第90話 緊急事態 ◆前半マリウッツ視点
「む、今日はサチは休みか」
オーウェンの娘に押し付けられた細々とした在庫クエストも大方片が付き、久々にゆとりある一日を手に入れたため、足が向くままに魔物解体カウンターを訪れた。
サチは最近目が合うと慌てて目を逸らす。そして少し目を泳がせてから、眉を下げてへにょりと笑うのだ。
何か困りごとでもあるのかと気にしてはいるのだが、本人が「なんでもない」と言うので踏み込めずにいる。
カウンターを覗くと、サチは不在だった。
少し残念な気持ちを抱きつつ、カウンターに立っているドルドに声をかけた。
「おお、マリウッツか。いや、サチはクエストに出ているぞ」
「はあ? クエストに? どういうことだ」
ドルドの言葉に思い切り眉を顰めてしまった。
どうしてサチがクエストに出るという話になるのだ。以前のクエストは、サチのナイフ素材の採取を目的としていたので仕方がないにしろ、一体全体どういうことだ。
「はっは! 実はな、素材を現地で解体してほしいってレイラが頼み込んできてな。場所もラーナの森だって言うから許可を出したってわけだ。そろそろ着く頃じゃねえかな」
薬師め。何か企んでいそうだと思ってはいたが、サチを連れてクエストに出るとは予想外だった。
もしかして、最近気まずげにしていたのはクエストの件が原因か?
「チッ、一言声をかけてくれれば俺も同行したものを」
「まあまあ、レイラもCランク冒険者だ。ラーナの森だったら万一のこともあるまい。夕方には戻るだろうから、用事があるならまたその頃訪ねてやってくれや」
確かに、あの森ならば命に関わるほど危険な魔物はいないだろう。
薬師もそれなりに腕は立つ。それに、サチだって今まで何度も危機を乗り越えてきた。あいつは存外度胸がある。
仕方ない、夕方出直すとするか。
そう思って踵を返した時、ギルド内をバタバタ駆け回る赤い髪が目に入った。ちょうどこちらに向かってきているようだ。
「ああ、マリウッツ殿! こんなところにいましたか」
「どうした、何かあったのか」
ギルドのサブマスターであるアルフレッドは、額に汗を滲ませながらズレた丸眼鏡を押し上げた。随分と慌てた様子だ。
「いえ、実は、Cランククエストに出ていた冒険者から連絡が入りまして……標的の魔物がラーナの森に逃げ込んだと言うのです。追跡中のようですが、あの森は初心者の冒険者も多く立ち入る場所なので、近づかないように注意喚起に回っているところで――」
「なんだと!?」
「なんだって!?」
アルフレッドの話を遮り叫んだ俺とドルドの声が重なった。
目を瞬くアルフレッドを他所に、カウンターから急いでドルドが出てきた。
「標的の魔物はなんだ」
二人でアルフレッドに詰め寄る。アルフレッドは何が何だかといった表情をしているが、今はそれどころじゃない。
「え? ええっと、ミノタウロスです。手負いではありますが、好戦的なCランクの魔物なので、低ランクの冒険者だとひとたまりもありません」
「なんてこった……!」
ドルドは顔を真っ青にして頭を抱えている。
俺も頭を抱えたい。なぜこのタイミングで。
アルフレッドは俺たちの様子から、緊急事態であると察したようで、目を鋭く細めた。
「どうしたんです? 何か事情があるのですか?」
「サチがラーナの森にいる」
「なんですって!? どうして!?」
「事情は後だ。とにかく俺はラーナの森へ向かう」
「ぼ、僕も向かいます!」
ギルドの出口に向かおうとした俺の後ろをアルフレッドが追いかけてきた。
「俺一人で十分だが」
「森にはサチさん以外にも、避難が必要な冒険者がいるかも知れません。場合によっては分担して動く必要も出てくるでしょう。あなたが何と言おうと、僕もついていきます」
アルフレッドは、鍛冶カウンターに声をかけて、手早くガンドゥから大斧を借り受けて背負った。
「はあ。言い争っている時間が惜しい。行くぞ」
「ええ!」
俺たちは一つ頷くと、揃って駆け出した。後ろから「サチを頼むぞ!」と言うドルドの声が聞こえた。
言われなくても、サチは必ず守る。
頼むから俺が到着するまで、ミノタウロスに遭遇することなく、無事でいてくれ。
◇◇◇
ズウン……という地響きがし、音の発生源を探して辺りを見回した。
どうやら、木が根元から折れて倒れたらしく、ミシミシと幹が割れる音が遅れて聞こえてきた。
ああ、木が倒れたのね…………って、どうして急に?
その原因は、一目瞭然だった。
小川を挟んだ森の奥、倒れた木を踏みつけながら現れたのは、牛の頭を持つ二足歩行の巨大な魔物だった。
「なっ……ミノタウロス!? どうしてラーナの森に!? 奴の生息地はもっとずっと西だろう!」
レイラさんもミノタウロスを視認したようで、素早く立ち上がると片手を私の前に広げて庇うようにミノタウロスとの間に立ってくれた。
「フシャーッ!」
ピィちゃんも全身の毛を逆立てて、警戒心をあらわにしている。
危険な魔物がいないこの森に現れたCランクのミノタウロス。どう考えても異常事態だった。
ミノタウロスは左肩を負傷しているようで、肩を押さえながら苛立った様子でズンズンとこちらに近づいてくる。もしかすると、冒険者と交戦をして、この森に逃げ込んできたのだろうか。
「ウボォォォォォッ!!!」
ジリ、と足元の砂利を踏み締めて後退りをした時、ミノタウロスが空気を揺るがす咆哮を上げた。
ピリピリと肌を刺すような怒気が伝わってくる。そうだ、ミノタウロスは確か、かなり好戦的な魔物だったはず。いつ飛びかかってくるか分からない。
ミノタウロスの咆哮に、レイラさんはビクリと肩を跳ねさせると、私に向かって叫んだ。
「サチ! ミノタウロスは私も初めて相手にする魔物だ! Cランクだが、無傷で倒せる保証はない。あんただけでも今すぐ逃げるんだ!」
レイラさんは腰に下げていたレイピアを抜くと、ジリジリと接近してくるミノタウロスに向き合った。
レイラさんの判断はもっともだろう。
普通、ただのクエスト同行者であるギルド職員は戦闘要員にはならない。むしろ戦いの邪魔になる。
でも――
私はレイラさんの腕に手をかけ、隣に並んだ。
驚き目を見開くレイラさんに、とびきりの笑顔で答える。
「大丈夫ですよ! 私、ミノタウロスでしたら解体したことありますので!」




