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35:反省会

 基町南口交番を後にして、郁美達は真っ直ぐ県警本部に戻った。


 そう言えば上司はこれから会議の予定が入っていた。

 ロビーをくぐったところで聖と別れる。


 それから郁美が自席に戻ると、室長がいないのを見て、岩淵が嬉しそうに隣へ擦り寄ってくる。


「ねぇねぇ、八丁堀でさっき殺人事件があったんだって?!」

「えっ?!」

 それを聞いた郁美は思わず、鑑識道具一式をまとめたカバンを探して、郁美は部屋の中をキョロキョロしてしまう。


「……何やってんの?」

「カバン、道具箱……はっ!!」


 いわゆる条件反射だ。もう鑑識員ではないのに。

 岩淵はニヤニヤ笑っている。

 郁美は軽く咳払いし、椅子に腰かけた。


「ねぇ、あんたもしかして、犯人を見たりしなかった? 八丁堀の交番にいたんでしょ? テレビ来てた?」

「……何言ってるんですか。そもそも事件の話だって、今、初めて聞いたんですよ」

 アホらしい。郁美は席についてパソコンの電源を入れた。

 第一、誰が犯人かなんてこの段階でわかるものか。

 このオバさんは、もう少しよく考えてから発言した方がいいと思う。


 その時、郁美のスマホがREINの着信音を鳴らした。

 起動するまでの間はいいかな、と思って画面をスライドする。すると。

 思いがけない相手からだった。


 《郁美、久しぶり!! 急なんだけど、今日の昼一緒にランチできない?》


 本当に急だし、久しぶりだ。


 郁美が高校生だった頃、クラスメートで友人だった島野麻衣子(しまのまいこ)

 ほとんどの同級生が大阪や東京へ就職、もしくは進学のために県外へ出て行ってしまった中、地元に留まって就職したレア仲間である。


 彼女とは卒業後も時々連絡を取り合っていて、たまには会ってお茶を飲んだりしていたが、会うのは実に数年ぶりだ。


 《大丈夫だよ!! どこにする??》


 麻衣子は本通り商店街にあるイタリアンレストランを指定してきた。

 郁美はもちろんOKと返信し、昼休憩の時間を楽しみに待つことにした。


 仕事をしよう。そう思った時だった。

「平林郁美さん、いらっしゃいますか?」

 男の声。


 はい、と振り返ると、先ほど交番で見かけた濃い顔の制服警官だった。


「さっきは聖にジャマをされてしまって、連絡先を伺うことができなかったので……失礼だとは思ったのですが、ここまで押しかけてしまいました」

 北署の地域課だから、県警本部のここまで来るのにものの3分もかからないだろうけど、わざわざ訪ねてくるなんて。

 郁美はつい、嬉しくてニヤケそうになる頬を必死で引き締めた。


 電話番号を交換する。

 小野田という地域課の課長はにこやかに、

「さっそくですが今夜、何かご予定はありますか?」

「い、いえ、特には……」


「では是非、食事でも。良い店を知っているので……またすぐにご連絡しますね」

 さっそうと部屋を出て行く。


 いいのかしら? 郁美は男性から食事に誘われるという、今までの人生の中でめったに経験したことのない、貴重な事実に感動を覚えていた。


 じーっと岩淵の視線を感じる。

 こほん、と咳払いをして郁美は作業に戻った。


「……あの人、そういう顔がタイプなのね」

「どういうことですか?」

 しかし事務員の女性は鼻で笑って、結局答えてくれなかった。


 ※※※※※※※※※


 午前11時過ぎ。


 上村と交番長である逢沢は北暑の職員用食堂にいた。本来ならとっくに任務解除時間であり、このあとは休めるはずである。しかし。


 昼過ぎに帰署し、各種手続きを終えたところで課長に呼び止められた。

 このあと【反省会】を行う、と。


 検討内容はもちろん、上村柚季巡査によるマスコミ関係者への暴言騒動について、である。11時45分から4FA会議室だと言われた。

 それまでにあと30分ほどある。


今の内に昼食を摂っておこう。

 逢沢はそう言って上村を署内にある食堂に連れて行ってくれたのである。食欲はほとんどなく、ただ食べ物を口に詰め込んだだけだった。


「……大丈夫か?」

 交番長が問いかけてくる。

「……問題ありません」


 殴られた箇所が痛むのは事実だが、それ以上に気になって仕方ないことがある。


 何を言われるのだろうか。

 その時になって上村は改めて、自分が失敗したことを悟った。


 間違ったことは何一つ言っていない。でも。マスコミ関係者を怒らせたのは確かにまずいことだ。


 交番長に迷惑をかけてしまった。その事実も胸に重くのしかかっている。


「世の中にはな、上村。日本人でありながら日本語の通じない奴がいる。それはお前も充分理解しているだろう?」

「……はい」

「特にああいう、殺人現場なんていう緊張する場ではそうだ。マスコミはとにかく情報が欲しい。そのためなら形振りかまわない」

 あさましい、と個人的には思う。だが上村は口にしなかった。

「昔と違って今はとにかく【権利】意識が強くてな。知る権利だの、報道の自由だのと……だがそんなものは、モラルやマナーを踏みにじる免罪符にはならないんだがな」


「権利がどうこという以前に、そもそも、彼らは我々の業務を妨害しています」

 逢沢は苦笑を漏らす。

 そして彼はだがな、と続ける。

「そうは言っても、対応次第では我々が叩かれることになるんだぞ」

 上村は何も言えなくなってしまった。


「前にも言ったが一般市民は我々をよく見ている。言葉遣い1つとっても、些細なことでもすぐ批判の対象になり、下手をすればネット上に拡散される。お前がその制服を着ている以上、新任もベテランも関係ない。市民はお前を広島県警の職員の1人、と見る。そのお前の態度1つで、課長よりもっと上の人にも影響が及ぶことがある。それを忘れるな?」


 交番長の言うことは正しい。

 頭ではそう理解しているが、気持ちは納得しきれていない。


 間違っていることを間違っていると指摘して何が悪い。あんな無礼な奴らに遠慮したり、気を遣ったりするのはおかしい。


 そう考えた時に、先日、和泉の言ったことを思い出した。


『会話はキャッチボールだからね』


 ※※※


 指定された時間より3分遅れて、小野田課長が会議室に姿をあらわした。


「……何をやっているんだ、お前は……」

 開口一番。

「今、署長の方から正式に旭日新聞社へ謝罪の申し入れをしているところだ」

 眉毛も造作も濃い顔には、ハッキリと怒りの色が浮かんでいる。


「ご迷惑をおかけして申し訳ありません。ですが、先に手を出したのはマスコミの方です」

 逢沢はかばってくれるが、

「バカ野郎!! あいつらの武器を知ってるだろう? あることないこと書きたてて、事実を歪曲して世間に伝える……!! 民間人がどっちの言い分を信じるか知らない訳じゃないだろうが?!」

 上村は唇を噛んだ。


「……まぁ、起きてしまったことは仕方がない。それにネット住民はどちらかと言えばマスコミの方へ批判的だしな」


 それにしても、と小野田課長は立ち上がる。

「同期はもう殺人犯を捕まえたっていうのに、こっちはつまらないトラブルで反省会とはな。警学で優秀だった奴が、意外に現場では使えないもんだ」


「課長!!」

 逢沢が立ち上がる。「その仰りようはあまりにも、上村に対して礼を欠いています。いかに新任者とはいえ……」


 しかし小野田課長は鼻を鳴らすと、

「……事実だろう。それとも上村、お前は何か言いたいことはあるか?」


 交番長が庇ってくれたことは素直に嬉しかった。


 だけど。


 上村は顔を上げた。

 言いたいことはただ1つ。


「僕は間違っていません」


 一瞬の沈黙。

 それから。思いがけず、地域課長は笑い出した。


「噂に聞いていた通り、というか……それ以上だな。父親にそっくりだ」


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