第52話 祝福
北からの一陣の風と共に叩きつけられた凍てつく冷気は鎧の上から羽織ったオーバーコートの片側を氷漬けにしていく。雪で湿っていた部分がパキパキと音を立て、そうでない部分も白く霜がつき、さらけだしていた兜からは冷気が伝わって頭が割れるようだった。
「大蛇の陰に入れ!」
味方の一団に向かって駆け寄る。何人かは既に北側の大蛇の体の陰に隠れようとしていた。ただ、その大蛇の体自体が東に向かってじわじわと動き始めたように見える。
「動いたか! テーリカ、胴体に寄せてくれ。叩き切る!」
テーリカに大蛇の胴まで寄せて貰い。飛び降りざまに黒剣を叩きつけた! ざくり――と大きな抵抗もなく大蛇の胴に深く斬り込まれていく黒剣。ただ、斬り込んだ深さは剣身の半分程度。私は斧でも使うように大上段から何度も斬り込んだ。
腐臭とドロドロとした黒い体液にまみれながら、ようやく大蛇の背骨を叩き折った時には、私は大蛇の腹の皮の上に居り、その身は崖から乗り出していた。断ち切った後ろの胴体が前進を止めると、まだ動く前半分が無理矢理前進し、腐った肉と皮を引き千切っていく。
聖剣のようにはいかない。黒剣はやはり魔剣の域を出ない。時間をかけ過ぎた。崖の中段に向かって滑り降りると、目の前には大蛇の頭が迫っていた。
大蛇の頭は胴体が千切れたこともさして気にする様子はなく、私を見てニタついたように見えた。私は丘の上に出るべく駆ける。
「神に見棄てられし勇者よ、愚かにも吾が依代に歯向かうか!」
大蛇は人の言葉を操り、唸るように響く低い声で語りかけてきた。
「そうだ! 貴様が自惚れナホバレクか!」
「黙れ!!!」
大蛇は私の登る先を見越して巨大な口で噛みついてくる。ただ、巨大なだけあって動きはそれほど速くない。牙の向かう先を避けて躱し、引き際を黒剣で斬りつける。
「――吾が名は混沌の息子、至高の執政者、平原の造物主、ナホバレクなり!」
「高慢と嫉妬の神よ! 貴様の虚栄はこの戦いで打ち払われるのだ!」
「だまれだまれ!!!」
再び襲い来る大蛇の頭は斜面に沿って横薙ぎに噛みついてきた。
私はわざと崖を滑ると、大蛇の頭の下側へと潜り込み、喉の下を斬りつける。
首の下を潜り、丘の上まで駆け昇ると、再び大蛇の頭が鎌首をもたげ、奴は笑った。
「どうした? 神に見棄てられし勇者の一撃などこんなものか」
大蛇の頭を黒剣で斬りつけたはずが奴の頭には傷ひとつなかった。代わりに黒剣を見やると、その剣身はぼろぼろと崩れつつあった。
「こ、これは……」
「愚かな! 吾が齎したひと振りが、依代を傷つけられるとでも思うたか!」
再び襲い来る大蛇の頭!
「聖盾よ!」
私は大蛇の頭の下、顎の下に駆け込み、聖盾で横殴りに顎を打ち据えた! 私を狙って軌道を変えようとした大蛇の頭は聖盾で弾かれて地面に突っ込む。白く大地を覆う雪が掘り返され、土が舞い上がる。
「おのれ小娘!!!」
嚙み合わせの悪そうな牙を上下させ、ボロボロと雪交じりの土をこぼしながら悪態を吐く怪物。喋る怪物など出会ったことも無い。人語を解す醜悪な存在。これならばあの黒い戦侍女の方が遥かに美しい。
丘を後退しながらも、襲い来る大蛇の攻撃を聖盾で往なしていると、後方から大蛇の頭に向かって輝く槍が放たれた。
輝く槍は大蛇の上顎に突き刺さり、さらに赤い槍が続くと大蛇の頭を火球で包んだ。火球が晴れると大蛇の頭も全くの無傷という訳でもない様子。
「効力観測! 雷撃、火球、共に有効! 眠り、麻痺、効果認められず!」
増幅で拡声されたルハカの振り絞った声が聞こえた。振り返ると味方の一団には何らかの加護が降りていた。凍てつく吹雪が彼らの周りだけを避けるように巻いていた。
「引き続き制圧射撃!――姉さま! こちらへ!」
魔法での援護を受けながら、ルシアたちの元まで戻ると彼女たちの周りは完全に冷気が遮られていた。
「いったいこれは?」
「その、ルシアが何故か祈りを……」
そのルシアはというと、何か長い詠唱を続けていた。
金緑とフクロウの魔術師たちは全力で攻撃魔法を撃ち込んでいた。それでも押してくる大蛇は、首周りを大きく膨らませると紅蓮の炎を吐いてきた!
「聖盾よ!」
聖盾は巨大な障壁となり、紅蓮の炎の勢いを大幅に削いだ。我々の左右に降り積もった雪はそれだけで蒸発し、濡れた草木さえ炭に変えた。我々を襲う熱は肌を焼くが、この程度なら魔王が産み堕とした化け物との戦いで何度も経験してきた。
『姉さま、下がって!』
耳元で聞こえたルシアの声に、身を翻して加護の内側へと戻る。
「千の剣の怪物よ!」
ルシアが詠唱し終えると共に、正面の地面の雪がせり上がっていく。雪の中からは鬼火の光を受けて輝く剣が唐棹のように振りぬかれ、それは二十、三十と増えていく。やがてその全容を現した存在は、あの魔王との決戦で戦った強敵、千の剣の怪物だった。ただ、その腕は鋼の鎧を纏い、剣は暗い闇の中で光を帯びていた。怪物の幅は優に四十尺を超える、かつて見た千の剣の怪物に迫る大きさだった。
丘を迫りくる大蛇の正面から千の剣の怪物が打ち掛かり、大蛇の身を引き裂いていく。大蛇の前方の胴体はのたうち回り、辺りに地響きが轟く。胴体を引き裂かれる勢いを止めようと、押し行く千の剣の怪物に大蛇が噛みついていく――。
「すまない。ジルコワルの黒剣で倒すつもりだったが目算が外れた」
「いいえ、姉さまは何も間違ってません」
ルシアが私の左手を両手で取る。
「護ってやるつもりがルシアの手を借りることになった」
「そうではありません、姉さま。千の剣の怪物ではあれは滅ぼせません」
「では手が無いのか……」
「姉さまには聖剣がついているではありませんか」
「だが、聖剣は私を見限り、今は神殿に……」
「あたしはあのとき気付きました。あたしの中のあたし、ナホバレクは姉さまを黒剣で斬りつけました。ナホバレクは姉さまを両断するつもりだったのです。ですができなかった。この世に黒剣で斬れないもの、それは聖盾とあとひとつ……聖剣はここにあります」
ルシアは私の胸に指で触れる。
「私の……なかに?」
「はい、姉さまはもう十分、勇者たる資質を示されたと思うのです」
ルシアが指さす胸の中央に左手を当てると、そこからはあの四年間を共に戦い抜いた愛剣の柄頭が現れた。それを真っすぐに引き抜くと握りが、握りに右手を添えてさらに引くと鍔が、刃根が。長い剣身は引いた右手の反対側、左腕に沿うように現れ出でる。
「おお……」
一団の溜め息のような声が漏れ出ると、聖剣はここに顕現した。
「やはり、姉さまこそ勇者です」
ルシアはにこりと笑うと、私の後ろに視線を移した。
「――千の剣の怪物が滅びました」
「そうか。わかった」
再び遠くから相まみえた虚栄の神は、竜を依代としているにも拘わらず、まるで人間のような怒りと恨みに溢れた表情を見せていた。その見てくれが、憐れな神だと私に感じさせる。
虚栄の神の依代は、頭周りの刺々しい鱗を逆立たせるかのように広げると、咆哮を放った。竜の咆哮はそれ自体が魔法の力を帯びていた。時にそれは魔術に似た力を放ち、時には神の力さえ顕現させる。それが竜の魔法であり、力であった。地響きとともに大地が揺れた。領都の方では松明の掲げられた高い塔が崩れる様子が目に入った。大蛇が出入りした外壁も水堀へと大きく崩れ落ちる。さらには足元がふらつき、立っていられない。
いつ止まるかも知れない大きな揺れが続き、漸く立ち上がった時には目前まで大蛇の牙が迫っていた。
私は聖盾で大顎を打ち払い、聖剣で斬り裂く。
確かな手ごたえがあり、大蛇の顎は大きく裂かれていた。
周りを見ると、ルハカを始め、皆が未だに立ち上がっていない。揺れに足を取られていたのではない。怯えていたのだ。咆哮に伴う畏怖が彼らを竦ませていた。ただ、私の他にもう一人だけ畏怖に耐えたその者は戦女神への祝詞を唱えていた。歌うようなそれは祈りというよりは祝歌であった。
ルシアの美しい声が奏でる賛歌は我々を光で包み、勇気の加護を齎した。さらには、周辺の雪を溶かし、吹雪を萎えさせ、戦女神の祝福を齎す。ルシアは勇者の加護を得たと言っていた。ルハカが言った――簒奪された勇者の加護の一部――がそれなのだろう。だが、この役割分担は悪くない!
魔法攻撃の支援を受けながら大蛇の攻撃を往なし、斬りつける。大蛇は再び竜の咆哮を放つと、天から流星が降り注ぐ。流星を障壁で和らげつつ、戦士たちが魔術師を守る。畏怖にはもう誰も屈することは無い。ルシアの賛歌があるのだ。賛歌はさらに傷ついた味方を癒し、魔力を増幅させ、私にも力を与えてくれていた。
「聖剣よ!」
三度目の竜の咆哮を轟かせようと大蛇が鎌首をもたげた時、私は聖剣にあらん限りの魔力を込めた。聖剣は、かつて千の剣の怪物を打ち破った時以上の光の柱となった。私は二十尺は上に高くもたげられた大蛇の頭を狙い、振りぬいた!
ズン――地響きのような揺れと共に依代の首は地面へと突き刺さった。
ナホバレクは特に意識していたわけではありませんが、よく悪神の元ネタにされる某グノ〇シス主義の悪神をフレーバーにしました。私もナグ・ハマディ文書の邦訳が出たときには即買ってよくゲームのネタにしていました。最近では元ネタとして珍しくも無くなりましたが。
"A Dictionary of Angels" なんかもよく元ネタにしていました。こちらもかなり後に日本語版が出ましたが(翻訳してる途中だったのに!)、よくファンタジー物の元ネタになってます。あと、震災で翻訳出版やめてしまいましたが、魔女の家booksはグリモアの邦訳をたくさん出版されていてネタの宝庫でした。




