条件があります
「マユさま!」
それから、街へ着くたびに彼女が部屋を抜けだすようになってしまった。
朋来と慶諾でそれを見咎めるたびに、買い物に行きたかった、あのお店に入ってみたい、と。馬の飼葉を買いに立ち寄った街で馬車を抜けだすという荒業もやってのけた。
王宮でいかに彼女が大人しく過ごしていたのかを身を持って知った思いだった。
そして今は、
「どうして、馬になど乗ろうとしたのですか!」
朋来と慶諾が荷物の確認と同時に旅の行程を確認している最中にそれは起こった。
彼女が勝手に馬を放して無理矢理、鞍によじ登ろうとしていたのだ。
旅はすでに一週間を過ぎ、旺盛過ぎる少女の好奇心は旅を始めた当初から珍しげにしていた馬にも及んだ。馬に触ってみたいというので、慶諾と朋来がついている時だけと厳しく言い聞かせていた、はずだった。
馬の方は大人しい部類の性格だったため、暴れもせずにただ迷惑そうに少女の奇行を嫌がっていたようだ。彼女が鐙に足をかけたところでそれ以上よじ登れずにいることも幸いして大事には至らなかった。が、
「あれほど注意したでしょう」
荒くれ者の兵士達を一喝で従わせる朋来が、これほどまでにたった一人の少女に振り回されるとは。もはや憐れな少女というよりも、じゃじゃ馬のお姫さまを連れている気分だった。
「だって、乗ってみたかったんだもん」
「だってではありません。落ちて首を折る者が年に何人いるかご存じですか」
たとえ馬に慣れた兵士であっても、落馬すればただでは済まないのだ。打ち所が悪ければ死に至る。
さすがに落馬するのは怖いと感じたのか、彼女はうっと口ごもる。
「馬は、見た目は私たちよりも大きい生き物ですが、とても気難しく繊細な生き物なのですよ」
諭しながら、朋来は馬が彼女に心を許し始めていることを感じていた。毎日、慶諾のあとについて見習いの護衛士よりも熱心に飼葉を与えたり、水を与えたりして世話をしていたのだ。朋来にもいくつもの質問を投げかけてきていた。
それで、この事態だ。
「―――馬に、乗りたいのですか?」
すでに腰をかがめて彼女と視線を合わせることにも慣れた。
彼女がぱっと顔を上げることにも。
「休憩の時間、そして馬があまり疲れていない時に乗せて差し上げます。ですから、一人で乗ろうとは絶対にしないでください」
でなければ、宿へついたら部屋に鍵をかけてしまいますよ。
この一言が効いたのか、それ以降、彼女が勝手に出かけることも、馬に乗ろうとすることも無くなった。
この頃には、街へ着くたびに三人で観光へ繰り出すようになっていた。
慶諾が時折面白がるように、彼女と一緒になって賭け事に興じたり、的屋へ連れて行くので(慶諾という男は大貴族でありながら場末の遊びに通じている)それに溜息混じりに後からついていくようにもなった。
今日も、たどり着いた街で露店を物色する彼女に付き合って、街路をのんびりと散歩していたが、
「―――決まりませんか?」
露店の小間物屋でかれこれ一時間以上は唸っている彼女に、朋来は声をかけた。慶諾はすでにこの待ち時間に飽きて夕食を食べるための店を探しに出かけている。
夕暮れも近いためか人通りはあまりなく、そのためか小間物屋の人の良さそうな店主はいつまでも張り付いている客を追い出そうとはしなかった。
それというのも、すっかり街の少年のような質素な装いが身についてしまった我らがお姫様が一つの髪飾りを手にずっと悩んでいるのだ。
あまりに必死なので朋来だけでなく、店主も声を掛けづらかったに違いないが。
少女の手元を見ると、小振りの髪飾りが乗っている。
鳥が羽ばたく意匠の、珍しいといえば珍しいがさして高いものではない髪飾りだ。
王宮では、この小間物屋に並んでいる商品がたった一つの小さな耳飾りで買えてしまうようなものが彼女の周りに溢れていたというのに。
「……欲しいのですか?」
控え目に、しかしはっきりと朋来が指摘すると、ようやく顔を上げた彼女の目が所在なさげに泳いだ。
その様子に朋来がちゃんと答えるように目を細めて促すと、観念したように少女は溜息をつく。
「―――欲しい。けど、これを買ったら、ちょっとね」
苦笑するお姫様は、王宮でただ過ごしていたわけではない。観光にお供するようになってから、朋来は予想外に彼女のこちらの世界での経済観念がきちんとしていることに驚いた。
彼女は、衣食住以外の雑費をほとんど自分で出す。
初めは宿代さえ自分の分は出すと言いだしたが、値段を教えてやるとすごすごと引き下がった。彼女に払える額ではなかったらしい。というのも、彼女の持っている金は、驚いたことに彼女自身が働いて得た金だというのだ。何をして得たのかを朋来が根気よく説得して(ほとんど脅すように、とは慶諾の言だが)聞き出すと、なんと王宮で小間使いのまねごとをしていたという。見習いの女官に金を渡し、遠い親戚だと偽ってもらい、下女の仕事を得たという。身分を偽ることは犯罪だが、身元を保証されない限りは王宮で働くことなどできなかっただろう。それに、彼女には異世界から来た客人というだけで、明確な身分というものが無いも同然だった。
今着ている質素な着物も沓も自分で働いた金で買ったのだと、少し照れながら言われて結局朋来は怒ることなどできなかった。
しかし、この旅で物珍しさも手伝ってか彼女は自分で思ってもみないほど散財をしたらしい。行程も半分を過ぎ、あと幾つかの街と関所を経れば目的の南概へ着く。
「条件があります」
唐突に切りだした朋来を不思議そうに少女は見上げた。
「これから先も、一人で街に出かけたりしないこと。馬に勝手に乗らないこと。慶諾に連れていかれたからと言って酒場などに出入りしないこと。だらだらと夜更かししないこと。朝は一人でちゃんと起きること。それから……」
「ちょっと待って! いきなり何なの!」
幾つもの条件に驚いて少女が叫ぶとほとんど同時に、朋来と彼女の後ろから笑い声が響いた。
「―――姫さんに買ってあげるって言ってるんだ。それ」
戻ってきたらしい慶諾がまだ笑いの余韻の残る顔で二人の元へやってくる。大笑いの主は彼だったらしい。
笑うことなど珍しいはずの慶諾が、彼女の前ではまるで子供のように朗らかに笑う。朋来と出会ったころには表情どころか感情すらもどこかへ置いてきたようだったことを思い出せば、目をみはるような変化だった。
「え? これ?」
慶諾が指さしたのは彼女が睨みあっていた髪飾りだ。
「そんな、悪いよ……」
心底難しい顔をする少女に、慶諾と朋来は思わず顔を見合せた。
今でこそこんな護衛士の末端に居るが、慶諾と朋来は本来ならば将軍職にあった者たちだ。慶諾に関して言えば家格は大貴族、朋来にしても縁者は既に居ないがそれなりの家の当主だ。王宮暮らしほどではないにせよ、彼らが小娘一人の買い物で不自由するほどの懐ではない。そんな事情を知らないとはいえ、大の男二人の懐具合を心配している少女。
朋来と慶諾は、互いの顔が情けなく緩んでいることが面白く、未だ気難しい顔でこちらを睨んでいる彼女がおかしくて、声を上げて笑った。
「あっはっはっはっはっは!」
「何がおかしいのよっ!」
とうとう顔を真っ赤にして怒鳴り出した彼女をなだめるべく、朋来は口元を手で覆いながら弁解した。
「いえ、おかしくなど」
「そう言いながら笑わないでよ! こっちにしたら死活問題なんだから!」
髪飾り一つで天地がひっくり返るとも思えないが、彼女にしてみればそれほどのことなのだろう。
「いいでしょう。私たちからの贈り物としてあなたに差し上げます」
「え?」
朋来の提案に呆けた少女の顔がまたおかしくて、朋来は口元を綻ばせた。
「ただし、先ほどの私の条件を呑んでくださるなら」
「いいの!?」
きらきらとした顔が朋来を見上げてくる。
その顔に、朋来は否とは言えない。
朋来一人で金を出そうとすると彼女が存外に渋るので、朋来と慶諾の折半で髪飾りを買うことになった。
小間物屋の主人に「良かったねぇ」と言われて嬉しそうに肯くと、彼女は手に入った髪飾りを夕食の間も返す返す見つめては嬉しそうに笑った。
その様子を眺めながら、朋来は自分の義妹の成年式に送った腕輪のことを思い出した。
すでにそのころには朋来は護衛士見習いとして王都に居て、里帰りした時にはその腕輪をいつもつけていてくれたことを覚えている。
その里帰りも、朋来の遠征が多くなるにつれて少なくなり、悲劇へと向かう彼女を止めることができなかった。
彼女は、この目の前の少女のようにあの腕輪を喜んでくれたのだろうか。
遺品を整理したものの、結局その腕輪は見つからなかった。
夕食の支払いをしようと店員を呼びよせると、明るい光があったらしい。
店員は小さく悲鳴を上げた。
「忌色…っ」
朋来の瞳を銀色と知ったらしい。
朋来は目を細めて店員を黙らせて、卓の上に金を置いた。
すでに席を立っていた慶諾と少女を追いかけていく朋来の背中を、店員の畏怖が店を出るまで追いかけてくる。
出入り口で少女と一緒に待っていた慶諾は店のおかしな雰囲気に気付いたようだったが、何も言わずに店を後にした。
騒いだところで意味のないことだ。
朋来は明日にはこの街にいない。
腕輪を受け取ってくれたはずの義妹も、もうこの世にはない。
「マユさま」
夕食からの宿への帰り道、夜道を嬉しそうに歩く彼女に朋来は思わず声をかけた。
振り返る少女の行く先だけを、朋来は希望にしている。
「髪飾り、つけてみせてくださいね」
驚いた顔をしたものの、恥じらうように笑った少女を南概へ連れて行く。
それだけが、朋来の希望だった。
それが、この不幸な少女の、不幸であっても。
しかし、朋来はそれを目の当たりにして眩暈がする思いがした。




