27.知ってるけど、知らない
そうして歩く練習と食事の練習、ピアノの練習を毎日繰り返しているアンジェ。
俺の休みはそう多くはないから、一度教えたことを次の休みまでに繰り返し練習してもらうことになった。
夜はなるべく早く帰ってきて一緒に練習出来るようにしているし。
「あしたは、おやすみ、だよね?」
食事が終わって、ソファにふたり並んで座ってのんびりしていると、アンジェがウキウキ顔で俺の方に身を乗り出してきた。
その姿ははまるで小動物のようで可愛らしい。
「そうだよ。何して遊ぼうか」
「セトスさまが、いてくれるなら、なんでも、いいよ?」
こてん、と首を傾げるのも可愛いなぁ。
「何するかは考えておくから、明日のお楽しみな」
「ええー、おしえて、くれないの〜?!」
「何するのかな、って考えてたほうが、楽しい時間が長くなるから」
「そっか! あしたまで、ずっと、たのしいから!」
すぐに思い付かなくて適当に言ったけど、ハードル上げすぎたかな……
「たのしみに、してるね!」
この笑顔に見合う何かを、考えないとな。
翌日。
この時期にしては寒く、外は風が強い。
「うーん、外に行こうかと思ってたけどちょっと無理かな」
俺がそう言うと、アンジェはひどく残念そうだった。
「そと、すきなのに。行けないの?」
「寒すぎて風邪ひくよ。家の中で大人しくしていような」
外に出れないなら、教養も兼ねて詩でも読んで見ようかな。アンジェの語彙はかなり少ないから、ちょうどいいだろう。
「アンジェ、詩って読んだことある?」
「し? どんなの?」
「物語じゃなくて、短いやつ、かな?」
「わかんない」
「じゃあ読んでみようか。時期的にはこの辺かな」
適当に取り出した詩集の目次を眺めてそれらしいものを選ぶ。
ゆっくりと読み始めると、俺の好きなふうわりとした笑顔で聞いてくれていた。
俺の声に耳を傾けていたアンジェが、急に顔を上げた。
「どうした?」
「んー、こがらし、って何かな、って」
「冬に吹く風のことでめちゃくちゃ冷たい」
「かぜのしゅるい、ね。わかった」
「というか、たぶん今吹いてるよ」
「へぇえ、ふゆの、きせつ?」
「そうだな、冬だけだ。
うーん、気になるならちょっと外出るか?寒いけど」
「いいの!?」
途端に目をキラキラさせるアンジェ。
やっぱり外好きだなぁ……
「寒いからちゃんと着込んで行こうな」
キラッキラの笑顔でコクコク頷くのが可愛い。
ふわふわした毛糸のセーターと暖かいコートと厚手のブランケットで包まれたアンジェは、気の早い雪だるまみたいになってしまっている。
「大丈夫か?寒くない?」
「さむくは、ない。ちょっと、あつい」
「まぁ、今は暑いかもな。外は寒いからそれくらいでいいだろう」
自分も軽くコートを羽織って車椅子を押す。
前にアンジェと外に出た時は、木にほんの少し葉っぱが残っていたけれどそれももう落ちてしまっている。
こんな些細な変化すら、俺がちゃんと言ってあげないとアンジェは絶対気付けない。
軽く雑談としてそんな周りの様子を教えてあげるだけで、アンジェは興味津々だった。
「やっぱり、そとは、たのしいな。
しらないこと、いっぱいだから」
ふうわりと笑うアンジェは、全身で喜びを表しているようだった。
「わたし、しらないこと、いっぱい。
あのね、ふゆ、ってこと、しってると、思ってたの。
でもね、ほんとは、しらなかった」
ベンチの隣に車椅子を停めて、隣同士になるように座る。
「ふゆ、ってさむいきせつのこと。
知ってたけど、こういうのだってことはわかんなかったから」
「どういうこと?」
「かぜが、ピーッてふいてることとか、ほっぺがいたいとか」
頬を暖めるように手を当てて。
「こうやってね、手をあてるだけで、あったかい」
ふふふ、と楽しそうに笑う。
アンジェは、言葉を意味としてだけ認識してる。
説明は出来るけど現実にどういうものなのか分かっていないことも多いんだってことに初めて気づいた。
「よかった、喜んで貰えて。
冬って言葉だけで表現するけど、まだ実際は冬の始めくらいだからね。これからどんどん変わって行くよ」
「かわるの?」
「毎日変わる。まだ秋が残ってるけど、雪が降ったり、ミゾレが降ったりするし、もっと春に近づいたらまた違う感じになるから」
「そうなんだ。ねぇ、セトスさま。
またそとにつれてきてね?」
「もちろんだよ」
アンジェには、圧倒的に経験が不足してる。
ただでさえ、物事を感じることにハンデがあるのに、これまでに培うはずだった経験が丸ごと存在しない。
でも、そんな彼女だからこそあんなに無邪気に笑ってくれて、些細なことに感動してくれる。
俺とは違う感じ方で、彼女の世界を築いて欲しい。
そして、その世界を俺に少しでも教えてくれたら、俺の世界も広がるんじゃないだろうか。




