75.ふわふわディナー
雑談ばかりしていたら、あっという間に時間は過ぎて。
のんびり二人でお風呂に入ろうと思っていたのに、ディナーの時間を考えたらそうゆっくりはしていられなくなってしまった。特にアンジェはイリーナの手を借りないとめちゃくちゃ時間がかかるし。
ということで、お風呂は後にして先にご飯を食べることにした。
「ステキな音楽ね〜」
食事場所は部屋とレストランを選べたから、今日はレストランの個室にしてみた。
二人きりも良いなと思ったのだが、こうして音楽演奏があったり、人がいた方がアンジェは楽しめるかと思って。
ヴァイオリン、ピアノ、ダブルベースのセッションで、穏やかな食事時の雰囲気を崩さない、柔らかいメロディーを奏でていた。
ここのご飯は主なターゲットを女性に置いている。
男性はお酒や、パイプとゲームを楽しむことが多いから、レストランは女性向け、ということだ。
家とは違う雰囲気を楽しんでくれているし、音楽に合わせて身体を揺らしている様は非常にリラックスしているようだ。
ちなみに、貴族とは言っても日頃の食事はそこまで贅沢な訳ではない。もちろん豪華にしている食通も居るだろうが、不必要に華美にするのは領民からの評判を下げるからな。
特に体型は誰が見てもわかる分、気を使わないと『俺たちの金で贅沢三昧をしている』と領民の反感を買い、最悪の場合は反乱にまで至る。
反乱になるほどではなくとも、日頃から良い関係を築くに越したことはないので、ミラドルト家ではあまり贅沢をしない。
もしアンジェが食に興味を示すようなら色々と買って食べさせるだろうが、今のところ彼女の興味は向いていない。
あまりたくさんは食べられないし、食べた事の無いものも多いだろう。
「ん? お部屋に入った?」
ホールから個室に入るのに特に段差などは無かったが、敏感なアンジェは音の響きだけで気づいたらしい。
「そうだよ。あまり人が多いと緊張するかと思って個室にしたんだ。
向こうの広い所の方がいい?」
「ううん。セトスさまと、ふたりの方が、すきー」
ぎゅーっと抱きついてくるアンジェを離すことなくそのままソファ席に座る。
ボックスタイプの座席だから普通は向かい合わせだろうが、アンジェとひっつきたいので隣同士だ。
変に思われるかと考えていたが、聞いてみると意外とこういう客は多いらしい。特に新婚旅行なら尚更。
「今日はとっても特別な日だし、俺が食べさせてあげようか?」
「なんで?」
「新婚旅行の時くらい、のんびりご飯だけを楽しみたいかと思って」
普通なら何でもないこと、食事でさえ彼女はとても気を使う。特に今日のメニューは食べやすさを考慮していないから余計に。
そう思っての提案だったのだが。
「ううん。自分で、やりたいの。どうしても無理なら、手伝って?」
「うんうん。アンジェのそういう自分で頑張れるところが、素敵だと思ってるよ」
せっかく頑張ろうとしているので、精一杯応援しておく。
自分が言ってあげたかったのももちろんあるけと。
「えへへ。セトスさま、わたしのこと、ステキだって、思ってくれてるの?
わたしも、セトスさまのこと、ステキだなーって、思ってるよ!」
朗らかに笑うアンジェをギューッと抱きしめていると、料理が運ばれてきた。
店員さんはもちろん慣れた様子で見ないふりしてくれるけど、何となく恥ずかしくて少しだけ離れた。
今日のディナーは豪華な季節のフルコース。
まずは前菜から、一品づつ説明してあげる。
うんうんと頷きながら聞いていたけれど、あまり具体的には分かっていない様子だから、食べてから言った方が分かりやすいだろう。
マリネサーモンとじゃが芋のルーレを上手くフォークですくってぱくりと口に入れた。
「んー、ちょっと、不思議な味ね! おいしい!」
あまり食べ慣れない味だからか、しっかりと味わっている。
「次、これは?」
慣れない場に慣れない料理で心持ち緊張していたが、美味しいものを一口食べると、一気にご機嫌になった。
さっきまでとは打って変わって、自分から中身を俺に訊ねるほど。
「それは、あさりのコンフィ。貝を油で煮たものだな」
「うんうん。おいしい! 何て言えばいいのか分かんないけど、とにかくおいしいの!
食べてるうちにどんどん味が出てくる感じがするのよ?」
「うん、俺も食べてるよ。とってもおいしいね」
一つ一つに対して説明するのは、アンジェ以外が相手だったら絶対にやらないだろう。
面倒だし、それくらい自分でやれ、と言うかも。
でも、アンジェが相手だとこんなにも違う。
彼女の全てを知りたいと思うし、彼女が知っているものは全て俺が与えたものであって欲しいとも思っているから。
「俺はお酒呑むつもりなんだけど、アンジェはどうする?」
「んー、どうしよっか。セトスさまと、同じのがいいな」
「というか、飲んだことある?」
「どうだろ。たぶん、ないと思うけど……?
セトスさまは、わたしに、飲ませてくれたこと、ある?」
こてんと首を傾げる彼女は、無自覚に俺を煽っていると分かっているんだろうか。
「ないよ」
「じゃあ、飲んだこと、ないね。飲んでみたいの!」
ふわふわと笑う彼女が好きそうな、甘くて口当たりの良い、軽いものをオーダーする。
超初心者向けだし、少しでも様子がおかしかったらすぐに止めさせるつもりで。
くぴりとほんの少しだけ舐めてみると。
「美味しい、かも。なんだか、のどが、あったかくなるね?」
甘いものが好きなアンジェにとっては、ジュースとあまり変わらない感覚で美味しく飲めるようだ。
ただ、失敗してしまったかもしれない。
「んふふ〜! セトスさま、ほんとにかっこいいよね? なんで? なんでそんなにかっこいいの?」
「アンジェ、大丈夫か? 水飲んで?」
「おいしいのが、いいの〜! セトスさま、もっと!」
明らかに、飲ませすぎた。
まだワイングラスに半分ほどしか飲んでいないのに、ここまで弱いとは思わなかった。
「アンジェ、あとは俺が飲むから、離して?」
「うみゅ〜! だめ! おいしいの、とらないで!」
普段からあまり口が上手くはないが、今はもう完全に、駄々をこねる子どもそのものになってしまった。
慌ててソフトドリンクを頼み、それと交換することに成功した。
「うふふ。これも、おいしいね? とってもおいしいの!」
手元が覚束なくなるほどではないが、食事の手は完全に止まってしまった。
せめて、もう少し後で飲ませるんだったな。
ただ、いつもにも増して素直でよく笑う彼女もとても可愛いのは確か。
「アンジェ、口開けて? お魚だよー?」
「おさかな! あむっ……おいひぃねぇ」
ころころとよく笑うようになって、それでも口元に持って行ってあげればご飯は食べる。
これはこれで楽しい、とか言ったら怒られそうだ。
「ふふふ。セトスさま、かっこいいね?
ほんとにほんとに、大好きだよ!」
満面の笑みでそう言う彼女を見ていたら、またいつか、タイミングを見て軽くお酒を飲ませようと決意した。
だって、こんなに正面から『大好き』なんて、普段は照れて言って貰えないから。




