエとは違って桁外れに神経質なジュールは娘が心配なあまりに不眠症と食欲不振、気鬱に苛まれていた。
周囲の者は、むしろ、ヴァレリーよりもジュールを心配し始めていた。
ヴァレリーは3歳の誕生日を迎えた。
王族の姫は幼いときはあまり外へは出さない、という慣習があった。
「良くない影響から守るため」と言われている。
温室の中で大事に大事に育てられるバラのごとく、深窓の姫は育つ。
綺麗なもの、優しいもの、浄められたものだけの世界で成長し、ヴァレリーは親族しか知らないままに3歳となった。
お披露目は5歳からと決まっているので身内だけのお祝いだ。今年の3歳の誕生日には叔父のサリエルといとこのルシアンも招かれていた。
内輪の宴なので、こぢんまりとした居間で開かれた。
最初に到着したのは、これまでもたまに遊びに来ていたいとこのユーシスと、ユーシスの弟のエカルト。国王夫妻ももちろん一緒だ。
「おめでとう! ヴァレリー」
「おめでとう」
国王夫妻は大きな黄色いバラの花束とぬいぐるみを持ってきた。ぬいぐるみを抱えてきたのはユーシスとエカルトの兄弟だ。
ヴァレリーはじっとプレゼントを見てから小さく頷いた。
ノエルたちは、ヴァレリーの反応の薄さはとうに知っている。
「気に入った? 抱っこしてあげてね」
ノエルはぬいぐるみをヴァレリーの隣に置いた。
叔父のロベールは真珠とレースの髪飾りをヴァレリーに見せた。
「きっと似合うよ」
と微笑んで小さな手に乗せた。
ヴァレリーは、また僅かに頷いた。
サリエルとルシアンが到着した。
サリエルは薄桃色のバラの花束を持ってきた。
ルシアンが持っているのは絵本だった。
「初めまして。おめでとう、ヴァレリー。
叔父のサリエルだよ」
サリエルが声をかけると、ヴァレリーはそっと頷いた。
サリエルが退くと、ルシアンが一歩、歩み寄る。
「こんにちは、ヴァレリー。おめでとう。
僕はいとこのルシアンだよ。
この絵本、すごく面白いよ」
ルシアンは絵本を見せながらヴァレリーに教えてあげた。
ヴァレリーはルシアンに視線を向け、それから目を見開いた。
まるで生まれて初めてなにかを認めたかのように表情を変えた。
ヴァレリーは今までは、ずっと人形のようだった。傷ましくて口には出せないまでも誰もが思っていた。
生きているお人形だ。
なにを見ても、なにを聞いても、反応が僅かしかなかった。
ところが、ルシアンを見たとたん目覚めた・・さながら、呪いを解かれた姫君のごとく。
「るし、あん」
ヴァレリーが初めて自分の意思で自分の声で、なにかを喋った。
時間が止まった。
この居間の中だけ時間が凍り付いたかと思うほど誰も何も言わなかった。
それから、ゆっくりと時が動き出した。
「うん、なに?」
ルシアンは微笑んで首を傾げた。
「ルシアン」
「そうだよ、よろしく!」
「すき」
「え?」
「るしあん、すき」
「え?」
「るしあん」
「うん?」
「すき」
「え? そう?
僕も好きだよ!」
「すき」
「ちょ、ちょっと、待ちなさい、まだ早・・」
ジュールが愛を囁き合うふたりの間に入ろうとするのを、アマリエは力尽くで阻止した。
「こら、邪魔するんじゃない!
せっかくヴァレリーが恋する乙女になってるのに!」
「そうよ、ジュール!」
ノエルも参戦。
「様子を見ようよ」
ロベールが楽しそうに口を挟む。
「まだ子供ですし。よろしいでしょう」
サリエルが苦笑し、
「そうそう」
シリウスも頷いた。
「だ、だが、まだ・・」
「まぁ、良かったわ、ヴァレリーが会話を楽しめるようになって」
アマリエが楽しそうに言うと、
「・・これが会話・・」
ジュールが項垂れた。
その間も、ヴァレリーと子供たちは楽しげに過ごしていた。
「絵本、めくって見てよ」
ルシアンがソファに座るヴァレリーのそばに跪いて絵本を渡した。
「うん」
ヴァレリーは素直に絵本を開いた。
「綺麗な絵本ね」
オディーヌが横から絵本を見ている。
「ルシアンが選んだの?」
ユーシスもソファの後ろから絵本に視線を落とした。
「僕もみる!」
エカルトがユーシスの背に乗っかるように上からのぞき込んだ。
「勇者が、悪魔に呪いをかけられた姫君を助けるお話なんだ」
「結末を言っちゃだめよ、ルシアン」
オディーヌが急いで止める。
「冒険のところが面白いんだよ。
呪われて寝込んでる姫君は可哀想だけど」
「だから、そこら辺は言っちゃ駄目よ」
「おひめさまとゆうしゃ、けっこんする?」
ヴァレリーが不意に尋ねた。
「言って良いかな?」
ルシアンはオディーヌをちらりと見た。
「ヴァレリー、それは読んでからのお楽しみよ」
オディーヌが答えた。
「けっこん、しない? しないなら、やだ」
「うーん。
ルシアン、するの?」
オディーヌは、絵本の勇者と姫君は結婚するのか? という意味で尋ねた。
「するよ、もちろん」
ルシアンは、頷いて答えた。
「じゃぁ、する?」
ヴァレリーはルシアンを見つめた。
「うん」
「う゛ぁれりーと、する?」
「え?」
「する?」
「えっと、する・・」
ルシアンが答えようとするのを、オディーヌは慌てて口を塞いで止めた。
「待って! それはまだ待って!」
「今のは、ちょっと待った方がいい!」
ユーシスも止めた。
「しないの?」
ヴァレリーが目を潤ませる。
「お母様!」
オディーヌが助けを求めた。
「まだ早い!」
ジュールは、いつもは切れ者と評判の男だが、このときは「まだ早い」しか言葉が浮かんで来なかった。
それから3年が過ぎた。
ヴァレリーは6歳にして竪琴の才能ありと教師に絶賛されている。
今日も柔らかな音色を響かせながら竪琴を奏で、音に合わせて歌を紡ぐ。
『桃の花咲く道をあなたと歩くの。
ずっとずっと、一緒に・・。
私だけを見つめて。
私だけに微笑んで。
私たけに愛を語って』
隣に座らされたルシアンはじっと耳を澄ませる。ヴァレリーは曲を終えた。
「とても素敵だよ、ヴァレリー」
ルシアンは手を叩いた。
6歳児の割にマセた曲だとは思うが、声も歌も素晴らしかった。
周りの侍女たちもほぅっとため息をついている。
幼い少女の歌とは思えないほど完成されている。
おまけに声は天使のごとく麗しい。
「結婚したくなった?」
ヴァレリーが首を傾げる。
「ぅ・・」
ルシアンはいつも答えに困る。
ジュール叔父上に歓迎されていないことはよく知っていた。
「ねぇ、ルシアン。ヴァレリーのこと、好き?」
「うん、好きだよ」
「じゃぁ、結婚・・」
「ヴァレリー、そういう迫り方はやめなさい」
オディーヌが呆れ顔で口を挟んだ。
「どういう迫り方なら良いの? お姉様」
ヴァレリーは若干、不機嫌に問い返した。
「まずは好きになって貰えるように、信頼と好意を深めていくべきだわ」
「好きになって貰えるように歌を歌ったわ。
それから、プレゼントもした!」
「・・またなにか贈ったの・・」
「刺繍のハンカチ」
「・・ずいぶん、まともになったわね」
ヴァレリーは『お父様よりルシアンの方が似合うから』とジュールの上着やシャツを贈ってしまい、父親を泣かせていた。後でサリエルが返しに来るのだが、「成長したら着てくれ」とジュールは毎度、そのままあげていた。
アマリエが「ひとのものをあげてしまうのは失礼よ」と禁止した。
「ヴァレリーの名前を刺して贈ったの」
ヴァレリーが自慢げに答えた。
「・・普通は相手の頭文字とかを刺すのよ」
「使うたびにヴァレリーのことを思い出して貰えるように」
「重い・・重すぎる」
オディーヌは色々と規格外な妹が心配になった。
「愛されて良かったな、ルシアン」
ユーシスが笑顔でルシアンの肩を叩く。
「・・う・・ん」
ルシアンは、サリエルから「きっと、幼い恋心が冷めるまでの間だよ」と言われていた。
そうなのかもしれない。
それにしても、今のところ3年間は冷めなかった。
――でも、冷めたらちょっと寂しいかな。
◇◇
ルシアンたちが帰ったのち。
オディーヌは刺繍に精を出す妹に尋ねた。
「なんでそんなにルシアンが好きなの?」
ヴァレリーはちらりと姉を見てから刺繍に視線を戻した。
幼い指では、なかなかうまく刺せない。おかげで、とても時間がかかった。
指を針で刺すとハンカチが血で汚れてしまうので、ヴァレリーはとても慎重だった。
「初めて会って、この世で一番、素敵だと思ったから」
「・・3歳だったわよね。
男なんか、身内と護衛くらいしか知らなかったのに?」
王宮の従者や近衛は美男が多いが、ヴァレリーのお眼鏡にはかなわなかったらしい。
「そうよ」
ヴァレリーはすまして答えた。
幼子のころの記憶などほとんどないが、ヴァレリーは「ぼんやりしてた」と少しだけ覚えている。
ぼんやりしていたのだ。モヤの中で生きていた。
物心がつき始めたころ。
ヴァレリーは、みなに気遣われていることに気付いた。
はっきりとではないが、なにか不自然な気がした。
それは、おそらく、同情やいたわりや心配という感情だったのだと思う。
姉のオディーヌやいとこのユーシスでさえそうだった。ふたりは聡いので、大人たちのヴァレリーに対する心配を感じ取っていた。
そこに、ルシアンがやってきた。
ルシアンには、同情も心配も気兼ねも、なにもなかった。
『絵本、面白いよ』と勧めてくれた。
同い年のいとこエカルトも、同情やら気遣いやらはなにもない野生児だ。野生児すぎて、ヴァレリーは同じ種類の人間と見ていなかった。
だから、ルシアンだけだった。
ルシアンだけが、なんの曇りもなくヴァレリーを見てくれた。
「ルシアンが、好き」
「はいはい」
「ルシアンは、私だけを見て欲しいの」
「はいはい」
――お父様は、許すしかないわよねぇ。
オディーヌは「きっと時間の問題よね」と思った。
でも、ルシアンの気持ちはどうなってるのかなぁ、と少し不安にも思った。
ふたりの恋の行方は、まだまだ迷走しそうだ。
長らくお待たせいたしました。
長編スランプに陥っておりました。
やっと学園編とルシアンの恋(?)物語をお届けすることが出来ました。
また番外編などが出来ましたら投稿いたします。
とりあえず、一端、完結に戻させていただきます。
本編完結後もずっと応援してくださって、本当にありがとうございました。おかげさまで、長く続けることが出来ました。
心より感謝を。




