第57話 千年おゝとり
千利休が語るところによれば、かつて日本には3つの鴻臚館があったらしい。
1つは私も知っている博多のもの。筑紫館という大和朝廷の官製の貿易商館を前身とするもので、外国商人の宿泊施設であり接待施設であり、あるいは遣唐使として集められたメンバーを滞留させる施設としての意味合いもあった。
次に、千利休によって明らかにされた難波の鴻臚館。こちらは畿内にある立地上、貿易商館としての機能はほぼ無く、より外交機関という趣が強い。諸蕃の使節が来日した際に歓待する場として機能したていたとのこと。
ちなみに3つ目というのはかつて平安京に建設されていた鴻臚館のことらしいが、これは千利休は本筋ではないと割愛したので私もスルーする。
もしフィリピン伯領との交易に価値を見出しているのであれば、交易の調整機関を自分の本拠地の側に置きたい、という話は理解できなくもない。
ただしそもそも千利休がどこから私の『鴻臚館構想』を知ったのだろうか、と考えを巡らせたときに、神屋紹策に対して私自身がこう言っていたことを思い出した。
『堺の会合衆の方々も織り交ぜるのもいいでしょう』と。
あの時は毛利の影響力の強い神屋紹策に対して独占的な権限を与えることで私達が毛利寄りだと思われないように、大友やら他勢力をごった煮にしてうやむやにするために放った言葉であった。
多分神屋紹策は私の言葉を素直に堺の会合衆にも伝達したのであろう。ある種私の自業自得である。なのでいつから千利休が『鴻臚館構想』を知ったのかと言えば、おそらく私達が堺に来た瞬間からそれ程時を置かずしてなのだろう。
というか、そもそも私達が乗ってきた弁才船には神屋の手代も同乗していたのだから、下手すれば私が副将軍・織田信長騒ぎで日比屋了珪に幕府再興の話を色々と聞き出しているその日と同じくして千利休側も『鴻臚館構想』を入手していた可能性があるわけで。
そして、先の私の『鴻臚館構想』が千利休の行動に影響を与えるとするならば、更に説明のつく現象がある。それは、大元の香道を行うきっかけとなった暦の差異による季節感の違いの話を日比屋了珪が千利休へと漏らした部分だ。
堺でこうして私達の世話をしてそれで本業以外で利益を上げている日比屋了珪であるが、以後スペインやフィリピン伯領からの外交官・商人が博多でやり取りされるとなると、今のような立場を得ることは難しい。
逆に千利休の難波鴻臚館であれば、今まで畿内においてキリスト教徒を歓待してきたのが日比屋了珪であることから、彼はそこで主導的な地位を築き上げることができるだろう。
つまり千利休と日比屋了珪の利害は現状一致しているようにみえる。だからこそ香道の時に私達の話が意図的に漏らされたのではなかろうか。
「……既に、博多で計画を推し進めているのですが」
「別にそちらを中止にして欲しい、ということを言いたいのではないですよ。ただ……『鴻臚館』を1箇所だけに限定する必要も無いと愚考いたしますが。
それに、此度の白雪の姫様のように京を相手に外交交渉をする間、滞留する場所というのは必要ではないでしょうか」
つまり博多と堺に両方作ってくれ、ということか。そしてさり気なく日比屋了珪に厄介になり続けるくらいなら国営の在外公館に泊まっている方が以後のリスクヘッジが出来るぞ、と暗に日比屋了珪からの引き離しをも画策している。
確かに特定の商人に私達の身辺のことを任せ続けるのもリスクのあることではある。しかしそれ以上に、千利休としては現在利益が一致している日比屋了珪について、これ以上私達と関係を近しくし過ぎないようにしたいという牽制の意図も込められているはずだ。
更に言えば、かの『鴻臚館構想』に至った本来の理由である博多銀相場の把握も2か所に在外公館を設置するのであれば問題はない。
ただし銀相場把握という大前提がある以上、裏を返せば、博多が主であり畿内は優先順位はどうしても低い。
ただ……うん。
提示されるメリットは『畿内政局に巻き込まれる』という多大なるデメリットの前ではどうしても霞んでしまう。
幕府が再興して副将軍に就任するや否や、全く時を置かずに堺政所として松井友閑を派遣し、私に対して最短距離で接触を図る織田信長。
一方で、日比屋了珪の元々のパトロンは三好三人衆筆頭の三好長逸。三好勢の旗頭となる平島公方・足利義栄も健在である以上、畿内で大きな動きがあれば巻き込み事故に遭いかねない。千利休の構想する難波鴻臚館にはそれだけの荒波を制御しうる、いや少なくとも延焼から回避できるだけの人物を送り込まないといけないが、それだけの人材をわざわざ派遣するくらいなら最初からリスクは背負わずに博多だけ抑えている方がマシだ。
あくまで公貿易の確立に付随する事項でしかなく、これは外交案件ではあるものの本質的には私の得点稼ぎというスペイン国内政治の延長線上に存在するものでしかない。必ず成し遂げられなければならない案件でもないことから、無理に千利休を意向を汲んでまで成功率を高める必要がないのである。
ということで断る方向に持っていくが、そうは言ってもそんな内情を千利休に説明するわけにはいかないので、別の理由をでっちあげる。
「……堺近郊ですと、遠浅の海が多く我々の船であるガレオン船が入港できないのですが……」
「喫水が確保できないということですか。……それならば博多も条件は同じではないでしょうか、白雪の姫様?」
「博多の場合、良港である口之津などの肥前領主の港湾の利用許可が得られますので、そちらを経由すればいいのですが……。
……この畿内において、『我々の船』が降り立つのに適した港ってあります?」
口之津、そしてまだ港として整備されていないがおそらくゆくゆくは出来るであろう長崎。肥前の港が持つメリットは多い。
まずキリシタン大名の領内であるということ。そして、博多に近くはあれど、龍造寺を挟んで更に大友・毛利から離れることで、九州の大勢力から距離を置けるということ。龍造寺の動向が絡んでくるものの、その龍造寺であっても本命は大友への対抗であり、肥前領主への浸透はどちらかと言えば副次戦線に過ぎないという各勢力から見たときの戦略的な優先度の低さ。
勿論東シナ海に面することからフィリピンからガレオン船であれば無補給でダイレクトにここまで来れるということも存在するが、日本の都合に大きく左右されないという恩恵を肥前は有している。
翻って堺近郊にそのような適地があるか。単純な地形的あるいは操船的な都合で言えば、紀伊がベストなのだが、あの在地の宗教勢力の混沌と混迷を極めている地にキリスト教勢力を送り込むというのは正直得策であるとは思えない。
次点で大阪湾を挟んで対岸となる淡路。しかし淡路は淡路で、今度は三好の影響力が強すぎる。現行の足利義昭幕府を基本的には承認していく流れである以上、三好三人衆に近しい場所はかえって危険だ。
しかし摂津も和泉も、大阪湾に面する地域の大部分は遠浅なのである。となれば、必然的に選ばれる地域は――
「播磨の東部、ないしは播磨と摂津の境近傍となると……『兵庫津』ですか。遣明船の実績もありますが故に、ここしか考えられません」
『兵庫津』。多少の誤解を承知で敢えて言うのであれば、ほぼ神戸である。地形的な条件とともに対外交易実績のあるこの地が大阪湾内で適地となるだろうことは薄々察していた。問題は、千利休がこの『兵庫津』をどのように判断するかである。
千利休は自分の出した『兵庫津』という言葉を咀嚼するかのように目を閉じて考え込む。私は何も言わずにただ答えを待つ。
長い静寂の後に、千利休はこう口にした。
「……やめておきましょう。播磨に近いのであれば、私にとって条件は博多とそう変わらなくなってしまいます。であれば、諦めましょう」
「……ちなみに、何故。そのような判断を?」
「――小西、とだけ申しておきましょう」
その言葉はこの場のお開きを示すこととなり、千利休が儀礼的な挨拶の後に退席したことで、全く実感は湧かないが何とか乗り切ったと判断して差し支えないであろう。
さて千利休が残した『小西』という謎の種明かしである。これは堺で薬の問屋を営む『小西屋』のことである。現当主である小西隆佐は、口之津に居たガスパル・ヴィレラによってカトリックの洗礼を受けていた男であり、同時に日比屋了珪とも関係深くかつて宣教師が幕府によって京での布教許可を得ていた頃に、初期の宣教師の世話や補佐を行っていた男である。
永禄の変にて足利義輝が死去した後に出された宣教師の退京処分の折には京に居た彼等を摂津まで逃がす手引きをしてくれた文字通りのイエズス会宣教師の命の恩人である。
更に小西という名の戦国時代の人物といえば、小西行長が思い付くであろうが、彼は隆佐の次男でまだ幼少だ。
しかし、彼の存在も大きい。私の知る歴史では、小西行長は備前の豪商・阿部善定の下へ出稼ぎに出ている。後々、宇喜多直家に才覚を見初められたのを契機として武士となるわけだが、これらの話は裏を返せば小西家という商家は堺にありながらにして、備前の豪商と渡りが付くほどには西国への影響力がある。
これらを統合すれば、摂津の西端という立地の『兵庫津』を差配する適任者は、千利休ではなく小西隆佐なのだ。
だからこそ千利休は退いた。博多であれば『堺の会合衆』を参画させること自体は認めているので条件としては小西隆佐とフラットになる。小西の名は備前まで轟くものの、西瀬戸内からは毛利系商人の台所となるために、そちらには手も足も出ないのである。
であれば、彼の地でも茶会文化は広まっていることを踏まえれば、茶人として名高い千利休の方がむしろ条件的には良い。
その千利休の判断は損切り、と言えるかもしれない。だが、損したものは香の席を整える費用くらいで、巨万の利益を産むであろうルソン王国への交易に関する話についてはゼロベースに戻しただけなのである。
確かに堺主導の鴻臚館構想というハイリターンの賭けには負けた千利休であるが、その賭け事は実質的にはノーリスクであったからこそ、あっさりと退いたのだ。
*
ゼロベースに戻ったのは鴻臚館構想だけではない。
私の朝廷工作における次なる一手もそうだ。
正面突破の一手、即ち私の護衛に就いている剣術家の結城忠正の義兄弟の縁を頼って、正三位・権中納言の公卿である勧修寺晴秀と交渉し、彼を使って朝廷に切り込む一手は、相対する公家が正二位・権大納言の万里小路惟房である以上、元々形成不利にも関わらず、身代の点でも分の悪い勝負とならざるを得ない。しかも、その手は松永久秀によって整備された道だという恐ろしさもある。
かといって奇策の類であった宮中で診察も行う曲直瀬道三を利用して、キリスト教へ好印象を与えるという方策も、その伝手を紹介してくれた千利休が『難波鴻臚館構想』を有している以上は、一度諦めたとはいえこれ以上彼に対する借りを作ることが危険であるという観点から極力積極的に使いたいものではなくなってしまった。
つまり、手詰まりだ。そんなことを考えながら、日比屋了珪の屋敷で無為に時間を浪費していたある日のこと。
日比屋了珪が私の私室同然になっている客間へとやってきて、こう告げる。
「……その、フィリピン伯様。伝令の方が先程よりいらしており重要な書状を預かっているのですが、いかがなされましょうか?」
「日比屋殿らしからぬ、随分歯切れの悪い申し出ですね。伝令の所属は分かりますか?」
「いえ。それが分からぬ故に伝令を此方に一度留め置き、結城忠正様に見張らせております。
本来そのような怪しき者は即刻打ち首にでもすべきなのでしょうが、何分持ってきた知らせが重大なものでしたので」
「……とりあえず、書状を見てから判断しましょうか。日比屋殿も中は見たのでしょう?」
「はい。花押だけで差出人の名は書かれておりませぬ」
そう言われて差し出された紙には、次のたった一文が花押を添える形で書かれていたのである。
――幕府の再興を祝うために、三条西実澄様がご帰洛なされる模様。
この書状を見た瞬間、私は最後のキーピースが揃ったという喜びよりも、あまりにも都合が良すぎる展開で何らかの思惑を感じ不気味に思った。
正二位・権大納言である三条西実澄。後に改名し三条西実枝と名乗る彼であれば、確かに万里小路惟房と同格である。しかも1559年より駿河国に下向しており、これまでのイエズス会宣教師に対する朝廷の対応には一切関与していない人物だ。
正直、これ以上申し分のない程に私が頼るべき相手であると言えるが、しかし私の知る歴史において彼の帰洛は3年後なのである。
つまり偶然ではなく、何らかの作用の結果なのだ。
私は意を決して、日比屋了珪にこう伝えた。
「……その伝令に直接会いましょう。
応接用の部屋は開いておりますよね?」
この書状の花押には『千年おゝとり』、鳳凰の花押が使われていた。
それが指し示す人物は――竹中半兵衛ただ一人であり。
同時に本来その花押を使用するのは彼が晩年のときであるため、既に私の知らない何かがおそらく起きていることを示唆している。




