8話
カイオスの頼み事とはつまり、「毎朝一度、ソフィアと顔を合わせて彼女とお腹の子が安全に過ごせるように助言をしろ」ということだ。私はカイオスの専属相談役だが宮廷薬師でもあるため、表向きは最近体調を崩しぎみの王太子妃の薬の相談に乗る、という形である。
私の能力を正確に把握している訳ではないカイオスだが、大きな信頼を寄せてくれているらしい。あまりにも期待が大きくて胃が痛い。
「エクトルさんが訓練に行きたくない気持ちが分かった気がします。気が重いです」
ユナンと交代をして訓練に向かうエクトルが冗談っぽく「行きたくない」と口にするのはよく耳にしていた。私にとって薬を扱う仕事は趣味を兼ねていて嫌だと思ったことなどいままではなかったので、こういう気持ちだったのだろうかとようやく理解したところである。
「俺のはちょっと違う気もするけど……うん、でも俺は君に抱きしめてもらえたら元気が出ると思うから、抱きしめてあげようか」
エクトルが珍しく冗談を言った。茶化している訳でもふざけている訳でもなく、真面目な声色だったのでそれは冗談に違いない。そうだと分かっているものの、どこか元気づけてほしい気分だった私はその冗談に乗ることにした。
両腕を広げて優しげに笑っている彼の腰に腕を回す。もうずいぶん昔のことのように思えるが、誘拐された日のことを思い出した。あの時エクトルが助けに来てくれて、彼に抱きしめられた時は緊張が解けてほっとしたのだ。
(……たしかに、少し前向きになれた気がする)
他人の温もりは安心するものである。ただ、ぴたりと胸の上に当たっている耳から物凄い鼓動が聞こえるのと、抱きしめようかと言ったはずなのにいつまでも腕を広げたまま固まっている恋人の様子が気になってそっとその顔を見上げた。抱き着く前の笑顔のままで硬直しており、予想線は驚きと恋と喜びが激しく伸び縮みしていたので刺激が強すぎたらしい、と分かってちょっと申し訳なく思いながら離れた。
「……すみません、冗談なのはわかっていたんですけど、つい。甘えたくなってしまいました」
「えっあ、うん、大丈夫……じゃないや……」
精神的に大変そうだったから離れたのに大丈夫ではないと言いながら引き寄せられ、腕の中に収められてしまった。再び彼の心臓の音が聞こえるようになったが、心配になるほど早いリズムを刻んでいる。
「シルルさんはなんでそう……的確に俺の気持ちを揺さぶってくるかなぁ。心臓壊れそうなんだけど……」
「……鼓動、大変なことになってますよ」
「いつものことだから大丈夫だよ」
これがいつものことならさぞかし大変だろう。これだけ心拍数が上がっていれば息苦しさもめまいも感じてしまうかもしれない。さすがに体調が心配になってきて顔を上げようとしたら、やんわりとした力で頭を胸に押し付けるように制された。
「今、多分情けない顔してるから見ないでほしいなーって」
それは一体どんな顔だろうか。気になるけれど、見てほしくないというなら見るのはやめる。ただ、確信をもって言えるのは彼がどのような姿であっても私の気持ちは変わらないだろうという事実だけだ。
「私は貴方がどんな顔をしていても愛おしいと感じると思いますが」
「んん……そういうところだよ、シルルさん。いつまでも俺の顔は締まらないし君を離せないじゃないか」
顔も予想線も見えないが、聞こえてくる心音から察するに嫌ではないのだろう。全く落ち着かない鼓動を聞いていると私も少しむず痒い気持ちになってくる。まあ、嫌ではないのだが。
私は彼の温もりを感じていると落ち着くのだ。私がすべての秘密を打ち明けている相手で、必ず共に隠し通してくれると信頼している、想い人。この世界で唯一私が壁を作らなくていい、甘えられる相手でもある。……しかしいくら心地よいといっても、いつまでもこの体勢でいる訳にはいかない。仕事の時間が迫っている。
「私はエクトルさんにこうしてもらうのは好きですけど、流石にそろそろ仕事に行かないといけませんね」
「………………そうだね」
たっぷり無言の間が空いて、ゆっくり腕が解かれた。温もりがなくなることを惜しく感じながら離れると、エクトルの柔らかな金の髪の上には不満そうな赤紫の色が見えたのでおそらく私と同じように離れがたいと感じているのだろう。……見える色から考えると仕事さえなければと思っていそうな気もするが。
「おかげでやる気が出てきました、ありがとうございます。そろそろ行きましょうか」
胃が縮むような感覚はすっかりなくなったし、まだ緊張はしているが精神的に安定している。この状態なら王太子妃の元へ赴くのもそこまで辛くはない。エクトルの言葉通り、抱きしめてもらうのは効果があるようだ。今度彼が訓練に行きたくないと気分が落ちている時には、私が抱きしめて元気づけようと思う。
「うん。じゃあ、護衛と道案内は任せてね」
私は平民であり、堂々と城の中を歩ける身分ではない。本来宮廷の仕事に就くのはそれなりに身分の高い者であることが多いのだが、私のような特殊な存在は裏道を使って移動することになる。使用人たちが使う、貴族が通らない複雑な通路。自分が仕事で使う道だけを使用人は覚えているため、全体像を把握しているものはおらず、迷ったら大変なことになるらしい。
ただ、エクトルは何故か大抵の道を覚えており、私が今回使う道だと渡された地図を見て「この道なら分かるよ」と案内を買って出てくれたのだ。
「ここを右に曲がったら暫くは真っ直ぐだよ」
薄暗い石造りの廊下をエクトルの案内で歩く。渡された地図にはない道がいくつもあるので一人だったら本当に迷いそうだし、彼の存在がとても頼もしかった。
しかし、それにしても。貴族と共に行動する近衛騎士であった彼が、表の道だけでなく使用人用の裏道に詳しいのか。……まあ、心当たりはなくもないが普通は知らないはずだ。私の護衛をしてくれるのがエクトルで良かったと心底思う。
「本当に詳しいですね、エクトルさん。助かります」
「昔はカイオスとこの道を使って抜け出してたからね。君の役に立ててよかった」
やんちゃな王子様は子供の頃から破天荒だったようだ。今の姿からでも容易に想像がつく。
使用人用の通路であるはずだが、ここから出ればすぐソフィアの部屋だという扉にたどり着くまで誰ともすれ違わなかった。何かしらの配慮がされているのかもしれない。
さて、部屋に入るためには彼女の部屋の前で警護にあたっている騎士に声をかけ、ソフィアからの入室許可を取ってもらわなければならないのだが。黒い制服に身を包んだ近衛騎士は私とエクトルを見て目をカッと開いて、驚愕の色を見せて固まった後にぎこちない動きで許可を取ってくれた。
その後振り返った彼の視線は耳飾りと私の顔を行き来し、不信の色も見せている。信じられない、という顔に見えた。これからはこういう反応をよく見ることになるのかもしれない。
入室を許可され、白を基調とした落ち着いた雰囲気の部屋の中に入る。先日見たドレスよりもゆったりとした服に身を包んだソフィアがたおやかに微笑んで椅子に腰かけて待っていたので、その前まで静々と歩き膝をついた。
「宮廷薬師シルル=ベディート。カイオス殿下のご命令どおり、ソフィア妃殿下のご相談をお受けするために参じました」
「ええ。大事な相談をしますから、護衛騎士以外は下がってちょうだい」
その一言で部屋の隅に控えていた侍女達も姿を消した。残ったのはソフィアと私に不信感を抱いている女性騎士、そして私とエクトルの四人だ。
相変わらず感情が見えにくいソフィアだが、薄っすらと好意の色が見える気がする。分かりやすく表情にも色にも警戒心が現れている騎士とは正反対の様子である。
「今日の予定をお話するから、そちらに座ってくださる?」
「……では、お言葉に甘えて失礼致します」
なめらかな動作で示された椅子に腰かけ、ソフィアと向き合った。そして今日の彼女の予定を聞く。基本的にこの部屋でゆっくり過ごし、執務や読書をして過ごすという。それに関してソフィアのお腹から黒い線が飛び出して長くなることはなかったが、午後のお茶は新しい茶葉を手に入れたので楽しみにしている、という話を聞いている時に少し線が伸びて見えた。……その新しい茶葉はあまりよくないのかもしれない。
「午後のお茶では何を召し上がられる予定ですか?」
「心が安らぐお茶の葉だと聞いたけれど……」
リラックス効果のある茶葉は豊富にあるが、その中のどれだろうか。彼女のお茶を淹れるのは先ほど下げられた侍女だ。茶葉の種類はそちらに尋ねなければ分からない。
ただ、この国で親しまれているほとんどの茶葉は妊婦にあまりよいものではないというのが私の認識だ。治癒魔法使いに受け継がれる知識なので、宮廷の医師がどれほど知っているのかは分からない。
「……茶葉の中にも摂取に気を付けた方が良いものがあります。もしよろしければ、私がソフィア妃殿下のために安全な茶葉を配合し、特別なものをお作りいたしましょうか?」
「まあ。ではお願いしようかしら」
「喜んでお受けいたします。……他に予定はございますか?」
ソフィアが私に茶葉の依頼をした時点で黒の線が引っ込んだので問題は今回取り寄せた茶葉にあったのだろう。薬師塔に帰ったらすぐに手持ちの茶葉を確認し、安全や味、香りなどを考えて混ぜ合わせ、今日の午後までに届けなければならない。
彼女には他の予定は問題なさそうだったので、直ぐに退席させてもらうことにした。王太子妃の部屋なんて庶民が長居したい場所ではないのだ。
「それではこれにて失礼致します。次にお会いする時まで、どうか心安らかに過ごされますように」
「ええ、ありがとう。ではまた、明日。同じ時間に」
にこやかなソフィアの笑顔と護衛騎士の鋭い視線に見送られ、部屋を出たらそっと息を吐く。軽く肩を叩かれて顔を上げたら「お疲れさま」とエクトルが笑いかけてくれたので、なんだかほっと落ち着いた気持ちになる。そんな私たちを目を剥いて見ている扉の前の騎士の視線が突き刺さるようだったので、さっさと裏道に入って薬師塔へ帰った。
戻ったらすぐにソフィア専用の茶葉を選ぶ。私は彼女の好みを知らないので、いくつか調合したものを用意して試してもらい、好みのものを後日教えてもらうことになるだろう。
妊婦が飲んでも問題ない茶葉を調合台に並べて組み合わせを考える前に、もうすぐユナンが交代のためにやってくる時間だと気づいた。考え事の途中で人の入れ替えがあると思考が途切れてしまうので、彼が来るまで少し待つことにする。
「そろそろユナンさんが来ると思うので……訓練、頑張ってくださいね」
「ああ、うん。……行きたくないなぁ」
ユナンと護衛任務を交代して訓練に行くエクトルはいつも笑顔で行きたくない、と漏らす。彼は訓練自体を嫌がっている訳ではなく、私から離れたくないのだ。これは私が一度攫われてしまったせいでもあり、やはり目の届かない場所にいると不安になるのだろう。少しだけ不安の色が伸びて見える。
「では、エクトルさんが訓練に行く気が出るようにしましょう」
「え?」
今朝エクトル自身が言っていたことだ、抱きしめてもらえたら元気が出るのだと。実際にその効果はあると私も思った。だから彼の腰に腕を回して抱きしめる。……私の方が小さいので、抱きしめるというよりは抱き着く、という表現が合う形になってしまうが。
「元気は出ました、か……」
彼にやる気は出ただろうかと、予想線を見て判断しようと顔を上げたら目を塞がれてしまった。エクトルがこうして私の目を手で覆って隠すのは、見てほしくない感情がある時だ。私の意思で予想線を見えないようにすることは出来ないし、知られたくない心を暴く気もないのでそのまま大人しくしておく。
「いきなりごめん。君があまりにも可愛いことするから、ちょっと邪な気持ちが……」
「……構いませんよ。私も貴方のことが好きですから」
好きな相手に触れたいと思うのは自然なことで、決して悪い感情ではない。しかしエクトルはそれを邪な気持ちだと思っているらしく、我慢をしてしまうようであまり自分から触れてくることがないのだ。私達はそういう関係なのだからそんなに気を使わなくていいのにと常々思っているのだけれど、恋愛慣れしていない彼は自分の感情を持て余し気味なのである。
いや、まあ、天井を突き抜けるほど大きい恋心を初めての恋で持ってしまったのだから持て余すのも必至なのかもしれないけれど。
「……本当にいいのかい?」
「はい。大丈夫ですよ」
私の目を隠していた手がゆっくり退けられて、熱のこもったはちみつ色の瞳と目が合った。少し困ったように眉尻を下げているが、嬉しそうにも見える。それが間違いではないのは橙色の線が伸びていることで分かった。その隣に伸びる茜色を見ても私が不快に思うことはない。……慣れない空気に少しばかり鼓動は早くなるが、嫌だとは思わない。
「キスしていい、かな」
「……ええ。訊かなくても、いつでもどうぞ」
手袋に覆われた手がするりと私の頬を撫でるのが、少しくすぐったい。そして小さく笑って見上げた顔の上に不満と怒りの半透明の色が見えたことに驚いて固まってしまう。何故今その色が見えるのか――その答えは一瞬で出た。唇が触れる前に、ドアをノックする音が聞こえてきたからだ。
「ユナンさんが来たんですね。……ちょっと待ってください!」
「…………間が悪いなぁ、本当に」
今入ってこられたら困ると思い、扉に向かって声をかけてからエクトルの顔に視線を戻す。彼はにっこりと笑っているものの、不満と怒りの色が一瞬で染まったので機嫌が悪いのは一目瞭然だった。このままでは一日中この感情を引きずってしまうのではないだろうか。……私もどことなく残念な気持ちだ。
「耳飾りを外しますから、そのままでいてください」
「……うん。お願い」
ちょうどよく顔が近かったのでエクトルの両耳の飾りを外す。そして彼が体勢を戻す前に彼の首に腕を回し、そっと唇を重ねたらすぐに離れてユナンが待っている扉に向かう。人を待たせてあるので軽い触れ合いしかできないけれど、私もそういう気分になっていたので何もせず離れるのは物足りない気がしたのだ。
ただ、そう思ってしまったのが甘えたがりのようで少し気恥ずかしくて、彼の顔も予想線も見ずに背中を向けてしまった。けれど顔には出さずいつも通りの表情で扉を開け、ユナンを迎え入れた。
「お待たせしました。おはようございます」
「おはようございます、シルル殿。エクトルは……何をしているのですか、あれは」
そう言われて振り返ると、エクトルが両手で顔を覆った状態で固まっていた。不満も怒りももう見えないからそれらは綺麗に解消されたようだ。そんな彼の体はピクリとも動かないものの、心の中は悶えているようで桃色と橙色の動きが激しい。……まあ、喜んでもらえたならいいだろう。
「あれは立ち直るのに時間がかかっているエクトルさんです。もう少ししたら戻ってくるかと」
「……そうですか。あのような姿は初めて見たので、少々面食らってしまいました」
基本的に人前では仮面を被っているのがエクトルという人間なので、驚くのも無理はない。ユナンが来たことは気づいているはずなのに中々精神が戻ってこない彼の姿を眺めてしばらく待ち、ようやく顔を上げた時にもまだ頬や耳が赤く染まっていてどこか艶っぽい表情だったせいか、それを目にしたユナンが軽く息を飲んでいた。
「はぁ……ユナン、俺の代わりに訓練に行ってよ。俺、このままシルルさんと一緒に居たい」
「……何を惚けたことを言ってるんだ。早くいけ、時間がないぞ」
真面目なユナンに追い立てられるように訓練に向かったエクトルを見送った後、直ぐにソフィア専用の茶葉の調合に取りかかる。調合を終えたらそれぞれに合った美味しい淹れ方、飲み方なども書き記す必要があるし、王太子妃を待たせるわけにもいかないので急がなければならない。
毒物の混入が最も不安であるので、できれば私が直接届けたい。王太子妃やお腹の子に何かあったら私の首が物理的に飛んでもおかしくはないのだ。ユナンが城に戻る際に使用人の誰かに言伝を頼み、私が届けに行くことをソフィアの耳に入れてもらうようにしようと思う。
「シルル殿、エクトルに何をしたのですか?」
どんな組み合わせが良いかと真剣に茶葉の配合を考え始めた時、ユナンがとても訝し気にそう問いかけてきたので、特別なことは何もしていませんとはぐらかし、集中するのでしばらく会話ができないことを伝えて強制的に話を終わらせた。……あの人は私が甘えるとああなります、なんて惚気話はさすがに言えないのである。
不穏な話を書きたいはずがなぜか仲睦まじい話になってしまいますね。
それからレビューを連続で頂きまして、びっくりしました。本当にありがとうございます。
感想もいつも有難く読ませていただいております。皆さんの温かいお言葉に毎度励まされております。
書籍の改稿も終わりに近づき、書籍、コミカライズ共に皆さんにお披露目できる日が近づいていると思うとわくわくしますね。もう少ししたらいろんな情報を公開できると思いますので、待っていただけると幸いです。




