第2部 第5話
活動を始めて三週間が経った頃、一通の手紙が私のもとに届けられた。
それは、王城からでも、民衆からでもなく、ローゼンハイム公爵領から送られてきたものだった。
封筒を手に取った瞬間、私の指が微かに震えた。この筆跡を、私は知っている。
「……父から」
私は、その手紙をしばらく見つめていた。
開けるべきか、開けざるべきか。
(今更、何を……)
心の奥底で、冷たい声が囁く。
結局、私はその手紙を、開封せずに机の引き出しにしまい込んだ。
翌日も、翌々日も、父からの手紙は届き続けた。
しかし、私はそのすべてを、開封せずに引き出しにしまい込んだ。
「アウレリア」
ある晩、オリヴァーが私の部屋を訪れた。彼は、引き出しに積まれた未開封の手紙を見て、静かに言った。
「……読まないのか」
「読む必要がありません」
私は、冷たく答えた。
「今更、何を話すことがあるのでしょう。謝罪ですか? それとも、都合の良い言い訳ですか?」
「だが……」
「私を死地に追いやった人間の言葉など、聞く価値もありません」
私の言葉に、オリヴァーは黙り込んだ。
しばらくの沈黙の後、彼は静かに言った。
「……一つだけ、言わせてくれ」
「何ですか」
「俺も、父親とは確執があった。若い頃、ひどい喧嘩をして、何年も口を利かなかった」
オリヴァーの目が、遠くを見つめる。
「そして、父が死んだ。最期まで、和解することなく」
「……」
「今でも後悔している。あの時、もう一度だけでも話をしておけば良かったと。たとえ、許せなくても。たとえ、怒りが消えなくても」
オリヴァーは、私の目を見つめた。
「お前の父親が、どれほどの罪を犯したか、俺は知っている。許す必要はない。でも——」
彼は、私の手をそっと握った。
「会っておけ。後悔するぞ」
私は、しばらくオリヴァーを見つめていた。
やがて、深く息を吐くと、引き出しから一番新しい手紙を取り出した。
震える手で封を開けると、そこには見覚えのある、しかし以前よりもずっと乱れた筆跡で、短い文章が綴られていた。
『アウレリア
どうか、この愚かな父に、最後の機会を与えてはくれまいか。
お前に会いたい。謝罪したい。そして、伝えねばならぬことがある。
もし、この老いぼれを許す気持ちが少しでもあるのなら、公爵領まで来てはくれないだろうか。
無理は言わぬ。お前がこの手紙を破り捨てても、父は文句を言う資格などない。
ただ、どうか……
父より』
最後の一行は、インクが滲んでいた。まるで、涙が落ちたかのように。
私は、その手紙を見つめたまま、長い間黙っていた。
「……行きます」
ようやく絞り出した声は、冷たかった。
「ただし、許すためではありません。ただ、後悔しないために」
オリヴァーは、静かに頷いた。
三日後、私たちはローゼンハイム公爵領へと向かっていた。
ジルの背に乗って空から見下ろす公爵領は、王都ほどではないものの、やはり荒廃の影が色濃く残っていた。かつて美しく手入れされていた庭園は雑草に覆われ、荒れ放題であった。
公爵邸の門が開かれ、私たちを出迎えたのは、老いた執事だった。彼は私の顔を見ると、目に涙を浮かべた。
「アウレリア様……よくぞ、よくぞお越しくださいました……」
「お久しぶりです、セバスチャン。父は?」
「書斎にお待ちです。どうぞ、こちらへ」
案内された書斎の扉の前で、私は一度深呼吸をした。オリヴァーが、私の手をそっと握る。
「大丈夫。俺がいる」
その言葉に勇気をもらい、私は扉をノックした。
「……入れ」
低く、しかし以前よりもずっと弱々しい声が聞こえた。
扉を開けると、そこには見る影もなく老け込んだ父の姿があった。
かつて壮健だった体は痩せ細り、豊かだった髪には白いものが大半を占めている。深く刻まれた皺、落ち窪んだ頬、そして何より、その瞳に宿っていた誇り高き光は、今は消え失せていた。
「……父上」
私の声に、父はゆっくりと顔を上げた。そして、私の姿を認めた瞬間、その顔が激しく歪んだ。
「アウレリア……本当に、本当に来てくれたのか……」
父は立ち上がろうとしたが、足に力が入らないのか、よろめいて椅子に手をついた。
私は、その場に立ったまま、冷たく見下ろしていた。
「手紙を読みました。それで、参りました。ただし——」
私の声には、一切の温もりがなかった。
「許すためではありません。ただ、後悔しないために」
父の顔が、苦痛に歪む。
「……そう、か。それで、十分だ。来てくれただけで……」
父は、力なく椅子に座り込んだ。
私も、向かいの椅子に腰を下ろした。オリヴァーは少し離れた場所に立ち、静かに見守っている。
しばらく、重苦しい沈黙が続いた。父は震える手で顔を覆い、嗚咽を堪えるように肩を震わせていた。
「……すまない。すまない、アウレリア……」
やがて、父は顔を上げた。その目は、真っ赤に充血していた。
「わしは……わしは、何という愚かなことをしてしまったのか……! お前を、この手で追放してしまった……! お前が聖女だと知りながら、お前を守るべき父親でありながら……!」
父の声は、悔恨に満ちていた。
「あの日から、一日たりともお前のことを考えなかった日はない。お前がどこでどうしているのか、無事なのか、それとも……。考えるだけで、胸が引き裂かれる思いだった」
「……」
私は、何も答えなかった。ただ、冷たい視線で父を見つめるだけ。
「国王陛下が崩御され、国が滅亡の危機に瀕していると知ったとき、わしはようやく理解した。お前が、どれほど大きな存在だったのかを。お前を失うということが、どれほどの代償を伴うのかを。だが、それ以上にわしを苦しめたのは……」
父は、私をまっすぐに見つめた。
「お前という、かけがえのない娘を失ったという事実だった。公爵としてでも、国の重臣としてでもない。ただの一人の父親として、わしは……取り返しのつかない過ちを犯したのだ」
涙が、父の頬を伝い落ちる。
「今更、許してくれなどとは言わぬ。わしにその資格はない。ただ……ただ、お前に伝えたかった。本当に、本当にすまなかったと……」
父は椅子から滑り落ち、床に両手をついて頭を下げた。かつて、あれほど誇り高かった父が、今は一人の老人として、ただ娘に許しを乞うている。
しかし、私の心は動かなかった。
「……顔を上げてください、父上」
私の冷たい声に、父がゆっくりと顔を上げる。
「謝罪で済むなら、裁きは要りません」
私は、氷のような目で父を見据えた。
「あの日、あなたは何と言いましたか? 『もはやお前は我が娘ではない』『どこへなりと去るがいい』と」
父の顔が、蒼白になる。
「私は、あなたの言葉通りにしました。去りました。そして、森の中で凍え死にかけました。もし、オリヴァー様が助けてくださらなければ、私は本当に死んでいたでしょう」
「アウレリア……」
「あなたは、私を死地に追いやった。それは、紛れもない事実です」
私は、立ち上がり、窓の外を見つめた。
「私が今、こうして生きているのは、あなたのおかげではありません。オリヴァー様のおかげです。そして、私を必要としてくれた、アイスフェルトの人々のおかげです」
「……その通りだ。わしには、何の功もない」
父の声が、絶望に沈む。
「ですから、謝罪は受け取れません。許すことも、できません」
私は、父に背を向けたまま言った。
「私は、ただ後悔しないために来ただけです。それ以上でも、それ以下でもありません」
父は、何も言えずに床に崩れ落ちた。
しばらく沈黙が続いた後、父が震える声で言った。
「……わかった。お前の、その冷たさは、わしが招いたものだ。だが、どうか……どうか、最後に一つだけ聞いてくれ」
「何でしょうか」
「お前に、伝えねばならぬことがある。それは……ローゼンハイム家の、秘密についてだ」
父は立ち上がり、書斎の奥にある重厚な書棚に向かった。そして、ある本を引き抜くと、カチリという音と共に、隠し扉が開いた。
「こちらへ来なさい」
父に導かれ、私とオリヴァーは隠し扉の向こうの小部屋へと入った。そこには、古びた木箱が一つ、厳重に保管されていた。
父は箱を開け、中から一冊の古文書を取り出した。その表紙には、見覚えのある紋章が刻まれている。それは、ローゼンハイム家の薔薇の紋章……ではなく、その中心に王冠が描かれた、より複雑な紋章だった。
「これは……」
「古代クライネルト王家の紋章だ」
父の言葉に、私は息を呑んだ。
「実は、ローゼンハイム家の祖先は、古代クライネルト王国の第三王子だったのだ。当時、王位継承争いが起こり、第三王子は争いを嫌って王位を辞退し、辺境の地に領地を与えられた。それが、ローゼンハイム公爵領の始まりだ」
父は古文書のページをめくる。そこには、古い文字で家系図が描かれていた。
「以来、我が一族は表向きには公爵家として、しかしその血には確かに王家の血が流れている。そして、この古文書には、こう記されているのだ」
父が指し示したページを、私は食い入るように見つめた。
『現王家が正統な後継者を失いし時、古代王家の血を引く者がこれに代わり、王位を継承する権利を有する』
「これは……」
「今の王家、つまりアルフォンスの一族は、三百年前にローゼンハイム家から分家した、傍系の血筋なのだ。つまり、本来ならばローゼンハイム家こそが、より正統な王位継承権を持っている」
父の言葉に、私は言葉を失った。オリヴァーも、驚きの表情を隠せない。
「なぜ、今までそのことを……」
「わしには、野心がなかったからだ。権力争いに巻き込まれることを嫌い、ただ公爵として、国に仕えることで満足していた。それに、現王家も立派に国を治めていたからな」
父は、深い溜息をついた。
「だが、今は違う。アルフォンスには、国を治める資格も能力もない。国は滅亡の危機に瀕している。そして何より……」
父は、私の目をまっすぐに見つめた。
「お前には、王家の血と、聖女の力、そして民衆からの圧倒的な支持がある。もし、お前がその気になれば……この国の女王となる、正当な権利があるのだ」
「お父様……私に、女王になれと?」
「いや、強制はせぬ。これは、お前自身が決めることだ。ただ、知っておいてほしかった。お前には、その選択肢があるということを」
父は、古文書と共に、もう一つの小箱を取り出した。その中には、美しい銀の指輪が収められていた。
指輪には、古代王家の紋章が彫り込まれていた。
「これは、古代王家に代々伝わる、『王権の指輪』だ。これを身につける者が、真の王位継承者であることを示す」
父は、その指輪を私の手に握らせた。
「持っていきなさい、アウレリア。いつか、お前がこれを使う日が来るかもしれぬ」
私は、手の中の指輪を見つめた。それは、ずっしりと重かった。
「……これは受け取ります」
私は、冷たく言った。
「でも、それで許したわけではありません」
父の顔が、痛みに歪む。
「お父様。あなたがどれほど後悔しようと、どれほど謝罪しようと、過去は変わりません。あなたは私を追放し、死地に追いやった。その事実は、永遠に消えません」
「……わかって、いる」
「ですから、この指輪と古文書は受け取ります。それは、私の権利ですから。でも、あなたを許すことはできません。少なくとも、今は」
私は、指輪をポケットにしまい込んだ。
「もう、行きます」
「アウレリア……!」
父が、すがるように手を伸ばす。しかし、私は振り返らなかった。
「……ありがとうございました、父上。情報は、有効に使わせていただきます」
その冷たい言葉を最後に、私は書斎を出た。
書斎を出て、重い足取りで中庭へと向かう。ジルが待つその場所で、この息の詰まる屋敷から一刻も早く飛び立ちたかった。
「……これで、良かったのか」
隣を歩くオリヴァーが、静かに尋ねる。
「わかりません」
私は、正直に答えた。
「でも、これが今の私にできる、精一杯です」
オリヴァーは、何も言わずに頷いた。
中庭には、黒竜ジルがその巨体を横たえ、私たちを待っていた。オリヴァーが私に手を差し伸べ、その手を取ってジルに乗り込もうとした、まさにその瞬間だった。
ひゅん、と空気を切り裂く鋭い音が響き、私のすぐ横の地面に一本の矢が突き刺さった。
「危ない!」
オリヴァーが私を庇うように前に出る。それと同時に、周囲の森や建物の陰から、十数名の黒装束の男たちが一斉に姿を現した。全員、剣や弓で武装している。
「……刺客か」
オリヴァーが、剣を抜く。
「ジル、アウレリアを守れ!」
ジルが咆哮を上げ、私の前に体を差し入れて壁を作る。刺客たちが、一斉に襲いかかってきた。
オリヴァーの剣が、美しい軌跡を描きながら刺客たちを薙ぎ払う。彼の動きは、舞を踊るように優雅で、それでいて、彼らにとって冷酷なほど致命的だった。
「ぐあっ!」
「くそ、強い……!」
刺客たちが次々と倒れていく。
しかし、その数は多く、オリヴァー一人では対処しきれない。
何人かの刺客が、オリヴァーをかいくぐって私に迫ってくる。
ジルが巨大な翼で薙ぎ払い、炎を吐いて刺客たちを追い払う。
だが、その隙を突いて、一人の刺客が弓を構えた。その矢は、明らかに私に向けられている。
時間が、スローモーションのように遅く感じられた。
刺客が弓を引き絞る。
矢が、放たれる。
(避けられない……!)
その瞬間——。
「アウレリア!!」
突然、屋敷の扉が開き、誰かが飛び出してきた。そして、私の前に立ちふさがった。
矢は、その人物の背中に深々と突き刺さった。
「……っ!」
倒れ込む人物を、私は咄嗟に抱きとめた。
そして、その顔を見た瞬間、私は息を呑んだ。
「お、お父様……!?」
そこには、血を流しながら苦しそうに息をする、父の姿があった。
「なぜ……なぜ、ここに……!」
「襲撃の……物音を……聞いて……」
父の声は、弱々しかった。
「お前が……心配で……居ても立っても……いられなかったのだ……」
父の背中からは、おびただしい血が流れ出ている。矢には、明らかに毒が塗られていた。
「お父様……!」
「オリヴァー!」
私の叫びに、オリヴァーが残りの刺客を蹴散らして駆けつけた。
「くそっ……毒矢か!」
「助けて……助けてください、お父様を……!」
私は、必死に父の傷口を押さえた。しかし、血は止まらない。
震える手でポーションを取り出し、聖女の力を込めて飲ませる。毒を中和する薬草を噛み砕き、傷口に塗り込む。
しかし、父の呼吸は弱々しいままだった。毒が、あまりにも深く体を蝕んでいた。
「くそ……毒が強すぎる……!」
オリヴァーが、悔しそうに拳を握る。
「アウレリア……すまなかった……」
父が、震える手で私の頬に触れた。
「お前を……守れなかった……あの日も……そして……今日まで……」
「喋らないで! 今、治療を……!」
涙が、溢れて止まらなかった。
「許して、くれとは……言わぬ……。ただ……最後に……娘を守れて……良かった……」
父の瞳が、優しく微笑む。
「お前は……私の……誇りだ……ずっと……ずっと……」
その手が、力なく落ちた。
「お父様……! お父様!!」
私は、父を揺さぶった。
オリヴァーが、父の首筋に手を当てる。
長い、長い沈黙。
やて、オリヴァーは静かに首を横に振った。
「……すまない、アウレリア」
私は、父の顔を見つめた。
穏やかな、安らかな顔。
涙が、一筋頬を伝った。
でも、私の心は混乱していた。
(お父様……あなたは、私を守った)
(でも、あなたは私を追放した)
(愛してくれた、でも捨てた)
(どうすればいいの……私、どう感じればいいの……)
複雑な感情が、胸の中で渦巻いていた。
悲しみ、後悔、怒り、そして……感謝。
オリヴァーが、部屋の外で捕らえた刺客の一人を尋問し、戻ってきた。その手には、見覚えのある金貨と手紙が握られていた。
「やはり、リリアナの差し金だ」
オリヴァーの声は、静かな怒りに震えていた。
「この手紙には、『アウレリアを確実に始末せよ。失敗は許さぬ』と書かれている。そして、署名は——『リリアナ・フォン・クライネルト』」
私は、その手紙を見つめた。父の亡骸を抱きしめたまま、ゆっくりと立ち上がった。
「……オリヴァー様」
「ああ」
「もう、終わりにしましょう」
私の瞳が、紅蓮の炎のように燃える。
「リリアナ……!」
私の声は、氷と炎が混じり合ったように、冷たく、それでいて激しかった。
「もう容赦しません。あなたを、地獄に叩き落として差し上げますわ」
オリヴァーが、私の肩を力強く抱いた。
「お前の望む復讐を、俺が手伝う。奴らを、必ず裁こう」
私は、頷いた。
そして、腕の中で冷たくなっていく父を見つめた。
(お父様……あなたの死は、決して無駄にはしません)
嵐が、来る。




