10 二度目の恋を始めましょう
「ジネットさん、今までありがとうございました」
深くお辞儀をして顔を上げると、心配そうに私を見つめるジネットさんと目が合う。
「エルダ……」
「そんな顔しないでください。これからは働かなくてもご飯が食べられそうなので、結構楽しみにしているんです」
無理やり作った笑顔を顔に貼り付けた。
私はこれからアストール侯爵家に嫁ぐ。持参金も何も不要とのことで、鞄には少ない私物を詰め込んだ。クリスさんにいただいた服は置いていく。まだ袖を通していないものも多いので、売ってもらえれば多少のお金は戻ってくるだろう。
ただ、贈っていただいた黒いチョーカーだけは持っていくことにした。彼の瞳と同じ色の石は、見ているだけで元気が湧いてくる。これから何が待ち受けているか分からないけれど、これがあれば乗り越えられると思った。
白いワンピースに、深い青色の宝石がついたチョーカー。この格好ならば、貴族の娘には見えるだろう。アストール家へ出向くのに、最低限の恥ずかしくない格好だ。
あいにく今日も朝から雨が降っているため、髪の毛が必要以上にくるくるしていることが気がかりだが。
「副会長はなにをやっているのかしら……」
ぼそぼそと呟くように言ったジネットさんの言葉に、首を傾げる。
「副会長がどうかしましたか?」
「いえ、本当に副会長に挨拶しなくてよかったの?」
「……はい、会ったら別れがつらくなるので」
クリスさんはまだ王都に戻ってきていない。一度も顔を合わせることなくバローナ商会を去ることになるが、これでよかったんだと思う。きっと顔を見たら、泣いてしまうから。
「挨拶できない代わりに、会長に手紙を預けておきました」
手紙には謝罪の言葉と、感謝の言葉と、……それから、私の気持ちを綴った。あなたが好きでしたと。きっともう、二度と会えないから。
「そろそろ行きますね。馬車を待たせているので」
「……ええ、元気でね」
雨の中、駆け足で馬車に乗り込む。アストール家の紋章がついた馬車は、今まで乗ったことがないほど豪奢だった。さすが私を借金ごと買っただけはある。
今から向かうのは、王都郊外にあるアストール家のお邸だ。同じ王都内といえど馬車で1時間ほどかかるため、迎えにきてくれたのはありがたい。
一度実家に帰って別れの挨拶をするか迷ったのだが、結局やめた。どんな顔で会えばいいのか分からなかったし、きっと未練も残る。無駄な旅費もかかってしまうし、会わないのが一番いい。
少しだけ窓をあけて、外の景色に目をやる。空からは薄日が差しているというのに雨は降り続いており、日に透けた雨粒はきらきらと銀色に輝いて、まるで彼の髪色を思わせた。
「会いたかったな……」
最後にひと目だけでも――、それは紛れもない本音。
クリスさんが王都を離れてから、まだ3週間も経っていない。まだしばらくは戻って来ないだろう。
「……さようなら」
別れの言葉は雨音にかき消され、誰にも届くことはなかった。
◆◇◆
1時間ほど馬車に揺られ、景色を眺めるのも飽きてきたころ目的地に到着した。
さすが由緒正しきアストール侯爵家のお邸だ。敷地内に入ってから建物に着くまで、まだしばらく馬車に乗ることになるとは思わなかった。この庭の広さには驚かされる。
「これは逃げられないはずだわ」
このお邸自体が、ちょっとした森の中に建っている。どうしてこんな王都の中心地から外れたところにあるのかと思っていたが、広い庭園に、その周りに広がる木立。庭には数匹の猟犬が走っているのが見え、あれを掻い潜って敷地の外に逃げるのは難しいだろう。
逃げる気など最初からなかったが、目の当たりにしてしまうと余計に恐怖心が湧いてくる。だんだんと近づいてきたお邸の入口に、心臓がどくどくと嫌な鼓動を刻み始めた。
馬車が止まり降ろされると、今度は執事のような格好をした中年の男性に出迎えられる。恐怖に震えだしそうな足を叱咤して、その人の後について邸の中を歩いた。
特に会話もなく、ひとつの扉の前に案内される。きっとこの先に、これから私の夫となるアルトール侯爵家の次男、ユリウス様が待っている。
覚悟を決めて、扉に手をかけた。深呼吸をするように、大きく息を吸う。
そのまま吐き出すのと同時に、扉を押し開いた。
一歩室内に足を踏み入れ、深々とお辞儀をする。
「マグリード家の長女、エルダと申します。この度は――」
顔を上げた私の目に飛び込んできたのは、予想していない人物だった。
「……ふく、かい、ちょう?」
馬車の中で想いを馳せていた銀色の髪が目の前にある。深い深い海色の瞳が、普段よりも冷たい色を宿して私を見ていた。
「なん、で――……お父様?」
よく見ると、室内には見知った顔がもうひとつあった。
部屋の中央に置かれた低めのテーブルを囲うように、ソファが四方に設置されており、向かって右側の座席にはクリスさん、左側には肩身が狭そうに俯いた実の父が腰掛けている。
何がなんだか分からず混乱する頭で一生懸命考えていると、一番奥の正面の座席に座っている人物が口を開いた。
「とりあえず、座ってもらったらどうかな?」
混じり気のない深紅の髪をした人物が、その場の空気を断ち切るように柔らかく言葉を紡いだ。それに続くように、クリスさんが口を開く。
「エルダ、こちらに」
従ってもいいものかという考えが頭をよぎったが、身体は自然と望む方へ歩き出していた。クリスさんの隣に座ると唐突に腰を抱き寄せられ、ぴたりと密着する形で固定される。
「あ、あの――」
距離をとろうと身じろぎする私の耳元で、彼が囁いた。
「今から何を耳にしても、黙って聞いていてください。返事をする必要があるときは、僕が頷いたものにだけはいと答えるように」
緊張感を孕んだ普段より低めの声に、黙って頷くことしかできない。
アストール家へ嫁ぐためにこの屋敷に来たというのに、案内された部屋には父とクリスさんがいた。いったい何がどうなっているのか今すぐ問いただしたいが、その気持ちはいったん胸の奥にしまうことにする。
「おやおや。バローナ商会の副会長殿は、随分とそちらのご令嬢に御執心のようだ」
緊迫した空気を、またもや柔らかい声が遮った。何か聞き捨てならない言葉を耳にした気がするが、意味を理解する前に深紅の髪を持つ人が続けて口を開く。
「それで、弟が迎え入れた花嫁を返してほしいと?」
……ん? 弟? 返す?
先ほどから情報量が多すぎて思考が追いついていない。この赤い髪の見慣れない人は、状況から考えて私が嫁ぐ予定のユリウス様ではないかと思っていたのだが――
「ああ、自己紹介が遅れたね。私はクライド。アストール家の長男で、ユリウスの兄だよ。弟はいま屋敷を離れているんだ。なにぶん急に決まった輿入れだからね、予定を合わせられなくて申し訳ない」
不思議そうに見つめていたのがばれてしまったようで、赤い髪の人物――クライド様は苦笑しながら説明してくれた。
弟のユリウス様は加虐嗜好をお持ちの残忍な性格をしていると聞いているが、この方からは真逆の印象を受ける。
優しそうな方だな、と呑気に考えていた私だったが、次にクリスさんが放った言葉に目を丸くすることになった。
「クライド様。先ほど申し上げた通り、アストール家が買い上げた借金ごと、彼女……エルダを僕に譲っていただきたい」
ぶんっと音が鳴りそうなくらい勢いよく、隣に座る人の顔を見上げた。クライド様へ鋭い視線を向けるその横顔は、普段のクリスさんからは想像できない鋭利さが垣間見える。まるで研ぎたての美しい刃物のようだ。
再びぶんぶんと首を振り、一瞬見惚れてしまった自分を叱りつける。そんなことをしているうちに、二人の会話は次へと進んでいた。
「それは難しいと言っただろう? 弟もいい年齢なんだ。そろそろ遊びはやめて、落ち着いてもらいたくてね」
ユリウス様は、今年で22歳になると聞く。いずれ親戚の爵位を継ぐ予定だと伺っているから、そろそろ相手を決めておきたいのかもしれない。
「……ご納得いただけないようでしたら、こちらも少々乱暴な手段を取らざるを得ません」
「ほう?」
クリスさんは床に置いていた鞄の中から紙のようなものを取り出し、クライド様の前に並べる。これは……新聞の記事?
「こちらの記事は昨日とある邸宅で開かれていた、禁止薬物の乱用パーティーについて書かれたものです。開催中に警察が押し入り、数名の貴族やその関係者が逮捕されています」
記事を目にしたクライド様の顔から表情が消える。内容が気になり記事を覗き込んだ私は、同じように顔色を変えることなった。逮捕された貴族の中に、見知った名前を見つけてしまったのだ。
「エリック……ベンター」
思わず、声が漏れ出た。衝撃の大きさに、無意識に隣に座る人の服を握りしめる。
エリックが……薬物の使用で逮捕された? うそ、いつの間にそんな悪事に手を染めていたの……?
疎遠になっていたこの一年間でエリックに何があったのか、今の私に知るすべはない。嫌な汗が背中を流れていき、さらに強く服を握りしめると、温かい手のひらが私の手をそっと包み込む。
クリスさんは視線をクライド様に向けたままだったが、手から伝わる彼の気遣いに、少しだけ気分が楽になる。
「何が言いたいのかな?」
「どうということはありません。今後ライベル殿下主導のもと、禁止薬物の不正使用について、取り締まりの強化をする手筈になっています。……このことについて、お伝えしておいた方がよろしいかと思いまして」
ふたつの視線が交差する。どちらの視線も鋭さを増していき、キンッという刃物がこすれ合うような音が聞こえてきそうだった。
しばらく沈黙が続いたあと、ふっとクライド様が口元を緩める。そのまま何故か私を見て口を開いた。
「ところで、エルダさんは副会長殿のことが好きなのかな?」
「え!?」
話をふられたことにも驚いたが、質問の内容も唐突すぎて、ついはしたない声が飛び出てしまう。慌てて口元を手で押さえながら、そろりと隣を見上げた。
先ほどのクリスさんの言葉を思い浮かべる。
『返事をする必要があるときは、僕が頷いたものにだけはいと答えるように』
ここは彼の指示に従うべきなのか迷い、助けを求めようとしたのだが、クリスさんはそっぽを向いてしまった。
え? これは……その、いいえと答えろってこと?
でもそれは、自分の気持ちに嘘をつくことになる。もし彼の意思に反することだったとしても、この質問にだけは嘘をつきたくない。
だから、私は――
「好きです。心から、クリスさんが」
まっすぐクライド様を見て言った。繋がれたままの手が、小さく跳ねた気がした。
「そうかそうか、どうやら弟はお邪魔虫だったみたいだね。そういうことなら、エルダさんは君に譲ることにするよ」
この部屋に来た時と同じような柔和な表情で、クライド様は言う。室内に満ちていた緊張感がほどけていくのを感じた。
「金の受け渡しについては、君たちの方で勝手にやってもらえるかな。こちらは引き渡しが終わり次第、支払う予定だったから」
そう言って私たちの反対側を向いたので、今さらこの場に父もいたことを思い出す。完全に空気と化していて、すっかり忘れていた。
「承知しました。ご理解いただけたようで感謝いたします」
こくこくと黙って頷く父に代わって、クリスさんが返事をする。こちらもにこにことした笑顔を顔に貼り付けていた。
そうして簡単な別れの挨拶を済ませてアストール邸をあとにする。使用人に連れられて邸の外に出た瞬間、私は前を歩くクリスさんに詰め寄った。
「どういうことですか!?」
「アストール家には禁止薬物を取引した疑いがあったので、少々脅しをかけてみました。うまくいってよかった」
「そうじゃなくて!」
クライド様があっさりと引き下がった理由は分かった。だが、聞きたいのはそこではない。
「私を買うって……バローナ商会が借金を肩代わりするってことですか!? どうして――」
「違いますよ。バローナ商会ではなく、僕があなたを買うのです」
「え……?」
夜の海と同じ色をした瞳に捕らえられる。その深くて神秘的な青から目が離せない。金縛りにあってしまったかのように動けなくなった私の頬に、長い指先が触れた。
「分かりませんか? あなたが好きだから、エルダが欲しいから買ったのです」
「す、……き?」
言葉の意味を理解するのに、数十秒かかった。だって、クリスさんはノアン様を――
「ふふ。こんなに可愛い顔をするなら、もっと早く伝えておくべきだったな。前の恋はとっくに終わっています。だから、大人しく僕のものになってください」
「ふっ副会長、ちょっとまっ――」
いったん離れようと後ろに下がったが、すぐに距離を詰められ、今度はがっちりと背中に腕を回される。そのままきれいな顔が近づいてきて、紺色の瞳が細められた。
「クリスです」
「え?」
「クリス、と呼んでください」
「く、りす……?」
名前を呼ぶと、嬉しそうに口元を綻ばせる。
心臓がどくどくとうるさい。気になっていることはたくさんあるのに、うまく考えられない。
分かっていることはただひとつ。私は、この人のものになったということ。
「どうして事情を話してくれなかったんですか?」
「話したら、あなたは僕を止めていたでしょう?」
確かに私を買うための準備をしているなんて聞いていたら、最初から阻止していただろう。否定できずに言葉に詰まっていると、彼はふわりと笑って尋ねる。
「エルダ、僕と二度目の恋をしてくれませんか?」
その質問には、彼の首の後ろに腕を伸ばし、抱き着くことで答えた。
いつの間にか雨は上がり、空には七色の橋が架かっていた。雨に溶かした恋は空に昇って、神様が拾ってくれたのかもしれない。
きっとあの虹が、これからの私たちの未来を繋いでくれるだろう。
最後までご覧くださり、ありがとうございます!
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幽霊殿下から派生したこちらの作品ですが、次回はアストール家のお家事情を中心にした新作に続く予定です。




