78:やけっぱち
警電が着信音を鳴らしている。
電話が鳴ったら新人がいの一番に取るべき。
上村は書きかけの書類を置いて、受話器を取った。
「新天地北口交番です」
『あ、柚季? 私……郁美だけど』
どうしたのだろう? いつもはスマホの方に電話するか、REINにメッセージを送ってくるのに。
『今から北署のB会議室に来られない?』
上村は時計を見た。予定ならこの後、巡回連絡に出るはずだが。
「それは……公務ですか? それとも」
すると受話器の向こうで、複数の人の声が聞こえた。
『監察官があなたを呼んでるのよ』
「……」
『別に何か叱ろうって言うのじゃないの。これはただの、私の勘だけどね。お父さんと皐月の件に関係した何かについて……もしかして聖警部が何か話してくれるかもしれない』
彼女はつまらない嘘や冗談を言う人ではない。
きっと真実だ。
「すぐに行きます」
それから上村は交番長の元へ急いだ。
先日のこと以来、少しばかりよそよそしい様子を見せるようになった彼だが、これから少しの時間、この場を抜けて本部へ行くことを許してくれた。
指定された会議室。少なからず胸のざわめきを感じつつ、上村はドアをノックする。
すると内側から扉が開いた。郁美が心配そうな顔で立っている。
中にいたのは聖という監察官、そしてもう1人。
「なぜ、あなたが……?」
思わず上村は疑問を口に出してしまった。
和泉と言う捜査1課の刑事。
「どうぞ座ってください」
聖に声をかけられ我に帰る。
「君の生みのお父さん……広瀬啓輔氏の死にまつわる事件のすべてを、今からお話ししたいと思います」
それはいい。
なぜ、捜査1課の刑事がここにいる?
だが上村の疑問に誰も答えてはくれなかった。
※※※
今から15年前、と監察官は話し出す。
上村柚季が4歳の時だ。
「君のお父さん、広瀬啓輔はとても優秀な警察官でした。当時、私ともう1人……Hとしておきましょう。我々3人は同じ北新地北口交番に勤務していました。広瀬はその頃、誰よりも早く昇進試験に合格し、巡査部長となって専務に入る予定でした。警備部へ……そう、彼はエリートだったのです」
その話なら何度か聞いている。
上村は黙って頷く。
「ですが、そのことを妬んだ人間がいた。それがHです」
「Hとは……?」
姉の日記にも書いてあった。【H】が恐ろしい、と。
彼女はそのHの正体をつかんでいたに違いない。
「今はまだ、推測の域を過ぎません。ですからこのままHで話を進めさせてください」
推測とは、誰を疑っているのだろう?
気になったが、今はまだ教えてもらえないだろう。
「そこでHは広瀬……彼を貶めようと、ある画策をしました。狂言強盗です」
「……狂言?」
その場にいる全員がそれぞれに何か考えているようだ。
「ある夜。本通り商店街の宝石店に強盗が入り、私と広瀬、そしてHの3人が通報を受け、臨場しました。強盗達はいずれも凶器を所持しており、我々に襲いかかってきました。そして広瀬は賊の1人……それは渡邊義男ですが……その男に刺されてしまいました」
「渡邊?!」
和泉が驚き、声をあげる。
「それは間違いないのですか?」
監察官はうなずく。
「間違いありません。15年前のことではありますが、あの夜のことは今でも鮮明に覚えています。犯人グループは全員、目出し帽を被ってはいましたが、1人だけ特徴のある人間がいました。目尻に三日月のような傷跡があったからです。私はニュースで渡邊の顔を見た瞬間に、そのことを思い出したのです」
「……渡邊はこの県警のとある職員とつながりがあった。それが……Hなんですね? あれ?」
和泉は首を傾げる。
「聖さん、Hって……Oではないんですか?」
「……男の名字が変わることもありますよ」
「そ、それはつまり、婿養子に入ったということ……?」
そうです、と聖は答える。
「橋場……」
ぽつりと郁美が呟く。
「そうだわ、あの資料に橋場っていう名前があった……」
それだ。
「つまり橋場という男が僕にとって、父にとっての本当の仇ということですね?」
柚季、と郁美がそっと腕に触れてくる。
こみ上げてくるものがあった。
しかし今は、ハッキリさせなければならない事実を追うことが先だ。
上村よりも先に和泉が口を開く。
「ところで聖さんはどうやって、橋場と言う男が広瀬さんを陥れようと考えていたと知ったのですか?」
「……教えてくれた人がいました」
「教えてくれた人?」
「その人は橋場本人がそう言っていたことを、聴取したのです」
誰が、どうやって?
そんなことはこの際おいておこう。
「どことなくそんな兆候があることは知っていました。強い名誉欲、承認欲求、他人を蹴落としてまでものし上がりたい、そんな男でしたから」
ですから、と彼は続ける。「彼女からその話を聞いた時、やはりかと思いました」
「……彼女?」
「橋場はその後、広瀬が異動する予定だった部署へこそうつることはできませんでしたが、やがて生活安全課に異動しました」
「生安……」
「生安で目覚ましい活躍を見せた橋場は、やがて北署の地域課へとうつります。そこで次期副署長の座を得ることに成功した」
それは。
その該当者は。
「君のお姉さん、上村皐月さんはずっと……橋場を追いかけていました。広瀬を殺したのは事実上、橋場だという決定的な証拠をつかむためです」
やはりそうだった。
姉は自分のために警察へ入ったのだ。
父の死の真相を探るために。
しかし。
「その話が真実だという証拠は? Hがあなたではなく、橋場という男だという確たる証拠です」
何言ってるの、と言う顔で郁美がこちらを見る。
「あなたは父を、広瀬啓輔を妬んだり恨んだりしていなかったと、そう言い切れるのですか?」
白い手が袖を引っ張る。
彼女は聖という警部を信頼しているらしい。
「そうですね……少しはそう言う気持ちも、あったと思います」
肯定するとは思わなかった。
上村は驚いて彼を見つめた。
「あの時、本当なら彼を助けることができたかもしれない。けれどそうしなかったのは、自分の中に存在している醜い心のせい、そう言えるかもしれません。上村皐月さんにも同じことを言われましたよ」
「姉が……?」
彼と姉が言い争う場面を見た、という話を聞いたことがある。
それは事実だったようだ。
「あの時、我々は拳銃を所持していました。もし私が勇気を出して銃を抜き、発砲していれば……あるいは広瀬は助かったかもしれません」
私は銃を抜くことに躊躇したのです、と聖は言う。
「そうしたら、広瀬氏は助かったかもしれませんが、代わりにあなたの警察官人生は終わったことでしょう」
と、応えたのは和泉だ。「さらにもし助かったとしても、敵の誰かが傷つき、あるいは命を落としたとしたら。あなたも広瀬氏も、生涯に渡って重荷を背負うことになったと思います」
「和泉さん……」
上村は苛立ちを覚えた。
なぜ、その男をかばうような発言をするのか。
「和泉さんの言うとおりよ」と、今度は郁美だ。「室長を恨んだり、責めたりするのは筋の通らないことだわ」
「郁美さん……」
上村の中で、かつて感じたことのない気持ちが生まれた。
「この人が必ずしも真実だけを話していると、どうして言い切れるんですか?! すべてを【橋場】という男のせいにして、虚偽を語っていないと証明できるんですか!!」
驚いた顔。
そして、初めて見た、郁美の泣き出しそうな表情。
「君は誰から、私のことを聞いたのですか?」
「……え?」
「君のお父さん、そしてお姉さん。二人の事件に私が関わっていると。いえむしろ、私が裏で糸を引いている、そう話してくれたのは……誰ですか?」
それは。




