9話
それはとある日の静かな夜のこと。夕食を終え、薬師塔の戸締りもしてゆっくりと家族で過ごす時間。
カイオスが王となり、彼の周囲にある危険が減ったことで薬師の仕事は以前ほどの忙しさがなくなった。おかげで休みを取りやすくなり、家族で休日を過ごせることも増えていて、明日はちょうどその休日になる。
その休日をどう過ごすべきかまだ予定が決まっていなかったので、エクトルが三階の物置に本を探しに行っている間、できることを考えていた。
(そろそろリリィに薬草採集を教えてもいいかもしれない)
王都付近の森であれば日帰りでも行ける。薬草の探し方や採集方法などは実際に森を歩いて教えた方がいい。危険な植物や魔獣の存在も、早めに教えておけば回避することができるだろう。
(ああでも、そろそろ保湿剤作りもしたい。……簡単だから、調合を一緒にするのもいいな。エクトルさんと初めて作ったのも保湿剤だったっけ)
懐かしい記憶に思い出し笑いをしていたら、服をくいくいと引かれた。視線を向ければリリィがじっと私を見つめながら服をつかんでいる。
「どうしたんですか、リリィ」
「黒色の線ってなに?」
「……黒色の線が見えたんですか? 誰に?」
自分が幼い頃に両親の頭上に見えたその線のことを思い出す。私は初めて見たその線の色の意味を知らず、両親はそのまま帰らぬ人となった。さっと血の気が引くのを感じながらしゃがみこみ、リリィと目を合わせる。
「お母さんに見えたの」
「……私に?」
悪い想像が頭をめぐる。病の気配はない。治癒魔法使いである私は、たいていの病には罹らないしもし何かしらの病を得たとしても治癒することができるからだ。寿命が尽きるにもまだほど遠い。ならば事故か、事件か。
今日もエクトルやリリィの頭上には、未来の悲しみの色は見えなかったのに。一体何が起きるというのだろう。
「でもね、変なの」
「……変?」
「ふつうは頭の上に線が出るでしょう? でも、お母さんのお腹から飛び出てきて、すぐに消えたの」
「…………ああ、なるほど」
緊張が解けて肩の力が抜けた。安堵の息をつきながら、リリィに笑いかける。どうやら考え事をしていて、私自身は見逃したようだ。それをたまたまリリィは見かけたのだろう。
「リリィ、よく聞いてください。黒い線がある人は死んでしまう危険があります。人には寿命がありますし、年を取っていつか死ぬことは避けられませんが……事故であれば、逃れられる可能性があります」
黒の線は死の色。ただそれは確定的なものではなく、行動を変えれば助かる可能性も高いものだ。実際にエクトルは事故を避けて助かった過去があり、カイオスだって常に命の危険があり死の予想線も長い間消えることがなかったけれど、生き延びている。
「もし黒い線が見える人がいたら、その人の予定を変えてあげれば助かるかもしれません」
「……お母さん……しんじゃうの……?」
リリィの大きな赤い目に涙がたまっていく。その頭上に悲しみの色が伸びていくのを見て、慌てて否定した。腹部の黒線はまた別の事象を示しているのだ。
「いえ、私は大丈夫です。お腹から黒い線が出てくるのは……お腹の中に赤ちゃんがいるようですね」
「……赤ちゃんが?」
「ええ。ただお腹の中の赤ちゃんはとても弱くて、ちょっとしたことで死の危険につながります。お腹から黒い線が出てくるのは、そのせいです。……でも、無事に生まれてくればリリィに弟か妹ができますよ」
私が森に出かけようとしたのが胎児には悪影響なのだろう。途中で保湿剤作りに予定を変更する気になったので、線は消えたのだ。森の中には危険が多い。子供が生まれて落ち着くまで、森はお預けだ。
リリィは数秒の間、私の言葉を理解しようとしているのか無言だったが、やがてこくりと一つ頷いた。
「わたし、お姉さんになるんだね」
「はい、そうですよ」
「じゃあお母さんと赤ちゃんを守らないと」
両手のこぶしを握り、決意を表明する未来の「お姉さん」の姿を微笑ましく思った。
ちょうど私が頼んだ本を見つけて戻ってきたエクトルが、ニコニコと笑いあう私たちの姿の目にして「俺も交ぜて」といいながら近づいてきたはいいけれど、愛しい愛娘が妻を守るように両手を広げて立ちはだかったため、笑顔で固まりながらショックを受けていた。エクトルの手から本が滑り落ちて床に落ちる。
「お母さんに近づいちゃだめ」
「そんな……」
「お父さんはすぐお母さんをぎゅってするからだめ」
「……そんな……」
娘の意図が伝わっていないエクトルは、衝撃を受けた様子で茫然としている。そのやり取りがおかしくて、笑いをこらえようとしたが肩が揺れた。
「リリィが反抗期に……嬉しいけど悲しい……」
「違いますよ。リリィは……お姉さんになりたいので、頑張って私と下の子を守ろうとしているんです」
言葉通り喜びと悲しみの線を同時に伸ばしていたエクトルは、私の言葉を聞いて悲しみの線を引っ込めた。代わりにぐんぐん伸びる喜びの色に、リリィが警戒色を伸ばしている。
「……分かってる。思いっきり抱きしめたいけど、我慢しているところだよ。リリィ、そんな顔しないで」
「代わりにわたしをぎゅってしていいよ、お父さん」
「なんて世界一可愛い娘なんだ……!!」
エクトルがリリィを抱きしめて頬ずりしている。リリィは無表情に近いけれど、喜んでいるのは彼女の色から伝わってきた。
(今日も我が家は平和だ。……幸せだなぁ)
大事な二人の家族を見つめながら、宿ったばかりの新しい家族をそっと撫でる。まだどうなるか分からないが、安定したらまたドバック家やエクトルの実家に知らせを出そうと思う。……泣きながら喜ぶジャンの顔と、お揃いコーデの試案に勤しむイリーナの様子が思い浮かんで苦笑した。
(知らせるのは安定期に入ってからがよさそう)
とにもかくにもまた一段とにぎやかになるだろう。ひとまず、エクトルが落とした本を拾って埃を払った。
エクトルはもう、家族の前だと取り繕う仮面は完全にどこかにいったようですね
本日はコミカライズ配信日です。よろしくお願いします!




