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9  やるべきことはただひとつ



 雨の音を聞くと、あの夜のことを思い出す。


 濡れた瞳に、ほんのりと赤く染まった頬。意図せず目にしてしまった、鎖骨からその下へと続くなだらかな曲線。あの時の扇情的な姿が頭から離れない。

 年齢よりも幼く見える顔立ちを気にしているようだったが、あの時の彼女は間違いなく、大人の色香を纏っていた。


 正直、アルコールが回っていてよかったと思う。疲労とお酒の影響で眠りに落ちていなかったらと考えると、本当に恐ろしい。


 自制心は強い方だと自負していたが、あの状況では間違いが起きてもおかしくなかった。それほどに、涙を溜めて縋る彼女の姿は、僕の中の加虐心を煽ったのだ。


「これは……」


 あれからずっと、この心は侵食され続けている。何年も別の女性を想い続け、実らぬ恋に心も身体もボロボロになっていたというのに、たった一晩で全てが変わった。……変わってしまった。


「エルダを……?」


 名前を呼べば、心臓がどくりと脈打つ。

 この感覚は知っている。つい最近やっと捨てたばかりなのに、まだ懲りずにあの感情を抱こうというのか。


 彼女を秘書にと推薦したのは正解だった。少し危なっかしいところはあるが基礎はしっかりできているし、全てにおいて真面目に取り組む姿勢は評価が高く、以前から父には相談していたのだ。


 今度はそばに置いて、どこにも逃がさないように、他の誰かに盗られないように、ずっと――


「……最悪だ」


 そんな思考が生まれてくる自分が恐ろしい。

 そもそもつい先日まで別の女性を想っていた男に近づかれても、嫌悪感しか湧かないだろう。エルダはあの夜の記憶が曖昧なようだし、反応からして何もなかったことにしたいようだった。


 秘書の仕事は受けてくれたので、嫌われてはいないと思うのだが……いや、単純に給金倍額に惹かれて、嫌々引き受けた可能性も捨てきれないが。


 結局、距離が近づくたびに惹かれていく心を止められはしなかった。

 宝飾店で元婚約者と遭遇したときは一丁前に嫉妬もしたし、守ってあげたいと思った。2回目の彼女の涙はやっぱり放っておけなくて、その涙があの男のせいで流れているのだと思うと本当に腹立たしかった。


 それでも、彼女とどうこうなる気はなかった。――あの日までは。

 ただ一緒にいることが楽しくて、市場調査という名目をでっち上げてスイーツ店に赴いたのだが、そこで思い知ったのだ。己の心が、完全にエルダに向いていることを。


 目の前にノアンがいるのに、以前のように心が揺れることはない。それどころか、早くエルダとふたりになりたいとずっと思っていた。

 それがどういう意味か、2回目だからこそ分かる。自分がもう、引き返せないほど恋に落ちていると。


 だから、決めた。

 絶対に手に入れる。今度はあきらめない。


 そのために、やるべきことはひとつ。



 よれよれの服を着て、小さく背中を丸めたまま目の前に座る男を見る。表情は暗く、覇気がない。このまま命を絶ってしまうのではないかと思えるような、絶望を滲ませた顔をしている。

 その男に向けて、僕は怒りをあらわにした声で言った。


「どういうことですか? マグリード子爵」


 一通の紙を男の前に差し出す。怒りから震えだしそうになる手を必死で押さえた。


「これは先ほど、僕宛てに商会の者から届いた手紙です。ここに何が書かれているか、あなたなら分かりますね?」

「娘の……ことでしょうか」

「ええ。エルダがバローナ商会を辞職することになった、と」


 僕の言葉を聞いても、エルダの父であるマグリード子爵に驚いた様子はない。知っていたとでも言うように、ただ俯くばかりだ。


「エルダは辞める理由をたったひとりにだけ話していったそうです。この手紙は、その者から早馬で届きました。手遅れになる前に早くどうにかしろと」


 送り主は、ジネット・ハンザ。恐らく彼女の独断で知らせてくれたのだろう。

 僕はいま、王都から馬車で数日ほどかかる国境付近の町にいる。ここはマグリード領。エルダの実家がある田舎町だ。


 ここに来た理由はふたつある。そのうちのひとつを達成するためにマグリード子爵低を訪れたのだが、屋敷に入る直前にこの手紙を受け取った。


「いくら困窮しているとはいえ、まさか娘を売るとは思っていませんでした。しかも、あのアストール家に」


 エルダはアストール家に嫁ぐことを、ジネットさんにだけ話していったようだ。アストール侯爵家といえば、いろいろと黒い噂が絶えない家。商人としても、あの家とはあまり関わりたくはない。


「もううちには……それしか方法がないのです」

「それしか、ですか」


 たしかに邸の中はがらんとしていて、生活に必要な最低限の物しか残っていない。恐らく金になる物はすべて売ってしまったのだろう。子爵のボロボロな身なりからしても、それは十分に分かる。


「子爵、あなたの因果にエルダを巻き込まないでいただきたい」

「君には関係のないことだろう!?」


 急に顔を上げて、僕に詰め寄るように言った。言葉とは裏腹にその悲痛な表情から、望んでの選択ではないことが伝わってくる。


「たしかに僕は無関係です。だから今日は、その関係を作るためにここまでやってきました。ひと足遅かったようですが」

「……関係を、つくる?」


 どういうことかと首を傾げた子爵に向かって、僕は己の決意を口にする。


「ええ。マグリード家の借金ごと、エルダを僕に売ってください」


 子爵はぽかんと口を開けたままこちらを見る。たっぷり数十秒は見つめ合って、やっと言葉を発した。


「…………なにを、言って」

「彼女は僕の優秀な秘書なのです。いなくなられては困る」

「秘書? では、バローナ商会がうちの借金を肩代わりしてくれると?」

「ご冗談を。商会が一個人の借金を肩代わりするはずがないでしょう。これは僕個人との取引です」


 今度は大きく目を見開いて、またしても子爵は沈黙する。このままではいつまで経っても先に進まないと思い、勝手に話を進めることにした。今は時間が惜しい。


「今日はバローナ商会としてではなく、クリス・ハーラントとしてエルダを買いに来たのです。アストール家に売るのであれば、僕でも変わらないでしょう?」

「で、ですが……うちの借金は、君のような青年が払えるような額では……」

「それは承知しています。確かに、僕がいま個人で所有している財産だけでは難しい」


 商会の金庫を開ければ、マグリード家の借金を返済することは難しくはない。だが僕個人の事情に、商会の金を使うわけにはいかなかった。

 会長である父に事情は話してあるが、欲しいものは自分で手に入れろと言われている。当たり前だ。父もそうやって母を手に入れたのだ。


 母は異国の踊り子だった。人並外れた美貌に、この国では珍しい銀色の髪。たまたま訪れた異国の地で出会った母に、父が惚れ込んだらしい。母を手に入れるために父は死に物狂いでお金を稼ぎ、所属していた劇団ごと買い上げてしまったのだ。

 今では仲睦まじい夫婦だが、当時は父の横暴に相当腹を立てていたと、母から昔話を聞いたことがある。


 だから僕も、欲しいものは自分の力で手に入れなければならない。


「マグリード子爵、あなたが生きていくだけで精いっぱいの生活を送っているなか、この領内で何が行われているか知っていますか?」

「何が、行われているか……?」

「ええ。あなたが失敗した事業の跡地、いまそこであるものが製造されています」


 これは僕が独自に調べた事実。ある出来事をきっかけに、やっとここまで辿りついた。


「近ごろ王都で問題になっている禁止薬物をご存じですか? その薬物を酒に混ぜた商品が、秘密裏に取引されています。商品の製造場所は、このマグリード領です」

「どっどういうことですか!?」


 腰を宙に浮かせ、食い気味に叫んだ子爵に対して、この一か月間で調べ上げた真実を説明した。


 ここ数年、王都ではとある薬物が密かに取引きされている。それは口から摂取するだけで身体が鉛のように重くなり、指先ひとつ動かせなくなるというもの。だが意識ははっきりと残るため、隣国では拷問に使われているらしい。


 あまりに非人道的な用途に適しているため、この国では使用禁止になったものだ。商人をやっていると表に出てこないような情報も流れてくる。その薬物が主に貴族の間で横行しているらしいことは、数年前から耳にしていた。


 そして、薬物には一貫してある副作用が生じる。それが味覚の欠落だ。痛覚は残るのに味覚がなくなるとは不思議な話だが、実際自分の身体で試したのだから間違いはない。


 そう。あの夜、エルダと飲んだ赤い酒。ただのフルーツ酒だと思っていたあのお酒が、実は高額で取引されている薬物入りの密造酒だったのだ。


 気づいたのは、エルダの「あじがしない」という言葉。あれからしばらくして副作用のことを知り、まさかと思い棚に隠したままだった酒をもう一度飲んでみた。結果、味覚の欠如と、あの夜と同じ身体のだるさに襲われた。

 どうやら僕たちが飲んだ酒には薄めた薬物が混ぜられているらしく、効き目や副作用には個人差があるようだ。


 あれをどこで手に入れたのかジネットさんに聞いてみると、ワイン好きで有名なとある貴族からいただいたとのことだった。故意に渡したのか、間違えて贈ってしまったのかは分からないが、恐らくは後者だろう。大量に所有しているため、使用人が間違えて渡したのだと思われる。


 そうしてその貴族から情報を辿り、酒の製造場所と顧客情報を突き止めた。顧客の中には有名な大貴族もおり、大変有益な情報を手に入れられたのだ。


 ここまで調べ上げるのは、もちろん僕ひとりでは無理だった。いくら王都で幅を利かせているバローナ商会の副会長とはいえ、僕はただの学生だ。実はこの薬物について情報をくれた人物がいる。その方に協力していただいたのだ。


「第一王子殿下が、関わっていると?」

「ええ。殿下の婚約者であるご令嬢のお父上が、一年近く前に馬車による事故で亡くなられています。その時に事故に見せかけて、この薬物が使用されたのではないかと推測されていました」


 スイーツ店で会った際、帰り際にふたりで話がしたいとライベル殿下に耳打ちされた。商人は様々な裏の情報を耳にするため、薬物について知っていることがないか聞きたかったようだ。


 そして後日殿下とお会いした際に副作用のことを知り、今に至る。まさか自分が現物を持っているとは思っていなかったが、これもすべて神の導きだろうか。おかげで彼女を救うことができる。


「今後マグリード領には、王都警察と騎士団の捜査が入ります。密造酒の製造や取引に関わっていた貴族は、さぞ肝を冷やすことになるでしょうね。この顧客名簿だけでも、相当な価値があると思いませんか?」


 懐から数枚の紙を取り出し、中身が見えないように子爵の前に示した。


「まさか、それを元手に……?」

「ええ。情報というものは一番の価値がありますからね」


 顧客情報だけではない。製造元を押さえられれば、原料の輸入先や製造方法も知ることができる。わが国ではこの薬物についての知識が殆どないため、結果次第では莫大な情報料になるのだ。


「顧客名簿については僕の方で自由に扱っていいと、ライベル殿下から許可をいただいています。本当はここに記載されている全ての貴族を取り締まりたいようですが、実際に使用している証拠があるわけではないのでそれは難しいようですね」

「なるほど……」


 子爵は深く頷いて、納得した様子だった。ひと通りの説明を終えたので、やっと本題に入ることにする。


「お金の工面については僕の方でどうにかしますので、先ほどの話、考えてみてはもらえませんか?」

「あなたが借金ごと娘を買ってくださると言うなら、反対する理由はありません。……ですが、アストール家とはすでに話がついてしまっています。今さら取りやめにすることは……できないのです」


 子爵の言葉を聞いても、僕には驚きも絶望もない。きっとこのために、神はすべて仕組んでくれたのだ。


「ご心配なく。この名簿には大貴族も名を連ねていると言いましたよね?」

「――まさか!?」


 驚きの表情を浮かべる子爵に、僕は満面の笑みで返した。


「それでは、アストール家との交渉と参りましょうか」



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