12
仕度ができたとの知らせに、私は主の許に向かった。
早く無事な姿を確かめたい、その一心で扉を開けた私は、束の間、声を失った。
ソファに姿勢良く座った主は、深いワイン色のドレスに、金と翡翠の首飾りと耳飾をつけ、髪には赤い石を使った豪華な簪を差していた。
こちらに向けられたまなざしは親しげな笑みを含んでおり、唇が夢のように美しい弧を描きだす。
見惚れている先で、その唇が開き、声を発した。
「エディアルド」
甘い呼び声に、心臓が震えるような心地を覚える。
息を止め、これは本当に、我が主なのだろうか、と考えた。
主の姿は、妖艶と言ってさしつかえないものだった。まさか、彼女にこんな一面があるとは、今まで、思ってもみなかった。
ただ、その瞳を見れば、妖艶につきものの退廃さや堕落は少しも感じられず、凛とした知性が貫かれている。
ああ、これは我が主だ。
ほっとし、ようやくいくばくか心拍も平常にもどってきた。
それにしても、騎士団時代に王宮で目にしてきた貴婦人たちの中にも、これほどの方は、そうはいなかった。なんと見事な貴婦人ぶりであることか。
「……よくお似合いでいらっしゃいます」
私は心からの賞賛を捧げた。朝にも同じことを言ったが、他にうまい言い回しの持ち合わせがない。まさか、一日に二度も着飾った主を見る機会がめぐってこようとは、思い及ばなかったのだ。
女性を褒め称えるのは、男として心得ておかなければならない当然の礼儀だ。なのだが、そういった状況から遠い場所に身を置いていたため、どうも苦手なのである。
幼い頃に、父は母をどう褒めていただろうかと思い出そうとしてみたが、ごく短く、きれいだ、と言って抱き寄せてキスしていたくらいしか覚えがない。
いくらなんでも主相手にその手が通用するとは思わないし、今度、メディナリーあたりに褒め言葉をレクチャーしてもらおうか、いや、ハリスンの方が案外真っ当そうだと、頭の隅の方で考えるともなしに考える。
主は苦笑して、次いで照れくさそうに、小さな声で言った。
「いつもありがとう。そんなことを言ってくれるのは、あなたたちくらいよ」
あなたたち、というのは、私も含めた城の者たちのことだろう。主は褒め言葉を社交辞令ととるきらいがある。今回もそう思っているのが見てとれた。
確かに、主は美人というには、少し足りない。だが、じゅうぶんに人を魅了する魅力を持っている。こんなふうに装えば、宮中でも噂の麗人となるだろうほどに。
だから私は、言葉を重ねた。……父を真似て。
「本当に、とてもお綺麗です」
「え? きれい……?」
主は、思いがけないという様子で、鸚鵡返しに聞き返してきた。
「ええ、とても」
思ったよりも気恥ずかしさでいっぱいになって、言うのではなかったという後悔にみまわれていたが、ここで退いたら元の木阿弥である。私は自分の感情に蓋をして、しっかりと請合った。
すると主は、かあっと頬に朱をのぼらせて、その熱を冷まそうとするように、目をつぶって頬に右手を当てた。
「ありがとう。あなたにそう言ってもらえて、とても嬉しいわ」
その恥らう仕草もまた、初々しくも艶かしい。
そんな主の姿を見る予定なのが、祖父くらいですむことに、私は密かに胸をなでおろした。
主に不本意な結婚はしてもらいたくない。そのためには、このような主の姿を、飢えた獣の群れに見せてやるには、まだ早すぎる。
ただし、領地でうまくいかなかった時は、ぜひともこのメイドの手を借りたいものだと思い、私は視線だけを動かして、壁際に控えるメイドの顔を確かめた。
確か、名はエセルといったか。いい腕をしている。
視線に応えて一礼した彼女に、私も頷き返したのだった。
主の手をとり、食堂に入ると、祖父はもうテーブルについていた。
用意された椅子は三つ。彼のものだけ背もたれ部分が違っている。それで、どうやら車椅子のようだと気がついた。
祖父は私たちを目にすると、好々爺然として微笑んだ。グレンに案内され、座ったままの祖父の前まで行く。主は私から手を引き、優雅に淑女の礼をした。
「はじめまして。サリーナ・ライエルバッハでございます。突然の訪問を快くお許しくださり、ありがとうございます」
「はじめまして。ようこそおいでくださいました。このようなありさまで礼を欠くこと、どうかおゆるしください」
「いいえ。わたくしこそアルリード公のご迷惑も考えず押しかけましたこと、心苦しく思っております。……お体がお辛くはいらっしゃいませんか? どうかご無理はなさらないでくださいませ」
「ご心配かたじけなく思います。無理はしておりません。食事だけは、体を立てていないと、どこに入ったのか、食べた気がしませんもので。それに、ライエルバッハ公のような美しい方との食事ならば、むしろ食欲がわくというものです」
「まあ。おじょうずですこと」
「いいえ。我が孫が身を尽くして仕えたいと願う気持ちが、よくわかります」
その一言で、しんと静まり返り、二人の目が私に向いた。主は確かめるように、祖父は面白そうにして。
それはそのとおりなのだが、第三者に、それも祖父から言われたい事柄ではない。私は取り澄まして二人を見返した。
三人の中で、一番先に視線をそらしたのは、祖父だった。
「ああ、これはいけませんでした。ご婦人を立たせたままなど、紳士の風上にも置けません。どうぞお掛けください。ささやかではございますが、晩餐を用意いたしましたので」
そうして、ようやく食事がはじまった。
話は終始なごやかだった。天気の話題から国中の作柄の見込み、そこから近隣諸国との物流の動向へといき、最後に昨年うちで出版した旅行記の内容へと移る。
それら全部に、祖父は情報を出し惜しみすることはなかった。それにさりげなく主も答えている。……ただの市井の人間なら、答えようのないことであっても。
大商人である祖父が情報通なのは当然のことだが、ライエルバッハもまた、実はそれに劣らぬ情報網を持っている。
情報源は、主に芸術家や吟遊詩人たちだ。情報を仕入れてくる者の特殊性から、表に出ることが少ない、とんでもない情報が集まるのが、ライエルバッハの特徴かもしれなかった。
主はそれらをひけらかすことこそしなかったが、祖父に小娘と侮られぬくらいには返し、対する祖父も、所々に主を試すような質問をはさみ、反応を確かめている。
……確かに、約束どおり、祖父は礼を失していない。けっして攻撃的でもない。祖父のそういった話術は、会話を盛り上げるエッセンスにもなっている。
が、おもしろくなかった。
そんな会話であるにもかかわらず、主が時々本物の笑みを祖父に向けるのも、祖父が主を気に入った様子で、さらに笑顔を誘う話題を振るのも、すべてが気にくわない。
ありていに言えば、自分のこれは、嫉妬だとわかっている。だが、他の誰よりもこの祖父に主の気を引かれるのは、心底腹が立ってしかたなかった。
私は自分の狭量さを切り分けて飲み込むつもりで、手元の肉を、ことさら細かく切り分けた。
そして、食後。
「エディアルド、おじい様に、父にしていた手のマッサージをしてさしあげたいの。時間がかかるから、あなたは先に戻っていて?」
暖炉の前のカウチにおさまった祖父の横に、まるで本物の孫娘のように座った主に、にこりと微笑みながら言われ。
「そうだ。ラスティを呼び戻しておいた。おまえたちはしばらくぶりだろう。久しぶりに飲み明かせばいい。グレン、酒を出してやってくれ。とっておきのをな」
などと、いらぬお節介を焼かれ。
私は一人、部屋から追い出されたのだった。




