えくすとら! その三十六 桐生さんと幸せのハードル
実家から家に帰る……という日本語もなんだか若干もにょっとするが、ともかく家に帰る。玄関を開けると、お肉を焼く匂いが室内に充満しているのが分かった。
「……ただいま」
「あら、お帰りなさい」
リビングから顔を覗かせて微笑む桐生に片手を上げて靴を脱いでリビングへ。キッチンから香るいい匂いに腹の虫が自己主張を起こす。起こすのだが……
「……焼肉?」
「……違うの。今日、金曜日でしょ? ちょっと凝った料理でも作ろうかと思ったのよ」
朝、家を出るとき実家に呼ばれた事を告げると『今日の晩御飯、期待していてね! 腕によりをかけて作るから!』と言っていたのだ。だからまあ、桐生の言う通りちょっと凝った料理が出て来るんだろうと思っていたのだが。
「……時短料理ってあるでしょ?」
「あるな」
「涼子さんに聞いたのよ。『炊飯器で簡単に作れるローストビーフがあるよ~』って。だからその、作ってみようとしたんだけど……」
「……失敗したのか?」
「……切ってみたら中がちょっと赤かったのよね。だからまあ、ちょっと焼いた方が良いかと思ったら……」
……なるほど。焼き過ぎて焼肉になってしまったと。
「……折角、ソースも手作りで作ったのに……ローストビーフじゃなくて焼肉になっちゃった」
心持しょんぼりして肩を落とす桐生。そんな桐生に苦笑を浮かべて、俺は桐生の頭をポンポンと撫でる。
「……いいじゃん。ありがとうな、作ってくれて」
「……お礼を言われる事じゃないわ。失敗したもん」
「作ってくれたのが嬉しいよ。それにまあ、ローストビーフが焼肉になったぐらいなら大失敗じゃないだろ? 折角ソースまで手作りなら、桐生特製ソースでの焼肉にしようぜ?」
な、と笑いかけると、そんな俺に少しだけ呆れた様に、それでいて嬉しそうに桐生が微笑む。
「貴方は私に甘すぎるわよ。成長しなくなったらどうするの?」
「甘くはねーだろうが……まあ、多少甘やかした所で、お前が成長しない訳無いだろう?」
「そうね。いつか、ほっぺたが落ちる程のローストビーフを食べさせてあげるわ! あ! 別にバイオテロ的な意味じゃないわよ!」
「知ってるよ」
出逢った当初ならいざ知らず、今の桐生は普通に料理が上手くなったしな。
「そう? それなら良いわ。それじゃ、ちょっと待っててね? もうちょっと出来るから」
上機嫌に鼻歌なんか歌いつつ、桐生が俺に背を向けてフライパンに目を向ける。部屋着にエプロンを付けただけのシンプルな恰好なれど――いや、なればこそ、なんだろう? こう、この日常が凄く嬉しくて。
「――え? ちょ、ちょっと!? ひ、東九条君!?」
そして、有り難くて――幸せで。
「あ、危ないわよ!! 火を使ってる時に、う、後ろから抱きしめるのは反則!!」
……桐生は俺を甘やかすって言ったけど、これ、絶対違うよな。完全に俺が桐生に甘えてるよな。料理上手になったのだって、桐生が料理を作ってくれるから、上手くなって行ったんだし。
「……彩音」
「……っあ……え、えっと……ひ、浩之?」
「……いつも有難うな」
「……」
「……その……本当に、感謝してる」
「……浩之」
カチッとIHのスイッチを落とすと、彩音は俺の腕の中でくるりと器用に一回転。そのまま、潤んだ瞳を俺に――
「――なに? 誰かと浮気でもしたの?」
――向けない。す、すわった目をしておられる!!
「ば、ち、ちげーよ! なんでそんな発想になるんだよ!!」
「当たり前じゃない!! 普段そんな事言わない貴方が急に私に優しい言葉を掛けるなんて、なにか裏があるに決まってるでしょ!! さあ、キリキリ吐きなさい!! 情状酌量の余地があるかどうかはそれから判断してあげるわ!!」
ギロリと俺を睨む彩音。な、なんだこの信用の無さは! ひ、酷すぎる!
「……ごめん」
「ごめん? や、やっぱり貴方!」
「そうじゃなくて」
……違うな。酷いのは彩音じゃない。俺だよ、俺。俺の方だ。
「……その……今日な? 実家に帰っただろ?」
「……ええ」
「それで……言われたんだよ。『彩音ちゃんを蔑ろにしていないか』って」
「蔑ろに……されてるつもりは無いけど……」
「……甘やかすな」
「……別に甘やかしている訳じゃないわよ? その……だ、大事にして貰ってるのも分かるし、優しくして貰っているのも分かるもの」
「さっき、浮気を疑わなかったか?」
「そ、それは……その、浩之は言葉にしてはくれないから。あ、で、でもね? 分かるよ? 私だって恥ずかしいもん。言いにくいのも分かるし……それに、態度で示してくれてるから」
「……だからお前、マジで俺を甘やかすな」
良い女か。あ、良い女だ。俺の彼女、最高に良い女だったわ。
「……さっきさ? お前が料理してくれてる姿見て……幸せだな~って思ったんだよ」
「……それは……その……あ、アリガト……」
「んでさ? そんなに幸せな気持ちにさせてくれているのに、お前に報いれたかな~ってちょっと思って」
「……充分だよ? 充分、幸せにして貰っているよ? 一緒に居られるだけで、すっごい嬉しいよ?」
言葉だけでは伝わらないとばかりに、彩音が俺の背中に手を回してぎゅーっと抱きしめてくる。なんだよ、こいつ。いじらしすぎるんだろ。
「……俺が悪いのは百も承知なんだが……お前、もうちょっと我儘でも良いぞ? 一緒に居られるのが幸せって……ハードル、低すぎんだろうが」
「それは……でも、本当に一緒に居られるのが楽しいのよ。浩之の帰りを待って料理するのも楽しいし……こんな気持ちにさせてくれた貴方に、浩之に、本当に感謝もしてるの」
「……」
「まあ……でも、そうね。貴方がそう言ってくれるのであれば、もうちょっと我儘になって見るわ」
そう言って、俺の体に回した手に力を込めて。
「……浩之も、ぎゅってして」
「……ああ」
「……あ……ふふふ……浩之に包まれてる……幸せ……」
はふ、と気の抜けたような、甘えたような声が彩音の口から漏れた。
「……そのな? 俺、ちょっとお前に甘えてたって思ったんだ」
「……そう?」
「こないだ……涼子とデート、行ったろ? アレだって……その……まあ、ちょっと考えれば最悪だろ?」
「……不可抗力じゃない、アレは。それに……私自身、あまり貴方を束縛もしたくないのよ。ああ、違うわ。束縛はその……したいんだけど……あんまり束縛して、嫌われたくないのよ」
「嫌わないぞ、そんな事で」
むしろ嬉しいぐらいだ。
「そ、そう?」
「ああ。だから……その、そんなに我慢するな」
「……うん」
俺の胸に頭をぐりぐりと擦りつけて甘えて来る彩音。そんな彩音の頭を撫でる。
「……なあ、彩音?」
「……なぁに?」
「明日、暇か?」
「明日? 特に用事は無いけど」
「そうか。それじゃ、さ?」
――デート、行かね? と。
「……」
「……」
「……踊っても良い?」
「それはデート終わりまで取っておけ」
嬉しそうに微笑む彩音に、俺は最高のデートにしてやろうと心に決めた。




