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76:異常事態

 コーポ西白鳥と看板のかかった2階建ての小さなアパート。通報のあった201号室の前では、中年の男女がヒソヒソと話し合っている。


「あ、お巡りさん。こっちです」

 恐らく大家さんだろう。

「恐れ入りますが、通報してくださったのは?」

 私です、と中年男性が挙手する。


 こちらが何か問いかける前に、恰幅の良い中年女性が話し出す。

「実は私、201号室の岩淵さんとは親しくしてましてね」

 部屋の主は【岩淵さん】というのか。周はメモを取っておいた。


「つい昨日まで私、旅行に行ってましてね。仕事に行く前にお土産を渡そうと思って訪ねたんですよ。ああ、私は103号室の住人ですが……名前は加藤です……いつもは岩淵さん、チャイムを押すとすぐに出てくださるんですけど、今朝は何度押しても反応がなくて変だなあって思ってたんですよね。今日は確か仕事の日だから、寝坊してるかと思ってたんですけど……試しにドアノブを回してみたら、鍵がかかっていたんです」

 鍵がかかっていた。メモを取る。


「それでいったん、自分の部屋に戻ろうかと思ったんですけど、その時に臭いに気づいたんですよね。なんか変だなって。それで大家さんに来てもらって……」

「ワシが通報したんですわ」


「中をご覧になりましたか?」

「いやぁ、恐ろしいけぇ……まだ中は見とらんです」

「鍵をお借りできますか?」

 桜井は大家の男性から鍵を借り、鍵穴に挿しこむ。確かに異臭が漂ってくる。


 ドアを開けるとそれが顕著になった。

 失礼します、と靴を脱いで中に踏み込む。玄関脇が洗濯機置き場になっていて、細い廊下が奥へとつながっている。そしてもう一枚の扉。


 桜井がそのドアを開けると、眼も開けていられないほどの強い臭気が。


「……周。署に、刑事課に無線連絡。至急臨場しろって。これは……変死体だ」

 袖口で口と鼻を庇いつつ命じる先輩警官に頷き、周は無線機を通して北署の刑事課に連絡を入れた。


 それから改めて部屋の主を見る。


 遺体は床の上にうつ伏せで倒れていた。年齢は4、50代ぐらいだろうか。

 全体的に細い体つき。身長は160センチぐらいだろう。


 助けを求めようとして力尽きたのか、左手5本の指すべてが鍵型になっている。その身体の向きは玄関に向いているように思えた。


「お巡りさん、どうでしたかいねぇ……?」

 玄関の外で大家の男性と下の階の女性が心配そうに、こちらを覗き込んでくる。

「中に入っちゃダメです。そのまま、じっとしていてください」


 野次馬が集まる前に、と2階の階段とアパートの付近に規制線を張って、刑事達の到着を待つ。


 生の遺体を見たのはこれで2回目だ。

 なんていうのか、俺って【何か】あるのかな……と、周は思った。


 遺体そのものはともかくとして、臭いのせいで少し気分が悪い。そこへ。

「……ったくよぉ、次から次へと勘弁しろってんだよな。いくら人手があっても足りないだろうがよ」

 ブツブツ言いながら、出動服を着た眼つきの悪い中年男性がやってきた。

 見たことがある顔だ。何日か前の休みの日、北署にある捜査本部の雑用をしていた時、出入りしていた人だから、北署の刑事だろう。


「お疲れ様です」

 周が頭を下げて黄色いテープを持ち上げると、その刑事は一瞥くれただけでさっさと中に入って行く。やってきたのは刑事が3人と、白衣を着ているのは恐らく検視官。


 中から刑事達の話し声が聞こえる。

 パトカーが停まってるのと、いつになくザワザワしているのを聞きつけてきたのだろうか、段々と野次馬が集まり始めた。


 周と桜井は彼らが規制線の中に入らないよう、必死で彼らを牽制する。


 そして何分後ぐらいのことだろか。

 ブルーシートで目隠しをしつつ、銀色のシートにくるまれた遺体が外へと運び出されて行く。


「……ま、これ以上帳場が立たれても困るだろうし、不幸中の幸いってか」

「おいおい、不謹慎だぞ」

 そんな会話が後ろから聞こえてきた。


「おぅ。お前ら、朝からご苦労だったな。もうハコへ帰っていいぞ」

 中年の刑事がニコヤカに告げる。


「事件ですか? それとも……」

 つい周は質問してしまった。

 しかし幸いにも怒鳴られることなく、

「ま、特別に教えてやってもいいだろう。自殺だ、自殺。遺書が……っと、しゃべりすぎたな。ほんなら」


 臭いにビックリしたのと、遺体ばかりを見ていたから部屋全体を観察する余裕なんてなかった。だから今、遺書と聞いた時は驚いたが。

 孤独死にしろ自殺にしろ。

 誰にも看取られることなく、たった1人で亡くなってしまうなんて。

 周は悲しくなってしまった。

「帰るぞ」

 桜井に声をかけられ、周は顔を上げた。

「なんだ、そんな顔して」

「自殺……だったんですね」

「ああ。一番自殺が多いのは3月なんだが、一ヶ月弱早かったな」

 それが彼の冗談なのか、単純な感想なのかわからなかったが、周はとにかく交番に帰るため、自転車を止めた場所に向かおうとした。


その時、

「検視官も北署の刑事も、自殺だと断定したのですね?」

 不意に、背後から男性の声に問いかけられた。

「そうみた……」

 誰だ? 驚いて周がまわりを見回すと、気がついたらすぐ目の前に人が立っていた。


 一度会った記憶がある。確か、わざわざ交番まで出向いてきた人だ。

 そしてその後ろには背の高い女性。何かに怒っているような、厳しい顔でアパートの方角を睨んでいる。

 思い出した、確か監察官。


「はい。遺書があったって」

「遺書……どのようなものですか?」

 随分食い下がるな、と周は驚き戸惑った。

「すみません、遺書の内容までは見ていません」


 すると監察官の男性は我に帰ったように、

「失礼いたしました。ところで、あなたは遺体を見ましたか?」

「……はい」

「どう感じましたか?」


 なんでそんなこと? というか『どう感じたか』って、なんだ。


 周が声に出さずにいろいろと疑問符を頭の中で投げかけていると、

「直感で答えてください。自殺だと思いましたか?」


 根拠がなくてもいいんだ。

 ほっとして周は素直に答えた。

「自殺とは思えませんでした」


「……ありがとう」

 監察官はそう述べて遺体発見現場へと足を運ぶ。その後ろに控えていた背の高い女性も我に帰り、急ぎ足で追いかけていく。



 ※※※※※※※※※


 さっきの子。

 確か【ジュノンボーイ】だわ。


 郁美は聖の後ろを追いかけながら、制服姿の若い巡査に一瞥くれた。思わず目が合ってしまって慌てて逸らす。


 立ち入り禁止のテープをくぐって部屋の中に入る。


 すっかり慣れた異臭に、どこか懐かしささえ覚えてしまう。そして郁美は長年の習慣というか条件反射で、床の上に鼻先を近づけてしまった。


 もう鑑識員じゃないのに。恥ずかしくなって郁美は急いで身を起こしたが、ふと、遺体が発していたのとはまた別の匂いを嗅ぎとった。


「何か発見できましたか?」

 少しだけおかしそうに聖が訊ねてくる。顔を上げると彼も床の上に膝をつき、周囲を見回している。

「……ワインの香りが」

「ワイン……?」

「床にこぼしたみたいです。フローリングの色が濃いのでわかりづらいですが、赤ワインみたいですね」


「ソファにもシミがありますね、これもワインでしょうか?」

「きちんと調べてみないと断定はできませんが、色からするとその可能性が高いです」

「……ワインに毒物を入れて飲んだ。そんなところでしょうか」


 郁美は台所を見た。

 食器カゴに洗ったグラスはない。


 ソファの前にテーブルがあるが、そこに乗っていたのは倒れたワイングラスと、キューブ状のチーズが2、3個ほどだった。

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