46.世界でいちばん尊い涙
俺が帰宅してからしばらくしてから。
今日もいつものように歩行練習を始める。
最近は1人で歩けるようになるための練習を主にしていて、先週あたりから机に手をついたら1人で動けるようになっている。
1人で動けるようになるのも時間の問題だとも思うけど、今日はどうだろう?
いや、あんまりそうやって期待しすぎるのも、アンジェの負担になってしまうから良くないってわかってはいるんだけど。
一旦、休憩のために椅子に座らせたアンジェに、何気なく声をかける。
「アンジェ、最近は俺がいなくても、机をつたったら1人で歩けるようになってきただろう?」
「うん」
「今日は、本当に1人で歩いてみるための練習してみないか?」
俺や、イリーナの助けなしで動ける距離が少しずつ伸びてきているから、もう少し違う方法で練習してみるのもいいかと思ってそう提案したんだが……
ほんの少し表情が曇った。
よくよく見ていないと分からないくらいの変化だけれど、アンジェが怖いと思ってるのはほぼ間違いないだろう。
「ごめん、気が急きすぎてた。焦らなくていいから、少しずつ行こう」
嫌がることを無理にさせては怖がるだけで一向に上達しない。
それはアンジェに限らずみんなそうだから、慌てて訂正した。
「ううん、大丈夫。できる、できるよ? わたし」
顔をこわばらせながらも、精一杯の表情でそう言う。
「本当に、無理はしないでほしい」
「ちがう。無理はしないけど、セトスさまがしなくていいって言ってくれるからって、ずっとこのまんまじゃダメだって、ちゃんとわかってるから」
ぎゅっと唇を噛み締め、拳を握りしめて、決意したように顔を上げる。
「できるできる。1人でも、大丈夫」
まるで自分自身に言い聞かせるかのように、そう言う姿を見て。
『無理しなくていい、ゆっくり行こう』と言いそうになった。
本当に喉まで出かかっていたけれど、それは今のアンジェが求める言葉じゃない。
俺の中には未だに出会った頃の、壊れてしまいそうなほどか弱いアンジェの姿がチラついてしまって、どうしても心配になってしまうけど……
彼女は間違いなく強く成長しているんだ。
「よし、じゃあやってみよう」
「うん。」
アンジェが俺の手を取って立ち上がる。
「手は離すけど、絶対にすぐに助けられる距離にいるし、転びそうになったら助けるから」
「うん、わかってる。セトスさまは、いつでも、わたしを、助けてくれるから」
こういう大事な時に自分を頼ってくれる、全面の信頼おいてくれるっていうのはなかなか嬉しいものだな。
大丈夫だと口では言っていたものの、やっぱり怖いようで、立ってるだけなのに体中は緊張でこわばっている。
こんな調子じゃできることだって失敗してしまうっていうくらいに。
「あんまり緊張しないで、いつもと同じようにすればいい」
そう言って軽く抱き寄せて、背中を優しく撫でてあげる。
突然触ったから体がビクッとしたけれど、くつろいでる時のように俺に体を預けているうちに、緊張がほどけてきた。
「もう、だいじょうぶ」
「うん、大丈夫そうだな。じゃあやってみよう!」
俺が手を離すと、そっと1歩を踏み出した。
「あっ」
喜びからか、ほんの少し声を上げる。
いつもより小さな1歩で、ほとんどすり足みたいだったけど、アンジェは1人で自分の力で歩き始めたんだ。
そのまま2歩3歩と歩けたけれど、勢い余ってつんのめるようにして転びかける。
そうなることはわかっていたから、体全体で受け止めてあげると、勢いのままに抱きついてきた。
「ねぇ、セトスさま、できたよ! わたし、1人で歩けるんだ!」
興奮で頬を真っ赤にしている彼女。
「よかった、本当によかった。アンジェが努力したおかげだよ」
「うん、頑張った! セトスさま、ありがとう」
「お礼を言われるほどのことじゃないと思うけど……
そうだな、2人で頑張ったから出来たことだね」
すがりつくように抱きついてくるアンジェを力いっぱい抱きしめてあげる。
「……ふぇっ」
かすかに、しゃくり上げる声。
「……なんで? なんで、涙が出てくるの? 悲しいことなんて、ないのに」
「人間は嬉しい時も涙が出るよ?アンジェは嬉し涙は初めてかい?」
「うん、初めて。びっくりしたけど……わたし、今日が、人生でいちばん嬉しい日だと思う!」
その後も、ぽろりぽろりと、アンジェの閉じられた瞼の隙間からこぼれ落ちてくる涙。
それは、この世でいちばん尊いものに思えた。




