学校編「よく学び、よく鍛えよ」9
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「ハイネ。ジートは、また鶏小屋で昼寝かい?」
庭を見回したサリエルは、果菜の畑で手入れをするハイネに声をかけた。
「はい。歳ですかね。
最近は、孫のクートが見回りをするので任せているようです」
ハイネは答えた。少々、寂しげな声に聞こえた。
「仕方ないな。歳には勝てないか……」
「ルシアン様が寂しがりそうです」
ハイネは案じるようにそう言った。
「忙しくしてるようだな」
サリエルは休みになっても戻らない息子に思いを馳せた。
「元気に活躍されていることでしょうね」
ハイネは屈んでいた腰を伸ばすと微笑んだ。
「ハイネ。
学園に入る前に、あのことをルシアンにこちらから教えてやるべきだっただろうか」
サリエルは、つい訊かれないからと先送りにしたことを、今更悔やんでいた。
「ゼラフィ様のことですね。
私としては、ルシアン様から尋ねられたら答えるほうが、自然で良いかと思っておりました」
「私もなんだ。
逃げているようで情けないが」
「知りたいと思うまで待ってから教えるのは、何事についても、こちらの方針ではなかったですか」
ハイネは首をかしげた。サリエルの考えはわからないでもないが、そこまで知りたいと思わないからルシアンは訊かなかったのだろうとハイネは考えていた。
ルシアンの母の事情は複雑だ。
それをまだ受け入れるだけ心が成長していないと教えにくかった。
どこで見極めれば良かっただろうか。
その目安に、少なくともルシアンが知りたがったら、と決めていただけなのだ。
「まぁ、勉強面ではそうだった。
だが、血筋のことまでそうして良かったものか」
サリエルは苦々しく答えた。
「それでは、今度は、自然とそれらしい話題になったらさりげなくお伝えすれば良くないですか?
まぁ、畏まって重々しく告げても良いですが」
ハイネは、畏まって話すのではサリエル様は緊張しそうだな、と思いそう提案した。
「そうだな。
考えておく」
サリエルはふと、ハイネの手首のお守りを目にして、『あれを渡すときが良い機会だったのかもしれないな』と今更思った。
◇◇◇
ヴィオネ領にある領主邸は、長らくボロボロのままだった。
王都にある別邸は早々に修繕をしたが、領地にある邸まではサリエルは手が回らなかった。その頃はヴィオネ領は国の管理下にあった、と言う理由もある。
前の領主は、自分が泊まるのに困らないように最低限のところだけ直していた。それも、領民を格安で使って、だ。
サリエルは、徐々に暮らしが楽になってから少しずつ修理をしていった。
きちんと相場の代金を領地の大工や左官に支払って修理をしてもらったので、「今度の領主はまともな人だ」と評判だった。そんなことで評判になるのだから、前のヴィオネ伯は本当に性悪だった。
ルシアンは、領地の邸の修繕がほぼ終わり、領民たちの領主への感情と関係が良好だと父が判断してから領地に連れて行かれた。その時には既に8歳になっていた。
それまでは、ルシアンの生活は王都の別邸の中に限られていた。
父とハイネと鶏たちと、植物たちだけが全てだった。成長してからは、3人で連れ立って町に買い物に行くことはあっても、それはささやかな非日常でしかなかった。
ルシアンには「お母さんは居ないの?」と訊いてくる者が居なかった。
身近に、父親と母親と子供たちという家庭もなかった。
さらに成長した頃には、ルシアンは父たちに「僕のお母様は?」と無邪気に尋ねることは出来なくなっていた。
自分が父に似ていることは気づいて居た。それなのに母親が居ないということは、父の伴侶は亡くなった可能性が高い。こういう場合、失った方は辛いだろう。
それに、大牧場の娘であるララから、牛のお産は大変で、人間でもお産で命を落とす母親は珍しくないという話を聞いて知っていた。ルシアンは、母親の死因はそれかもしれない、と漠然と考えた。物心ついたときには母はすでに居なかったからだ。
ルシアンが赤ん坊の頃から親しくしているララでさえも、母のことを知らないのだ。
あの優しい父と、ルシアンを産んだ母が生き別れる理由など、想像が付かない。そんなことがあったとしたら、相当に複雑でやむを得ない何かがあったのだ。だから、母は亡くなったのだろうと、すんなりとそう想った。
そういった事情により、自分の母親については触れないことに決めていた。
父が話さない限りは触れない。ハイネに尋ねなかったのは、父に聞いてからハイネに尋ねるべきだろうとルシアンなりに気を遣ったのだ。
それで、自分の母親については知らないでおいた。自分から進んでそうしたのだ。
父やハイネに大事にされていることは十分に知っていたので、気持ちの上で不満もなかった。
なぜこんなことを今更考えているのかと言うと、自分の隣に座った少年が、ルシアンにそれを訊いてきたからだ。
生徒会室に行ったユーシスを待って図書室にいる時だった。
「すみません、隣、よろしいですか」
と、淡い金髪に緑の瞳の少年がルシアンの隣に立った。
ルシアンと変わらない背丈に端正な容姿で大人しい印象の彼は、ユーシスの側近候補のひとりだ。
――パトリスという名前だっけ。
家名の方は……セルバだったかな。
自分には関係がないと思っていたので聞き流していた。すぐには思い出せなかった。
側近候補たちはユーシスの側にいるので軽く挨拶くらいはした。その時に、ユーシスから名前も聞いた。
頷いて答えると、パトリスは隣に座った。
「親しくなりたい、と思いまして」と話しながら、パトリスは防音のための結界を張った。図書室の中だからだろう。
さほど強力なものではないが、小声で話せば十分だろうと思った。上手な魔法だった。さすが側近候補、優秀だ。
「私と、ですか」
ルシアンは、一応、敬語を使うことにした。
「はい。ユーシス様のご友人でいとこの方ですから」
「そんな理由でわざわざ無理しなくてもいいと思う……思います」
ルシアンは淡々と答えた。パトリスは好きでも嫌いでもないが、義務感で友人になるのは違うと思う。
「いえ、その。わざわざ……でもないのですが。
クラスで少し嫌がらせをされてますよね。それが気になったのもあって」
パトリスは言いにくそうに説明をした。
「教科書が破かれたり、ノートが取られた件?」
一昨日、ノートが消えたことを思い出した。
状況的に、盗まれたのは明らかだった。名前が記されたノートを間違えるはずもない。
「そうです。ユーシス様以外の友人が増えれば、そういうのもなくなるんじゃないかと思ったんです」
パトリスは生真面目にそう言った。
「そうか。ありがとう」
ルシアンは微笑んで答えた。パトリスいい奴だな、と密かに感心した。ユーシス以外にこの件でルシアンを心配したクラスメイトは居なかった。
「いえ、ヴィオネ様のことは気になっていたので。自分のためでもありますから。
嫌がらせの件だけじゃなく」
「……ユーシスの友人で、嫌がらせをされてるから、ね。
でも、別に、私自身はそれほど気にしてないよ。気遣いは有り難いけど」
ルシアンは肩をすくめた。
「謎の多いユーシス様のご友人、と噂されてるのはご存じですか」
パトリスはそっと声を潜めて尋ねた。
「知らないな。謎なんて、ないし」
ルシアンは首をかしげた。
「ヴィオネ家に養子に入られる前の家はどちらなんだろう、とか。
ヴィオネ家のご親族の家だそうですね」
パトリスは窺うようにルシアンを見た。
ルシアンはいきなりの問いに目を瞬かせた。それから、自分の母親に纏わる謎を今更ながら思い返した。
なぜ、自分が父にさえ訊けないことをよく知りもしない少年に訊かれなければならないんだろう?
そう考えて口を開いた。
「えっと。
僕と本当に親しくなりたい?」
「え? ええ、もちろん」
パトリスは戸惑いながらも頷いた。
「そうしたら、まずは、互いにもっと知り合うべきじゃないかな、クラスの自己紹介で話した以上のことを。性格や、兄弟がいるかとか。読んでる本とか。
そういうのも知らないのに込み入ったことを訊かれるのは、親しくなりたいひとの態度じゃないと思う」
ルシアンに指摘されて、パトリスは耳まで赤くした。
本当に恥じ入っている様子で、ルシアンに言われて怒ったりしている感じはなかったので、『やっぱり悪いひとじゃないな』とルシアンは思った。
ユーシスの側近候補は5人。
会話をしたのはパトリスだけだ。
他の4人には、無視されている。まるで空気のように。それを考えれば、パトリスは人が善いのかもしれない。
数日後。
入学してから3週間が過ぎた。
今日は、希望する選択授業を選び、申込み書に記入して提出する期限だった。
この3週間は基礎教科が中心で、小テストが繰り返し行われた。魔法の実技は中等部ではどの科も必修科目だが、魔法の基礎がうまく出来ているかも個別に調べられた。
そういう前準備の期間だった。
ルシアンとユーシスはそれぞれ記入した用紙を見せ合い、一緒に提出した。
翌週。
ルシアンが「希望順位1」としていた経営学は、なぜか「希望者多数のため、不可」となって受けられなかった。
◇◇
「父上。
王立学園の経営学の教授、ダニス・セルバ氏は、私の側近候補のパトリス・セルバの叔父ですね?」
「……そうだが」
シリウスは執務机から顔をあげて息子を見た。
やけにユーシスの声が固い。彼は学園から帰ってすぐに話があると執務室に駆け込んできた。
「パトリスは、もう候補から外してください」
「なにかあったのか?」
シリウスは強ばりかけた声と表情を抑えて、なるべく穏やかに息子に問いかけた。
「ルシアンが、希望順位1と付けた経営学の授業が、希望者多数という理由で受けられませんでした」
「……希望順位1なら誰でも受けられるはずではなかったか?」
シリウスは方眉をあげた。
「そうです。
それで、ルシアンが教授に問い合わせに行ったのですが、枠内に希望者が収まらなかったので不可能だと追い出されました。
一緒に学園長のところにも問い合わせに行きました。
それで、学園長がセルバ教授に尋ねてくれたのですが、希望順位1とは書いてなかったと言われたそうです。
ですが、私は一緒に申請書を出したので知っています。確かに、希望順位1と記してありました」
「その手違いの理由はわかるのか?」
シリウスはごく穏やかに尋ねた。
「ルシアンに嫌がらせをする者がいます。父上もご存じとは思いますが。
ノートや教科書を盗まれています。破かれて見つかったこともありました。
廊下の防犯用魔導具を使って調べてもらい、犯人がわかったので学園で対処してます。
事情聴取をしたところ、『たかが伯爵家の者のくせに、王太子殿下と親しくするのは生意気だと思ってやった』とか『嫉妬して』などと答えてます」
「……報告はあがっている。
経営学の授業の件は、こちらでも調べよう。
だが、嫌がらせとセルバ教授との因果関係ははっきりしたわけではないんだな?」
「無関係とは思えません」
ユーシスの苛立つ声に、シリウスは密かに吐息をつく。
気持ちはわかる。
だが、答えを焦るのは良い結果にはならないだろう。
「落ち着け、ユーシス」
「……落ち着いてます」
ユーシスはふてくされたように答えた。
「もちろん、こちらでも調べる」シリウスは、重ねて言い、
「パトリスを外すか否かも含めて検討する。額面通りの嫌がらせではないかもしれないからな」
と、言葉を付け足した。
――額面通りではない?
ユーシスは胸の内で父の言ったことをくり返し眉をひそめたが、シリウスは自分で考えろとでも言いたげにそれ以上話すことはなかった。




