78.降りられない
それからまた、陸地に戻るだけでも大変だった。
「そろそろ戻ろうか」
「まだ、もうちょっと居たいの。ねぇ、つぃーっ、てして? もう一回!」
つぃーっ、という言葉と一緒に人差し指を動かすアンジェはとてもかわいいのだけれど、もう戻った方がいいと思う。
「じゃあ、もう一回だけな?
アンジェは身体が弱いから、風に当たりすぎると体調を崩しそうだ」
「そうかな? 大丈夫だと、思うけど。
でも、セトスさまがそう言うなら、戻ろうかな」
まだまだ湖の上で風を感じていたそうで口元はムスッとしているけれど、戻ってくれる気になったらしい。
「どうしても来たかったら、また明日来よう」
そう言えば、ぱあっといつもの可愛らしい笑顔になってくれた。
「うん、分かった!」
かなり湖の風が気に入ったみたいだから、また連れてきてあげたいな。
「そろそろお昼ご飯を食べようか」
「うんっ! いっぱい、遊んだから、ご飯食べれるよ」
「じゃあ陸に戻るぞー」
「はーい!」
ボートから上がるだけでもまたかなり時間がかかる。
「アンジェ、ここが足場なんだけど、立てるかい?」
「ん、がんばるけど……」
揺れるボートの上で立ち上がろうとするけれど、ゆらゆらと足元が覚束ないのでアンジェの身体はついて行かない。
「アンジェ、危ないから一旦座ってくれないか」
「はい、セトスさま、ごめんなさい……」
自分でも無理だと判断して大人しく座ってくれたけれど、その表情はとても暗く、落ち込んでしまっている。
「アンジェが悪いんじゃないよ。
ボートは揺れるから難しいだけだ。
俺も、昔小さな頃は抱きかかえて降ろして貰っていたからな」
「そうなの?」
アンジェが少し顔を上げたところで、間髪入れずに貸しボート屋の女性が口を挟む。
「あら、立てませんかー?
大丈夫ですよ、私の手を持って頂けますか〜」
「えっ、えっ?」
「ああ、大丈夫ですよ、俺がやります」
「そうですか? ちょっとしたコツが必要ですよ」
とはいえアンジェの様子を貸しボート屋は知らないから、さすがに任せるわけにはいかない。
「アンジェ、そのままじっとしてて」
声を掛けてから、抱き上げるためにアンジェの身体の下に腕をいれる。
「立つよ、大丈夫?」
「はいっ!」
揺れるボートの上でも、アンジェは俺を信頼して身体を預けてくれる。
足場が悪いのでぐっと全身に力を入れて、アンジェを抱き上げる。
「よっ、と……アンジェ、大丈夫かい?」
「うん、全然平気だよ。セトスさまは、大丈夫?」
「もちろん」
それでも、アンジェはまだ不安そうだ。
そこへ、陽気な貸しボート屋の女性が声を掛けてくれる。
「はーい、ボートはお楽しみ頂けましたか〜?」
「はい、でも、降りるのに、時間がかかりました……ごめんなさい」
「いえいえ、全くお気になさらず!
乗るより降りる方が難しいですからね、揺れるので立てない方も多いですから。
頼りになる旦那様で良かったですね!」
「はいっ!」
アンジェは照れるかと思ったら、とても自信満々に返事をした。
その後、俺の手を持って歩き出してからも上機嫌だ。
ボートから降りられなくて落ち込んでいたのが嘘みたいに。
「そんなに楽しかったかい?」
「うん、とっても楽しかったの。こう、ボートがつぃーって動くところとか。
それに、いい旦那様ですね、って。言ってくれたから」
「そんなに嬉しかったのか?」
「うん。だって、わたしがセトスさまの奥さんっぽいってことでしょ?
知らない人にもそう見えてるのは、とっても嬉しいの」
確かに、社交界ではアンジェのことを悪く言う人がかなり多い。
彼女は耳が良いからこそ、そういう口さがない人々の嫌な噂を沢山聞いてしまって、落ち込んでいた。
そんな事気にしなくて良いとは言うけれど、なかなかそうはいかない。
そんなアンジェにとって、知らない人に『俺の奥さんっぽい』と思われることが、どれだけ嬉しいか。
「良かったな」
「うんっ!」
元気いっぱいに返事をしてくれるアンジェの笑顔は、湖面に乱反射する太陽の光よりもきらきらと輝いていた。
短編小説『《殲滅の魔女》は虚弱体質』を公開致しました。
ご興味がありましたら、ぜひご一読くださいませ。




