10.5話
剣を打ち合う練習試合のあと、休憩所にて水を飲んでいたディアルは、にわかに賑わい出した闘技場へと目を向けた。
「なんだ、どうした?」
「ああ、エクトルの奥さんと娘が来てみんな興味津々なんだよ」
闘技場の方から休憩に来た同僚から返ってきた答えにディアルは軽く目をみはる。
エクトルの妻は騎士の間ではかなりの有名人というか、見たことはないがその存在は誰もが知るというような人である。
「ディアルは実際に会ったことあるんだったな」
「……ああ」
ディアルがエクトルの妻――シルルに会ったのは、もう何年も前のこと。その日のことは、一生忘れられない傷となっている。
その時、ディアルは第二王子イージスからの命で、客人であるユレルミの護衛となっていた。しかしユレルミはとてつもない詐欺師であり、薬を使って他人を洗脳する技を持っていて、傍にいたディアルはすっかり洗脳の影響を受けてしまい、命じられるままにシルルを襲ったのだ。
(……エクトルにも顔を合わせづらい。……薬師殿なら、なおさら)
一緒に護衛をしていたハルトは侵入した時点でとらえられ、罠にかかって捕まったのでまだいい。しかしディアルは、実際にシルルへと斬りかかった。朧気だが、印象的な赤い瞳が恐怖に染まったのを見た記憶は、何故だかはっきりと残っている。
(誰かを守るために騎士を志して……何も悪くない女性を、脅かしたんだ。騎士として……どれだけ真面目に騎士として働き続けても、罪悪感が消えない)
シルルともエクトルとも顔を合わせづらい。いや、正確には顔を合わせづらいというよりは、合わせる顔がないのである。エクトルが普段からよくシルルの自慢をしているのも耳に入ってくるし、なおさら。それだけ大事な妻を傷つけられれば、エクトルとてディアルをよくは思っていないはずだ。
「まあ結構可愛い感じの人ではあるけど、エクトルが言うほどか? という気もするよな。でも娘はとんでもない美少女だ。さすがエクトルの娘……」
そう言われてディアルはシルルの顔をうまく思い出せないことに気づいた。怯えた赤い瞳だけは覚えているが、彼女はどんな顔立ちだっただろうか。
(……あちらも私を忘れているかもしれない。だが、それでも……謝罪くらいは、しておくべきだ)
過ちを犯したディアルは、誰よりも正しい騎士であろうと努力しなくてはいけない。顔も見たくないと思われているかもしれないし直接本人を訪ねることができなかったが、ディアルもシルルの顔が記憶にないくらいなので、相手もあの時の記録は朧気になっていて、恐怖を思い出したりはしないのではないか。
だからこそ彼女もこの訓練場を訪ねる気になったのかもしれない。そうであるならば、今日こそが謝罪の機会なのではないだろうか。
そう考えてディアルは闘技場へと向かった。やたらと締まりのない顔をしている騎士が数人、エクトルを囲んでいる。後ろ姿だがどうやら娘を抱き上げているらしいことが分かった。その隣にいる、少し背の低い白髪の女性がシルルだろう。
「すみません、少しいいでしょうか。薬師殿にお話が……」
「はい。なんでしょうか」
くるりと振り返ったシルルの耳にはエクトルの色が輝いている。正真正銘、彼女がエクトルの妻だ。シルルに呼び掛けたため、エクトルも振り返った。そしてその腕に抱かれる娘もまた目に入る。
(うわ……これは美少女だ。子供の頃からこんなに可愛くて大丈夫か?)
目を離せば人攫いにでもあいそうな、犯罪者でなくても連れて帰りたくなるような、それ程可愛い少女だった。さすがエクトルの娘である。これは将来が楽しみ、というより心配だった。
毎日毎日薬師塔に置いてきた妻と娘が心配で一刻も早く戻りたいと言いながら、対戦相手を叩きのめしているエクトルの気持ちがよく分かる。
「あれ、ディアルが話しかけてくるなんて珍しいね」
「……できればエクトルと薬師殿の二人に聞いてほしいことなのですが」
「いいですよ。エクトルさんが離さないので、リリィも一緒でよければ。……ユナンさん、少しいいですか?」
「はい。これだけ騎士がいる中でしたら、私が多少離れても問題ありません。皆、ディアルの話が終わるまで離れてくれ」
集まっている同僚にしばし散ってもらい、四人で建物の陰へと移動した。どう話を切り出そうか、そもそもシルルが覚えていないなら今更蒸し返しても、思い出させてしまうだけで、彼女のためにはならないのではないか。そう思い始めて言葉を選んでいると、シルルの方から話を切り出された。
「あれから薬の影響は出ませんでしたか?」
「あ……はい、薬師殿のおかげで、しっかり解毒されました。あの時は……本当に、申し訳ありませんでした」
腰を折り曲げて謝罪する。ずっと罪悪感が残っていた。むしろ罵ってほしいくらいだ。普通の女性が鍛えられた騎士に斬りかかられるなど、そう忘れられる恐怖ではないはずで、ちゃんとした謝罪もなくディアルが許されるはずがない。
「いいえ、悪いのは洗脳の薬でした。……私には傷一つありませんでしたし、ディアルさんは悪くありませんよ」
「しかし……」
「私は本当に気にしていません。それでもディアルさんが謝罪が必要だと思うならきっと、それはディアルさんが自分で自分を許せないせいだと思います」
そう言われてハッと気づく。たしかに、シルルが気にしていないと言っていてもディアルの罪悪感は消えないままだ。……彼女の言葉通り、ディアルは騎士として自分が許せないのだろう。
「あの時、エクトルさんが間に合いました。おかげで私は無傷でしたし、ディアルさんも望まない暴力を振るわずにすんだ。……だからそうですね、謝罪よりも是非、エクトルさんに感謝してあげてください」
「…………そう、ですね。……エクトル、あの時はありがとう」
「いや。あれは……本当に薬のせいだ。それに、いつもより君の剣は鈍かったから俺も反応できた。躊躇いでもあったんじゃない?」
エクトルもシルルも笑みを浮かべている。特にシルルはとても優しい微笑みで、本当にディアルを責める気はないようだ。
「ならきっと、貴方の中の騎士としての矜持が洗脳に抗ったのでしょう。貴方も私を守ろうとしてくれたと言ってもいいはずです。……だからどうか、胸を張ってください。ディアルさんは人を守る立派な騎士だと思います」
「……薬師殿……」
エクトルはよく、シルルの自慢をしている。直接の会話ではなくても、その自慢は耳に入ってくる。いわく、シルルほど心を打つ素晴らしい女性はいない。……たしかに、その通りなのかもしれない。
まるで刺さったとげを丁寧に抜かれているように、彼女の言葉の一つ一つがディアルの罪悪感を軽くしていった。
「まあ俺はディアルに負けない騎士だけどね?」
「お父さん、ここは張り合うところじゃないと思う」
茶化すような言い方だが、娘の反応からするともしや嫉妬だろうか。たしかに自分の愛する妻が、他の騎士を褒めていたら快くは思わないかもしれない。
しかし彼女はきっと、ディアルの罪悪感を見抜いて騎士として自分を褒めて慰めようとしてくれただけで他意はない。そう口にしようかと思ったが、必要なかった。
「心配しなくてもちゃんと分かっていますよ。エクトルさんは私にとって、そしてリリィにとって、誰よりも信頼できる騎士です。貴方なら私たちを必ず守ってくれると信じているから、いつも心穏やかでいられます」
非常に輝かしい胡散臭い笑顔を浮かべたエクトルを久々に見たと思ったら、騎士としてこれ以上にないと思えるほどの褒め言葉をシルルが言い放つ。……なるほど、この女性は人を褒めるのが本当に上手いのだろう。
「それに、誰よりも最も愛する夫です。そしてリリィは最も愛する娘ですね」
「うん。私もいちばん大好きなお父さんと、いちばん大好きなお母さんだよ」
「……ッ……」
笑顔のまま固まっているエクトルは、きっとその笑顔の裏に爆発しそうな愛情を隠しているのだろう。ディアルの前だからどうにか取り繕おうとしているように思えた。
さらりと何でもないようにこんな言葉がつらつらと出てくるのだ。エクトルは毎日こうして褒め殺されているのだろう。そのうえ母親の教育か、娘も真似をして言葉を重ねてきている。
(……ほんと、いい妻だな、これは。そして絶対に勝てない気がする)
エクトルが自慢する妻は、容姿よりも何よりも、その中身が素晴らしいのだと思う。すっと軽くなった胸のうちからくすぐったさがこみ上げるように、ディアルは小さく笑いを零した。
これでも人前だから多少控えてはいるはず。
という訳で本日はコミカライズ更新日です。ユレルミ編がはじまります。
そして新連載、マンドラゴラに転生してしまった主人公のファンタジーものはじめました。
もしお暇がありましたら是非よろしくお願いします。作品下のリンクや作品ページからどうぞ…!




