77.湖の上で
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そんな何気ない話をしながらボート乗り場へ行く。
「んー、風が、気持ちいいね!」
朝の爽やかな風を全身で感じているアンジェは心の底から嬉しそうだ。
「今は湖の端っこの陸地に居るだろう?」
「うん」
「だけど、今からはボートに乗るから、陸地から離れるんだ。今の感覚を覚えておいて、湖の上だったらどう違うか比べてみたら面白いと思うよ」
「分かった! ちゃんと、覚えとくね」
意識した方がはっきりと違いを感じられるだろうし、俺もアンジェがどう感じるのかを知りたいからそう言ってみた。
あとでどんな感想が聞けるのか、楽しみだな。
「では、こちらへどうぞ! お足元にお気をつけくださいね」
ボート屋の店員のお姉さんは、庶民らしく威勢がいいが、貴族の相手になれた丁寧な口調で、まさにこの街らしい人だ。
アンジェの足元に気を配りながら桟橋を渡り、ボートへ乗りに行く。
「ボートは揺れるから、姿勢を低くしてゆっくり進んでね。俺が言う通りにして欲しい」
「ん。分かった」
「ここは床が板になってるから座って? こちらが湖側だから、ボートの縁がこれ。足はこっちにして……」
具体的なイメージが付きにくいだろうから、なるべく細かく説明する。口で言うだけじゃなくて実際に触らせて、少しでも怖いと思わないように。
ボートに乗るのは普通の人でも時間がかかると思うけど、アンジェはその何倍もの時間がかかってしまう。けれど、ひとつひとつを説明して理解してもらうのも、それはそれで楽しいと思うんだ。
「わっ、揺れるね!」
ぐっ、とアンジェの体重がかかったことでボートが傾いた。それに怯えるかと思ったが、何故か彼女は嬉しそうな声音だ。
「大丈夫? 怖くない?」
「ううん、怖くないよ。だって、いつもと違うの、楽しいもん!」
湖の上、というシチュエーション自体を楽しんでいるアンジェにとってはひとつひとつの感覚の違いが楽しいようだ。
桟橋に座った彼女を抱えるようにして滑らせて、ボートへ落ち着かせる。
「なるほど! さっきより、揺れてないね!」
「さっき大きく揺れたのはアンジェが乗る瞬間だったからだよ。こうして座ってしまえば、これ以上力がかからないから不安定になることもない」
「これが普通だ、って知ってるから、さっき、怖くない? って心配してくれたのね」
「言われてみれば、普通がどんなものか知らなければ、こんなものだと思うかもな」
うんうん、と頷くアンジェ。
「これが普通なら、さっきのは怖いと思ったかもね。でも、乗るときは、あれが、普通でしょ?」
「うん」
「じゃあ、怖くないね! それにね、セトスさまといっしょなら、怖いことなんてないもの」
「……ありがとう」
彼女が寄せてくれる全幅の信頼が嬉しくてくすぐったい。そこまで俺を想ってくれているからこそ、何でもしてあげたくなるんだ。
「風が、ぜんぜんちがうね!」
ゆっくりとボートを漕ぎ出し、沖の方へ行ってみる。そう大きな湖ではないが、湖畔とは違う風を感じられた。
「どう違うと思う?」
俺ですら感じられる違いを、アンジェはどう表現するだろうか。
「風さんは、みーんな走ってるの。でも、陸地にいたときは、おんなじ方を向いてたのに、今はバラバラな感じ。好きな方を向けて、楽しそうね!
わたしも、おんなじくらい、楽しいの!」
「なるほどな」
アンジェにとって風はひとのように心を持つもののようで、まるで彼女も風になったかと思うほど嬉しそうだ。
「それにね、このボートの動き方も、すきなの。だから、動いて?」
顔をあちこちに向けて湖の風を感じていたと思ったら一転、こちらを向いておねだりしてくる。
「ああ、いいよ。動くよ?」
風を感じやすいように、と思って止まっていたけれど、彼女が望むならどれだけでも漕いであげる。
「こう、つぃーっ、って、動くでしょ?」
つぃーっ、という言葉とともに人差し指をすーっと横へ動かす。
「馬車は、こんな感じ。ごとごとするの」
人差し指はさっきと違ってぴょんぴょん跳ねるように動く。
「そうだな。馬車とボートでは、かなり違うだろう?」
「うん。馬車は、車椅子に、近かったの。でもこれは、ぜんぜん違う!
馬車よりずーっと、風さんに近いの!
わたしも風さんといっしょに走れた気持ちがするのよ」
歌うように言う彼女はとても嬉しそうだ。
「わたし、自由に歩けなかったから。好きなところへ行けるって、こんなにステキなことなんだね!」
「ああ。これからも、色んなところへ行こうな」
「セトスさま、ありがと。だいすき!」
初めて知らない街にきて、初めての風に触れるアンジェ。
彼女の満面の笑みは何よりも尊くて、それを独り占めできることにこれ以上ないしあわせを感じた。




