28.俺のためだけ
長らくお待たせ致しました。
28.俺のためだけ
毎日同じことをしていると、当然慣れてくるし滑らかにこなすことが出来るようになってきた。
アンジェが慣れるだけじゃなくて、補助をする俺や使用人もどうしたらよりやり易いのかが分かってきた。
食事のセッティングにしてもそうだし、献立もアンジェに配慮して食べやすいものになっている。
今では、自室で慣れた侍女が準備すればひとりで食事が出来るようになった。
社会常識などの一般教養も、俺やティア、母さんの言うことをほとんど全部覚えていて、みるみるうちに習得して行っている。
ピアノは言わずもがな。
並々ならぬ熱意をもってすれば、上達はあっという間だった。
「アンジェはすぐにピアノが上手になったな。やっぱり耳がいいからか?」
「そう、かな? わたし、みみは、ふつうだから」
「普通ってレベルじゃないよ。普通だったらあんなに出来ない」
「……やっぱり、わたし、ふつうじゃ、ない」
ちょっと俯いて落ち込んでしまったアンジェを慌ててフォローする。
「いやいや、普通じゃない、って言うのはめちゃくちゃ上手いってことで、俺よりずっといい耳を持ってるってことだから」
「……そう?」
「だって、アンジェは俺が目と耳とで感じてることを全部耳で感じてるわけだから。
他の人よりも『聞く力』があるんだよ」
「そっか。ふつうじゃ、ないから、できる」
「そう言うこと」
えへへ、とはにかむように笑った。
「わたしの、いいところ〜♪」
歌うように呟きながら身体を揺らす彼女はとても満足気で、これ以上ないくらい嬉しそうだった。
「そうだ、セトスさまに、聞こうと、おもってたの。
どんな歌が、好き?」
「歌かぁ……あんまり歌劇場なんかには行かないから、分からない」
「そっか。ざんねん。セトスさまの、すきな歌、れんしゅうしたかった」
「あぁ、ピアノの話? 歌って言ってたから、違うのかと」
「ピアノで、れんしゅうする、うたのこと」
「歌っていうのは言葉が付いている音楽のことで、人間が声で歌うものだよ。
ピアノで弾くなら、『曲』って言う。楽器で演奏する時に使う言葉だよ」
「わかった! じゃあ、もう一回。
セトスさま、どんな、きょく、が好き?」
「そうだなぁ、ピアノは好きな曲が沢山あるんだけど、『小鳥』とか?」
「わかった。ティア、しってるかな?」
「俺は母さんが弾いてるのを聞いたんだし、ティアも弾けるんじゃないか?」
「れんしゅうするねー! どんな曲か、たのしみ!」
****
次の日
「セトスさま、じかん、ある?」
夕食を食べ終わってから、いつものんびり二人きりで過ごす時間に、珍しくアンジェからそう切り出された。
「あるよ。どうしたんだい?」
「れんしゅう、したから。きいて、ほしいなって」
「もう弾けるようになったのかい?」
「うん。ちゃんと、れんしゅうした、から」
「それは嬉しいな。ぜひ、聞かせてくれる?」
「うん!! ピアノに、連れてって?」
なるほど、それで、いつもはソファに座ってから話をするのに、先に言ってきたのか。
納得がいった俺は、アンジェの車椅子を押して母屋の応接室に向かった。
他の部屋にもピアノはあるけれど、ここのピアノが一番上等で、音響もいい。
前にサラっと弾いたのを聞かせてもらったことがあるが、今回は違う。
初めて、アンジェが俺のためだけに練習して、俺のためだけに弾いてくれるのだ。
ホールとまでは言わないけれど、なるべく音響のいいところで聞きたいと思うものだろう。
「セトスさま、ティアも、呼んでくる?」
母屋へ向かうのに気づいたアンジェがそう聞いてくるけれど。
「出来れば、俺一人で聞きたいな。
アンジェが初めて、俺のために弾いてくれるんだから」
それまではそんなふうに考えていなかったのか、アンジェの顔が一瞬で真っ赤に染まった。
「そんなに、じょうずじゃ、ないよ?
ティアの、ほうが、きれいだから……」
「上手いかどうかよりも、アンジェが俺のために練習してくれて、俺のために弾いてくれるってことが大事なんだよ」
うぅーっ、と低く唸ったあと、パンパンと気合いを入れるように頬を叩いた。
「がんばる、から、しっぱいしても、おこらないで、ね?」
「もちろん! 楽しみだなぁ」
このやり取りで少し肩の力が抜けたかと思ったが、ピアノの前に着くとまた身体がこわばった。
「俺しか聞いてないんだから、そんなに緊張しなくていいよ」
微かに笑いながらそう言って、緊張をほぐそうとするんだけと、あんまり効果は無かった。
「セトスさまが、見ててくれる、から、きんちょう、するんだよ」
少し唇を震わせながらそう言うアンジェはすごく可愛い。
でも、こんな状態じゃ、いい演奏は出来ないだろうから。
「大丈夫、アンジェの得意なことは『もう一回』だろ?
何回でもやり直して、一番上手なのを聞かせて欲しいんだ」
ピアノ椅子に座ったアンジェの肩を抱いて、頭を撫でてあげると少しは落ち着いたみたいだった。
「そっか。もう一回、すればいい」
何かがすとんと落ちたようで、アンジェはいつものふうわりとした笑顔だった。
「ありがと。セトスさまは、まほーつかい、だね」
「そうか?」
「このまえ読んでもらったの。まほーつかいの、おはなし。まほーつかいはね、何でも、できるんだって。
セトスさまは、わたしが変でも、ちゃんと、してくれるから」
ふわふわ笑ってから、パン、と大きな音を立てて手を叩いた。
「よし。がんばる!」
気合いを入れ直した彼女は俺が知ってるいつものアンジェでは無かった。
ピアノと真剣に向き合う、一人の音楽家。
音を立てないように椅子を引き寄せて、静かに座る。
それからは、至福の一時だった。
*****
アンジェのピアノの腕は素晴らしく上達していた。
やはり、彼女は耳に頼って生きているから音楽の再現度はとても高かった。
ただ、表現力とかセンスはまだあんまりないみたいで。
これから沢山の経験を積むことでどんどん魅力的な音楽になっていくんだろう。
「どう? 上手、だった?」
少し首を傾げてそう聞くアンジェは可愛いすぎてヤバい。
「とっても上手だったよ」
そう言ってから、そっと頭を撫でた。
子猫のように俺の手のひらに擦り寄ってくるのも可愛い。
「ちゃんと、できた!」
自分でも満足いく出来だったようで、かなり得意気なドヤ顔だ。
「じゃあ、ご褒美に帰りは抱っこしてあげようか」
「だっこ! して! わたし、がんばったから」
「ほんとにアンジェはいつも頑張ってるよ。俺もちゃんと仕事頑張らないとなぁ」
「がんばって、ないの?」
「別にちゃんとやってない訳じゃないんだけどね。
アンジェはいっつも、全力でやってるのに、俺は程々に手を抜いてやってるからなー、って思って」
「でも、わたしは、ずっとおしごとじゃ、なくて、嬉しいよ?」
「そう、か。そう言う考え方もあるよな。
確かに、今の俺にとってはアンジェが一番大切だから、これでいいのかもしれないな」
「ちゃんと、抱っこのじかんも、つくってね?
でも、おしごとも、ちゃんと!」
俺の腕の中で微笑むアンジェはとっても幸せそうで。
その笑顔を見ている俺も幸せな気持ちだった。




