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84/86

84:あっと言う間に

 今日は帰りがすっかり遅くなってしまった。

 岩淵が抜けた穴は意外に大きい。


 あの人は自殺なんかじゃない。

 その思いは強く郁美の中で生きている。


 きっと和泉が真実を明かしてくれるだろう。


 それにしても。今日もあれこれ、いろいろあった。

 郁美はすっかり疲れて職場を後にした。ふとスマホを確認すると、上村からREINが入っていた。

 聖があんなことを言うから、すっかり意識してしまい、思わず頬が赤くなる。


《これからお会いできませんか?》


 確か彼は今、任務解除時間である。

 皐月のことでいろいろと思うところがあるに違いない。


《OK。どこにする?》

《姉がよく利用していた、キッチンヒロという店で》


 郁美は一瞬だけ驚いたが、彼には深い考え方があるにちがいない。

 短い時間ではあったが、あの子は頭が良く、軽率ではないと知っている。

 了解、と返信しておいて店に向かった。


 居酒屋ではなく飲食店として営業しているその店は、夜の時間帯は静かな音楽が流れ、幾らかの家族連れやカップルがゆったりと食事を楽しんでいる。

 上村はカウンター席の一番奥に1人で座っていた。


「お待たせ」

 郁美が声をかけると彼は微笑んでくれる。

 しかしすぐに真面目な顔になると、

「さっきマスターに訊いてみました。姉から何か預かっていないか、と」

 どきっ。

「それって……」

「15年前の事件に関する証拠か、もしくは現在の……」

 言いかけて彼は声を潜めた。


「そ、それで?」


 上村はポケットから大事そうに何かを取りだした。

 SDカードだ。

「まだ中身は確認していませんが、恐らくとても大切な情報が保管されていると思います」


 やはり皐月は【保険】をかけていた。

 郁美は彼女の先見の明というよりも、もしかしたら死を覚悟していたのではないか、というその思いに慄然とした。

 しかしこうも簡単に見つかるなんて。


「さっそく中身を見てみましょうよ」

「……」

「柚季?」


 すると彼は意外なことを言い出した。

「今までありがとうございました。ここからは僕一人で、何とかします」


「な、なんとかって何よ?! どうするつもり?!」

 郁美は思わず腰を浮かせて、上村の肩をつかんでいた。


「恐らくですが、郁美さんの身に危険が及ぶ可能性が考えられます。姉然り、そして……今日、聞きました。あなたの周りで、姉が調べていた事件にまつわる事実を知っているであろう方が亡くなったということも」

 岩淵のことか。

「そ、それは……」


「僕は今、正直言って自分の身を守ることだけで精いっぱいです。恐らくこのSDカードはとてつもなく危険なものです。郁美さんに何かあってからでは遅いのです」


 正直言って郁美自身、皐月はもう生きていないとどこかで考えていた。

 でも。

「今さら、何を言ってるのよ。私達、協力する間柄なんじゃないの? だいたいね、私のことなんだと思ってるのよ。こう見えても警察官の1人なのよ!! 一通りの武術は習ってきたし、逮捕術だって今もちゃんと覚えてるんだから。あんたみたいな細い子より、よほど頼りになるわよ!!」


 マズイことを言ったかな、と郁美は少し後悔した。

 体型を話題にするのは失敗だったかもしれない。

 しかし。

「私ね、柚季。もうここまで来たら運命だと思うのよ」


 上村は意外そうな顔をする。

「運命……?」

「私達は出会うべくして出会った。皐月が引き合わせてくれたのかもしれない。だから、1つの目的に向かって最後まで協力する。今さら私にだけ手を引けなんて、そんなのってないわ……」


 彼は迷っているようだ。

「……でも」

「私が監察室に呼ばれたのも、なんて言うのか裏で誰かが糸を引いているような気がするのよ。そいつの目論見通りに動くのはしゃくに触るけど、でも不思議と悪意は感じないの。きっとその人、私達がピンチに陥ったら助けに来てくれる」

 話しながら郁美の頭に浮かんでいた顔はただ1人。

 あの感情の読めない監察室長だった。


 郁美は上村の手をとって両手で握る。

「この手は絶対に離さないから」


 ※※※※※※※※※


 天然かそれとも……。

 故意だとすれば罪深いし、そうでなくても罪深いと思う。


 初めは姉と見間違えたぐらいよく似た、でも別人。

 中身はまったく異なる。


 はきはきしゃべるし、決断も行動も早い。それでいてちょっとデリケートなところもある。

 コロコロ変わる表情が見ていて飽きない。


 上村は握られた手をどうしていいのか、しばらく戸惑っていた。

 そうして頭の中ではただ1つ浮かぶ疑問がグルグル回っている。


 もし姉のことが解決したら、彼女と一緒に行動する、こんなふうに会う理由はなくなってしまうのだろうか。


 それまでは別に1人でいいと思っていた。

 誰かが一緒にいるとジャマなだけ、面倒なだけ。

 でもそれはたぶん間違いだ。


「そうでした。僕は、あなたを守ると誓いました。だから……」



 ※※※


 とにかく中身を確認しないことには。

 ここから最寄りの、パソコンが使える場所と言えば……県警本部だろうか。

 本部に知り合いがいれば、と思い巡らして最適な人物のことを思い出した。


 上村はスマホを取りだし、警察学校時代の担当教官へ電話をかけた。今、彼が本部にいてくれたらいいのだが。


『あら、なぁに? めずらしいじゃない』

「お久しぶりです。恐れ入りますが、今、どちらへ……?」

『今? 本部にいるわよ。何か相談事?』

「これから伺ってもいいですか?」


 一瞬の間を置いてから了承の返事をもらえた。


 郁美と落ち合った店から本部までは歩いて5分ほどだ。

 捜査1課のプレートがかかった部屋の前に立つと、思いがけず内側から扉が開いた。

「久しぶりね」


 上村が勤務する新天地北口交番の管内にはいくらか、女装した男性が働くバーがある。立番をしているそこの従業員であろう男性達が時折、何かにつけ絡んでくるのだが、彼らを見ていて気づいたことがある。

 北条雪村と言う担当教官はしゃべり方がおかしいだけで、決してオカマではないのだということ。

 むしろその辺にいる若い男よりもずっと男らしいと思う。


 こんなふうになりたいかと言えばそう言う訳でもないけれど。


「どうしたの? あら……」

 彼は上村の後ろに立っていた郁美を見て、なぜか嬉しそうに笑う。「なぁに、まさか婚約しましたとかいう報告にきたの?」

「……違います」

 北条が自分にだけ聞こえる小さな声でそう言ったため、彼女には聞こえなかったようだ。

「少しだけ、パソコンをお借りできないかと」


「それは構わないけど、何かヤバい物でも拾ったの?」

 そんなところです、と答えて上村はSDカードを挿しこんだ。


 モニターにあらわれたのはどこかの体育館もしくは警察学校の道場のような場所。

 これは恐らくどこかの武道場で柔道および剣道、逮捕術の大会が行われているようだった。


 カメラは中央で向き合う剣士たちを映し出している。


「……なんだこれは?」

 呟いた上村の隣で、

「貸して」

 郁美がマウスに手を置き、画面をズームする。

 彼女は慣れた様子で画像の角度を変えたり、拡大したり縮小したりして、じっくりと注視している。

 そう言えば以前、鑑識にいたと言っていたことを思い出す。


 それから画面にはしばらく竹刀をぶつけ合う2人の姿が大きく映った。

 何のために姉はこんなものを残したのだろう?


「……今のっ!!」

 郁美が声をあげる。

「何があったんですか?」

 それには答えず、彼女は操作を続けて画面を一時停止させる。

「見て、これ……」


 彼女が指さしているのは画面の端、ギャラリーにまぎれている制服警官2人であった。

 どちらにも見覚えがある。

 1人は現北署長、武山警視正だ。


 そしてもう1人。額を付き合わせるようにしてヒソヒソ話をしている相手は……。



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