10話
「じゃあ……行ってくるね」
騎士として訓練に参加するのは義務である。護衛対象を守るため、常に体を鈍らせないようにしなくてはならないからだ。さすがのエクトルも娘の前で駄々をこねることはなくなり、笑顔の仮面の下に「行きたくない」という感情を隠すようになった。……これくらいの笑顔の仮面ならいいか、と苦笑しながら軽く手を振る。
「いってらっしゃい」
「頑張ってね、お父さん。お母さんとお腹の子のことは任せて」
姉になるのだと張り切っているリリィは使命感に燃えているようだ。自分自身の未来は分からないというのが予想線の能力だが、二人揃えばお互いの予想線を伝え合うことができる。母娘で居れば何よりも安全に過ごせる可能性が高い。
そんな事情を知っていても藍色と水色を完全には消せないまま、エクトルは娘をぎゅっと抱きしめた。
「ああ、俺の娘はなんていい子で頼りになるんだろう。頼んだよ、リリィ。……でもお父さんはお母さんだけじゃなくてリリィとも離れたくないなぁ」
「お父さんは寂しがりだからね」
「…………うん、そうだね。……頑張ってきます」
表情は隠せても感情の色は隠しようがない。娘に恰好をつけられず少しばかり羞恥の色を見せつつも、エクトルは笑顔を浮かべて訓練場へと向かっていった。
交代の護衛であるユナンはこの光景を見慣れているが、それでもあきれたように小さくため息を吐いた。
「……花の騎士と言われていた昔の姿が思い出せないな」
ぼそりと呟いたユナンから、エクトルの評判については時々聞いている。愛妻家で子煩悩、家庭を愛しすぎる男、と騎士団の同僚からはそのように言われているらしい。
昔のエクトルは笑顔で感情を覆い隠し、女性に囲まれて心底苦痛を感じていてもそれを悟らせないため、女好きで遊び人だと思われていた。それは同僚からも同じだったが、今はそのイメージがすっかり変わっているようだ。
「なんだかすみません」
「……妻と娘を心配する気持ちは、分からなくはないのですがね」
ふいに窓の外へと目を向けたユナンの頭上にも、小さく心配の色がある。彼はグレイと結婚し、先日娘が生まれたばかりだ。本当は家で妻と子供を見守りたい気持ちでいっぱいだろう。
「グレイさんの体調はいかがですか?」
「はい、良好です。いただいた栄養剤がよく効くようでして……シルル殿にはいつも感謝しております」
「いえ、私は薬屋ですから。これが本分です」
出産祝いに産後の体に必要な栄養がありつつも、母乳に影響がでない栄養剤を作って贈ったのだが役に立ったようで何よりだった。グレイは妊娠を機に護衛騎士を引退してしまったのでもう会うことはないかもしれないが、一時期は毎日顔を合わせていたし、ユナンにはずっと世話になっている。母子ともに健やかに過ごしてほしいものだ。
「お父さんは訓練頑張れてるかな」
「お父さんは感情の波が激しい人ですが、感情で仕事や訓練をおろそかにする人ではありませんから頑張っていると思いますよ」
訓練の様子を見たことはないけれど、エクトルはそういう人間だ。ちゃらんぽらんに見えるのは表面だけで、中身はとてもまじめな人である。行きたくない、と思っていても手は抜かないはずだ。
とはいえエクトルが訓練をしている姿を見たことはない。同僚と上手くやれているのか、人間関係の部分で気になるところはある。
「気になるなら見学に行かれては?」
「……それは、いいんですか?」
「はい。騎士の家族であれば、関係者として入ることができます。差し入れや見学が可能です」
以前、騎士団の訓練場では休憩所の水にフェフェリの媚薬が混入されるという事件があった。それ以降、訓練場は関係者以外の立ち入りが明確に禁じられている。ただ家族は関係者として入ることができるらしい。
「今日の仕事は……在庫の確認くらいなのですぐに終わりますが」
「じゃあそのあとお父さんに会いに行く?」
リリィの頭上には期待するかのように喜びと楽しさの色が見えた。行けない理由は特になく、娘は父親に会いに行くのを楽しみにしている。それならば娘の期待に応えてあげるべきだろう。
「そうしましょうか。……すみません、仕事を片付けたら訓練場に行っても構いませんか?」
「ええ。元々私の提案ですから、お任せください」
「わたしもお母さんのお手伝いするね。早く行ってあげようよ、きっと喜ぶから」
仕事に行く前のエクトルの感情を見ているからこそだろう。父親想いの優しい娘なので、寂しがっているから会いに行ってあげたいと考えているのだ。そしてリリィの言葉通り会いに行けばエクトルは喜ぶだろう。
リリィに在庫の確認を手伝ってもらい、その作業をきちんと終わらせてから私たちは訓練場へと向かった。
騎士団の訓練場は王城の隣に併設された施設で、ここで訓練をするのは王城勤めの近衛騎士と、王都を守る第一騎士団だ。塀で囲まれた敷地の入り口には見張りが立っている。
ユナンによると見張り番が名前や特徴、誰の関係者か、そして出入りの時間などの記録をするらしい。混入事件以降こうした対策がなされるようになり、起きる問題はかなり減ったという。
「ユナン? 見ない顔を連れてるが……」
「こちらは私の護衛対象であり、宮廷薬師兼国王陛下相談役のシルル=ベディート殿だ。……エクトルの家族としての入場を希望している」
「エクトルの……!?」
見張り番は驚いた表情で私の顔を凝視した。薄黄色と黄緑色が長く伸び、そしてそれは短くなりながらほんのりと赤紫色が伸びる。赤紫は大抵不満を示す色だが、この場合は「こんな普通そうな女がエクトルの愛妻か?」ぐらいの意味合いではないだろうか。
「そしてこちらが娘のリリィ=ベディート殿だ」
「へぇ、エクトルのむす…………」
リリィを見下ろした見張り番は、言葉を詰まらせて固まった。対するリリィはじっと彼を見上げている。顔を見ているというよりは、注視しているのは頭上の色だろう。驚きの色が伸びた後、ものすごい勢いで好意を示す薄紅色が伸びて行ったからだ。
(リリィを初めて見た人は大抵この反応をするから、見慣れてきたな)
つまりところ、大変愛らしい美少女を見て「なんて可愛い子供だろう」と思っている。そういう感情の色なのである。これに茜色が重なれば危険だが、いまのところそういう人間は見ていない。
「……入ってもいいか?」
「え、ああ。もちろん。……いってらっしゃい、リリィちゃん」
「はい、お邪魔します」
すっかり相好を崩している見張り番に軽く頭を下げ、訓練場へと入った。塀を越えれば視界が一気に開け、遠目に地面が平らにならされた広場のような場所が見える。そこでは数人の騎士が剣を打ち合っている様子だ。
この距離では顔の判断などできないが、私とリリィにはその場にエクトルがいることがはっきりと見て取れた。
(長いなぁ……恋と寂しさの色が)
並び立つ長い二色の線。どう考えてもエクトルのものである。
それを見てリリィは私の手を引き、走り出した。そんな私たちの後ろをユナンもすたすたとついてくる。……遠目に半透明の喜びの色まで伸び始めたので、どうやらあれは本当に寂しがりの夫で間違いなさそうだ。
シルルは薬師塔から出ることが少ないので、見たことのある騎士も少ない。みんなが気になるエクトルの妻と娘です。
本日はコミカライズ更新日です。
ジャンへと届いたシルルの手紙、の回。子供シルルが可愛い。是非よろしくお願いします。




