7話
「ごめんなさい、思い違いだったみたい。突然で驚かせたでしょう」
穏やかに微笑むソフィアの頭上には小さな罪悪感の色がある。悪いことをしたと思っているのは事実のようだ。
考えてみれば、王子が突然平民の娘を連れてきて城壁の中に住まわせ始めたら愛妾を囲っていると噂が立ってもおかしくはない。最初は私の性別すら曖昧であったが、女であることが知られれば妙な憶測が飛び交うものなのだろう。貴族の世界はよく分からないが足の引っ張り合いが頻繁に起きているだろうことは想像がつく。王太子であるはずのカイオスの立場が盤石でないことは――死の色が付きまとうことからも明らかだ。悪い噂も流れやすいのではないだろうか。
「わたくしに一言の相談もなく専属を連れてきたと思ったら……お友達のために張りきったのね。全く、仕方のない人だこと」
(……おや?)
ほんの一瞬。ソフィアの赤い髪の上に、桃色が伸びて消えた。恋をしている人間の頭上に常にあるはずのその色が一瞬だけ現れて消える。そんな現象は見たことがない。
よく目を凝らしてみれば、恋の色が伸びていた場所には色の判断ができないほど短い線が残ってはいる。恋をしている人間の頭上に常にあるはずのその色は、判別がつかないほど短くできるものなのかと驚いた。
(……そもそも……この人の感情色は全部、短い……?)
先ほどまで見えていた灰色の不信感も、深緑の罪悪感も、桃色の恋もすべて短い線だった。これほど感情色が伸びにくく、心の予想が難しい人は初めて見た。……おそらくこれは、感情を抑えるのがとてつもなく上手いのだろう。
エクトルのように表面に出さないだけで感情が揺れ動く人とは違う。本当に自分の心を制御することに長けていて、己を律し、感情の起伏を抑えつけているのだと思う。制御不能だと思っていた恋心ですら予想線で気づけないくらい隠せてしまえるくらい、自制心が強い。
カイオスのことを話していて一瞬見えた恋の色だから、その相手は彼女の伴侶で間違いないのだが。王太子妃としてその感情を抑えながら過ごしているのだとすれば、それは大変な苦労も伴っているはずだ。……カイオスにふさわしくあろうとしているのか、王太子妃としての責任感がそうさせるのか。どちらにせよ、努力家で好ましい人柄であるように思えた。
「貴女、シルルさん。カイオスに振り回されて大変でしょう?」
「……いえ、そのようなことはございません」
私がどれほどカイオスの行動に胃をキリキリと締め付けられたとしても、そのようなことはないと言うしかない。私は平民で相手は王族である。笑顔を張り付けて答えるが、ソフィアも私がどう思っているかなど分かりきっているだろう。微笑んだまま頷かれた。
「わたくしも護衛の騎士も大臣も皆、いつも苦労しているのよ。突飛な行動もよくあること。それで妙な噂が流れればわたくしも確認しなければならないの」
それでわざわざ王太子妃が訪ねてきたらしい。だが、今は私とエクトルがこの場に揃っていて、お互いの色を身につけている。私達にそれぞれ視線を向けた後、彼女から不信の色が消えたのは、突然平民の小娘を連れてきたのは唯一無二の親友のための行動だったのだと一目で理解できた、ということなのだろう。誤解が生じなくて何よりだ。……勘違いで王族に悪感情を抱かれるなんて考えるだけで胃が痛くなる。
「お仕事のお邪魔をしてしまったわね。そろそろお暇させていただくわ」
「いえ。この度はソフィア妃殿下にご挨拶できたことを誠に……」
続きの言葉を呑み込んだのは、ソフィアの腹部から黒い線が飛び出してきたからだ。予想線は他人の頭の上に見えるもの。腹から出てくるものではない。
しかし、女性の場合は腹部から黒い死の予想線が伸びることがある。それはその人の腹の中にもう一人存在するという証明であり、安定期を迎えるまではよく伸びたり縮んだりしているのを見かけるのだが。
(……お腹の子が危ない、かな……多分)
先程黒の予想線が飛び出してから多少伸び縮みはしているものの、消えていないということは。おそらくこの後の予定をたった今決めて、それが赤子に良くない結果を生むということ。まだ妊娠の診断をされていないくらいの時期ならまだ命が宿ったばかりであり、本当にちょっとしたことで黒の予想線が伸びてしまう。
「ソフィア妃殿下、この後何か……ご予定がおありですか?」
「……そうね。それが何か?」
「暫くの間、体と心に負担のかかることは控えられた方がよろしいかと存じます。主治医に毎日体調を見てもらってください。それから、飲まれるお茶の種類も気を付けられた方がよろしいでしょう」
ソフィアの後ろに控えている細身の騎士の頭上に灰色が伸びる。小麦色の髪をかなり短く切っている上、中性的な顔立ちをしているので一見男性にも見えるけれど女性の騎士だ。女性騎士は初めて見たので、かなり珍しいのではないだろうか。
そんな彼女は青い目を細めて私を見た後、私の背後――エクトルに視線を流した。どういう意味かと問うているのだろうが、彼が答えられる問いではない。おそらくいつも通りの笑みを浮かべて緩く首を振っていることだろう。
基本的に護衛中の騎士は護衛対象同士の会話に混ざらない。意見を求められない限りは黙っているものだ。だからエクトルも相手の騎士も全く話してはいないが、私の言葉はさすがに気にせずにはいられなかったらしい。
「貴女には特別な勘がある、とは聞いていたけれど……私は、病にかかっている、と?」
「いえ、病ではないのですが……その……」
どう答えたものかと悩みながらまだまだ細くくびれた腹部に視線を向けると、一拍置いて「まあ」と驚いた声を上げた彼女の頭上には喜びと驚きの線が伸び、そしてすぐに短くなった。
「貴女の勘が正しいなら予定は取りやめるべきね。……どうもありがとう。では、ごきげんよう」
「……はい。いつかまたお会いできる日まで、ソフィア妃殿下が健やかに過ごせますようお祈り申し上げます」
穏やかに微笑むソフィアの頭上に、ほんのりと好意と興味の色が見えた気がしたが、気のせいかもしれない。彼女の色はあまりにも短くて本当に判断がつきにくい。
それと比べて普通に感情の色を見せてくれる女性騎士は頭上に灰色を見せて私を一瞥し、ソフィアの背を追っていく。
暫く二人に向かって深く頭を下げていたが、エクトルに「もういいよ」と小声で伝えられて顔を上げながら深くため息をついた。
「お疲れ様。シルルさんは……貴族とはあまり話さない方がいいね」
「……自覚はあります」
ソフィアが身ごもっていることに気づき、そして何らかの予定でそれが失われる可能性に気づき、どうしても口を出さずにはいられなかった。けれど、帰ろうとした貴族を平民が引き留めた上に予定を中止するように物申すなんて、本来あってはならないことだ。
いくら私がこの場での無礼を許されてるとはいえ、不快に思わない貴族ばかりではないだろう。カイオスやソフィアは特別変わり者だから、私の存在を許せるのだろうけれど。
「でも、あの判断は間違いじゃないよ。無事に子供が生まれればカイオスの立場が揺るがないものになる」
王太子に子供が生まれると国王は譲位し、王太子が新たな国王となるのがこの国の伝統だ。だからカイオスに国王となられると困る者達は子供が生まれる前にカイオスの身に不幸を起こしたり、子供が生まれぬよう妨害したり、現在進行形で色々と活動しているらしい。不幸の見本市のような色が見える原因はその者達である。
「カイオスが王になって、膿を出し切れば……少しは安全になるはずなんだ」
そう呟くエクトルの頭上にあるのは不安の色。常に暗殺の危険に晒されている友人を心配するのは当然だ。彼はもともとその友人の護衛騎士だったというし、その場所を離れなくてはいけなくなれば尚更気にもなるだろう。
心配するな、と言うのは簡単だがそれで不安がなくなるはずもない。こういう時はなんと声をかけるべきか少し迷ったが、思うことを素直に話すことにした。
「私も……できる限り、カイオス殿下の助けになります。私とエクトルさんの力があれば、できることはたくさんあるでしょう。大丈夫です、あの方を私達で守ればいいんですよ」
「……シルルさんってさ、時々俺よりも騎士っぽくない? 頼もしくてカッコいいんだけど?」
冗談っぽく笑って見せる彼から不安の色が消えていることに私も安堵する。私の予知とエクトルの剣の腕があれば、カイオスの危機を回避することだってできるはずだ。そのためには頻繁に私がカイオスと顔を合わせて予想線を見る必要があるのだが、胃が痛んだとしてもそれくらいやってみせよう。……カイオスには恩があるし、何より悲しむエクトルは見たくないから。
「貴方が傍に居てくれれば、私はいくらでも強くなれますよ。私ができることならなんでもしましょう。伴侶になりますし……この先の一生、エクトルさんの心は私が守ると決めていますから」
そう言うとエクトルはバッと片手で顔を隠してしまった。彼の手は大きいのでそれですっかり顔は見えなくなってしまったが、頭の上では恋の色と喜びの色が面白い程伸びている。
よく見る反応なのですっかり慣れてきたけれど、これほど感情が大きく動くと内心は大変なのではないだろうか。ソフィアのように予想線が動かない人間を見たばかりなのでエクトルの反応は過分にすら思える。私の言葉一つで動揺しすぎではないか、と。
「不意打ちに婚姻の誓いみたいなこと言われると……俺、どうしていいか分からないっていうか」
「……ああ。誓いの言葉っぽいですね、たしかに」
結婚をする男女は一生を誓う言葉を交わす。式場でもないしそういう意味はなかったが「一生君を守る」という意味の言葉は誓いの儀式の場において大変よく使われる。……どちらかと言えば、これは男性側が女性側に誓うことが多いけれど。先程の私の発言は婚姻を誓う場で口にしてもおかしくはない。
「……意識しないでそういう言葉が出てくるんだもんなぁ、シルルさんは」
「普段から思っていることですから、自然と」
私はエクトルを大事に思っているし、彼にはできるだけ傷ついてほしくない。今までたくさん傷ついてきたのだろうから私が傍に居られるならその痛みを減らしたいと思うのだ。私の予想線が見える力は傍に居る人の不幸を避けるために役立つ。治癒の魔法だって、人を助ける力である。……私はこの力のせいで一人で生きていかなければならないと思っていたけれど、今は違う。大事な人を守ることができる力があってよかったと、そう思っている。
「んんん……どうしよう、顔が締まらない。君が好きすぎる……俺の気持ち、すごいことになってない?」
「……そうですね、最高記録です」
外なので天井という障害物もなく、どこまで予想線が伸びているかよく見える。いまだに顔を覆い隠しているエクトルの頭上では、おそらく私が見た中では最も長い予想線となる桃色が青空に向かって伸びていて、それを見上げていると日の光が眩しく感じた。
「気になっていたんですが、エクトルさんが顔を隠している時ってどんな顔をしているんですか?」
「ええと……俺もよく分からない。なんか、顔が保てないっていうか……どうしても表情が作れなくて、自分でどんな顔してるか分からないんだよね」
そういったエクトルがゆっくり、ほんの少しだけ手を離して顔を覗かせた。はちみつ色の瞳が窺うようにちらり私に向けられて「どんな顔してる?」と小さな声で問われる。
どんな顔、と答えていいのかしばし悩む。口元は引き締めようとしているのだろうが、堪えきれず笑みの形になっている。眉尻が少し下がり気味で、困っているようにも照れているようにも見えた。私を直視できないらしくすぐにそらされた目は少し伏し目がちになっていて――はにかむ表情というのだろうか、この顔は。恥じらいが浮かぶ綺麗な顔を眺めていると、なんだかいけないものを見ているような気分になってくる。
(なんというか……かわいい……? いやちょっと違うかな、なんだろう……)
小動物を見た時や幼子を微笑ましく思う時に可愛いという感想を抱くことがあるが、それとは違うものだ。胸の中が温かいようで小さく締め付けられる、そんな心地である。
その時自分が抱いた感情を分析するのに数秒。腑に落ちる答えが出た後、私は彼に笑いかけた。
「エクトルさんのそういう表情は愛おしいと思います」
「ん゛ッ」
エクトルから呻き声のような、咽たような、そんな妙な声が短く上がる。今度は両手で顔を覆ってしまい、本当にすっかり見えなくなってしまった。ちなみに恋の色はまた一段と伸びたようである。
「俺、心臓おかしくなりそうなんだけど……シルルさん……わざとやってない……?」
「特別貴方をどうかしたいと思っている訳ではないんですが」
私は別にエクトルを驚かせたいとか、動揺させたいと思っている訳ではない。私の言葉は飾らない素直な気持ちである。それを口にできる相手は共に生きると決めてくれた彼だけ、というのもあるだろう。私はエクトルにだけは、隠し事をしなくていいのだから。
でも、まあ。私がその素直な感情を口にするとエクトルがこういう反応をしやすい、というのはちゃんと自覚している。嫌がられている訳ではなく、いつも橙色が見えているからわざわざ止めようとも思わないだけで。
「俺だって一生君の秘密も君自身のことも守るって思ってるし、君のこと愛おしいと感じるよ。けど、今はカッコつかないから今度改めて言わせて……」
「……はい。待ってますね」
エクトルは顔を手で覆っていて私の顔を見ていない。けれど、なぜだろう。彼の言葉にどこかくすぐったいような気恥ずかしさを覚えてそっと目をそらした。少しだけ、顔を覆ってしまう気持ちが分かる気がする。……飾られてない真っ直ぐな言葉というのはあまりにも刺激が強い。
(好きだからなんだろうなぁ……こんな気持ちになるのは)
この人のためになら頑張れる。そう思った、翌日のこと。
「お前に一つ頼みがある。なに、難しいことではない。毎朝一度、我が妃ソフィアの相談を受けてほしくてな」
楽しそうに笑う黒髪黒目の王太子と穏やかにほほ笑む赤髪緑目の王太子妃が並んでやってきた上、そんなことを言いだしたので胃が絞られるような気持ちになった。
……エクトルのためなら頑張れるとは思ったが胃が痛まない訳ではないのである。笑顔でカイオスの依頼を引き受けながら、良く効く胃薬を調合しておこうと心に決めた。
シルルにはちょっとだけエクトルをからかいたい気持ちがあるのかもしれません。
書籍の方は今、書下ろしの短編を考えているところです。何を書こうかなぁ…
コミカライズの方はネームを見せていただきました。漫画ってすごいですね…!
ご感想、ありがたく読ませていただいてます。お返事時間かかってますが、いつも嬉しいです。
ブックマークや評価もありがとうございます。励みになっております。番外編ももうちょっと続けられたらと思います。




