獣狩り 十一 ~ 月影
小屋の中はむっとする獣除けの香の香りが漂っていた。刻一刻と時間が流れていく中で、小屋に閉じ込められた村人たちは浮足立って、救いを求めるように祈りを捧げている。しかし、グラウバー女史とベリャーエフの双子は相変わらず、落ち着き払った態度で村人たちを見下ろしていた。
熱気と湿気に包まれて、僕は額の汗を拭った。バルトリーニ氏はなかなか戻ってこない。
「遅いようだな」
外の様子が分からず、先生も苛立ち始めている。待てば待つだけ、グラウバー女史たちの思う壺なのではないかと感じて、僕は不安になった。
その時、またしても獣の遠吠えが響き渡った。恐怖が噴出する。村人たちは震え上がり、暑さも忘れて身を寄せ合っている。アデラインはどうにか身を隠そうとするように、頭を抱えて床に伏した。直後、乱暴に小屋の扉が叩かれた。
「開けてくれ!」
バルトリーニ氏の声だ。先生は急いで立ち上がると扉を開いた。
「何か見つけましたか?」
「大変な……ことになった……!」
バルトリーニは言葉を選ぶように息を整えた。バルトリーニ氏にとって、村人たちの前で話すことが憚られることが起こったようだ。予断を許さない状況だった。先生は事情を察して僕を呼んだ。
「とにかく、まず様子を見に行こう。カミル君、ついてき給え。卯月君はここにいて、全員がいることを確かめておいてくれ」
「わかった」
バルトリーニ氏に従って、僕と先生は小屋の外に出た。鬱蒼とした密林は地獄の入り口のように見えた。バルトリーニ氏が木の幹に付けてきたという目印を追って、僕たちは密林を進んでいった。
「何が起きたのですか」
「また獣に襲われた」
「……」
切り裂かれた茂みを抜けると、そこにはまたして血飛沫の跡があった。近くの樹木の幹には爪痕も残されている。そして、草むらの中で血溜まりの中に倒れている人影があった。アリアンナだった。首筋にはぱっくりと斬られた傷が見える。間違いなく死んでいる。
「これは」
先生はアリアンナの屍体に近寄った。周囲には血の匂いを打ち消すように、先生が彼女に渡した香水の濃厚な香りが漂っている。
「身体が解体されていない」
確かに、先生の言う通り、首の傷を除けば、屍体は人間の原型を留めていた。
「それがどうしたというんだ」
「やはり、獣ではなく、人間の仕業だということです」
「どういうことだ」
バルトリーニ氏は不安気な表情で先生と屍体を交互に見据えた。
「犯人は彼女が香水を付けていることに気付いた。屍体を解体すれば自分にも香水の香りが移ってしまう。だから、身体を解体せずに放置したのですよ」
「それは……」
「明らかに知性を持った生き物が彼女を襲った。それは人間しかあり得ない。獣の呪いなど、ありはしないということです」
「そうか……。そうなのだろうな」
バルトリーニは観念したように肩を落として呟いた。だが、すぐに気を取り直したように口を開いた。
「しかし、実は奇妙なことがまだある」
「というと?」
「私は見た。ベリャーエフの……どちらかは分からないが……一人が密林にいるのを、この目で確かに見た。犯人はきっとベリャーエフだ」
「しかし、私の助手が小屋にいて彼らを見張っているはずです」
「確かに見たんだ。アリアンナの屍体から遠ざかるように逃げていったんだ」
バルトリーニ氏の言葉に、先生は眉をひそめた。信じ難いことだが、しかし、これで犯人ははっきりしたはずだった。アリアンナの屍体を回収して、僕たちは一目散に小屋へと戻った。ベリャーエフが小屋を脱出していたとすれば、今度こそ間違いなく彼女が犯人だ。
僕たちが小屋に戻ると、出ていった時と同じ人々が小屋で待っていた。卯月もグラウバー女史もベリャーエフの双子も、そしてアデラインも、待ちかねたという表情で僕たちを迎えた。
「どうでしたか?」
グラウバー女史が穏やかに尋ねた。既に結果は分かっているとでも言いたげに思えた。
「アリアンナが殺された」
先生の言葉に村人たちは恐れ慄いた。
「しかし、獣の仕業ではない。どこかに犯人がいる」
「その証拠はあるのですか?」
グラウバー女史が冷たい視線を先生に向ける。
「アリアンナの身体はこれまでのようには引き裂かれていなかった。獣の所業とは明らかに異なる」
「あら……」
グラウバー女史にとって、その事実は意外なものだったようだ。一瞬、その眼が見開かれたことを、僕は見逃さなかった。
「卯月君。ここにいた者たちは間違いなく、小屋から出ていないのかね」
先生が卯月に向き直った。
「間違いない。誰も出てない」
「そうか」
先生は渋い顔になった。卯月がきちんと見張りをしていたのであれば、外にいたのはアリアンナとバルトリーニ氏だけということになる。バルトリーニ氏が見たというベリャーエフは見間違いか、バルトリーニ氏の嘘なのではないか。
先生も同じ考えに至ったようで、バルトリーニ氏に疑いの眼を向けている。バルトリーニ氏はようやく疑いの眼に気付いたようで、狼狽えて目を逸らした。だが、自分が犯人だとすぐにバレるようなタイミングで犯行に及ぶ人が果たしているだろうか。
「わ、私は違う。頼む、信じてくれ」
バルトリーニ氏は先程の殺人については明確にせず、ただ否定するばかりだった。証拠が無い以上、バルトリーニ氏を犯人に仕立て上げるための陰謀という線も捨てきれなかった。
村人たちは獣の呪いが本当か否か、未だ混乱の中にあるようだった。グラウバー女史は今夜の獣の呪いは既に下されたと宣言し、村人たちに家に戻るように指示した。村人たちは怖ず怖ずとしながらも、それぞれの家へと向かっていった。
「そんな簡単に獣だの呪いだのが、出たり隠れたりするわけがないだろう」
先生は憤慨するように眉を寄せ、小屋を出た。自分たちが見てきたものが人為的な結果によることは明らかだったが、迷信深い村人たちを説得するまでには至らなかった。それほどまでに獣の幻影は強力なのだ。その状況こそがまさに呪いと呼べるのかも知れない。
結局、その夜は誰が犯人なのか断言できず、僕たちは宿へと戻った。
「バルトリーニ氏がローランの村にやってきたのは獣が出始めた後だ。やはり、彼が犯人だとは思えない。ただ、後から本当の犯人に協力し始めたのかも知れない」
「一体、何のためでしょうか?」
僕が尋ねると、先生は長く唸った。
「獣……その秘密を知っている者が、秘密を明かすと約束したとか、だろうか」
「獣はいないと先生は仰っていたじゃないですか」
「だから、本当は秘密など無い。ただの餌だ」
獣の秘密なんて、そんなもので踊らされる人がいるのだろうか。しかし、あれだけ獣に執着しているバルトリーニ氏であれば、それもあり得るのではないか。僕たちは悩みながら眠りについた。
***
明くる日、先生の考えで、僕たちは集会の舞台となっている小屋を訪れることにした。ベリャーエフが卯月の目を盗んで小屋から離れたのではないかと、先生は疑っていた。秘密の隠し通路があったとして、狭い小屋でどうやって卯月の監視から逃れたのかという疑問もあったが、ひとまず小屋を調べる意味はあるだろう。
「こんなところにまで水を引いている意味はあるのだろうか」
先生は石畳で舗装された小屋の傍にある水路を指差した。グラウバー女史がパフォーマンスのために水を使っていることは明白だったが、それ以外の理由は思い当たらなかった。しかし、小屋の周りをぐるりと回ってみると、僕は奇妙な違和感を感じた。
「なんだか変ですね」
「何かあったかね」
「いや、出入り口の位置が変わっているような気がするんです」
一昨日、初めて小屋を訪れた時、出入り口は石畳を挟む二つの水路に対して水平方向にあった。しかし、今ではそれがずれているような気がしたのだ。
「言われてみると、そんな気もする」
先生は首を傾げた。小屋が回転でもしない限り、このようなことは起こりえない。小屋の土台をよく調べると、石畳の一部に凹みがあった。
「もしかして……」
僕は土台の凹みを辿って、舗装された水路を調べ始めた。凹みはまるで下水のように、小屋の土台から水路のすぐ近くまで続いている。そして、その部分だけが、まるで水が流れたように濡れていた。ここ数日は雨が降っていないから、他の原因で水に濡れたと考えられる。
「単なる凹みではないようだな」
「水路からここに水を流して、小屋の下に水を貯めたんじゃないでしょうか」
「フムン。しかし、何のために」
「小屋を動かしやすくするためです」
僕は水路の脇にある石をずらした。水が水路から、小屋の土台に繋がる凹みの部分へと流れ始める。水が貯まり切って溢れ出さないように、もう一方の凹みのほうも水路へ繋げる。見る見るうちに小屋の土台部分は水に浸かった。
「これで準備できました」
「小屋を動かすのか」
「そうです。先生も、卯月も手伝ってください」
「力仕事は専門外なのだが」
先生は嫌々ながらも小屋の縁に手をかけた。卯月も小屋の壁に手を伸ばす。僕も反対側に回って小屋に腕を押し付けた。今は小屋の中に人がいない分、重量はそこまで重くないはずだ。
「せーの!」
掛け声に合わせて、一斉に力を込める。水に浮いた状態の小屋は、わずかではあるが揺れ動いた。
「ダメだ。これ以上は動かせない」
先生はすぐに音を上げて、三角帽を取って自分を扇いだ。暑苦しいのは事実だが、この程度で諦められると困る。とはいえ、小屋が動いたのもまた事実だった。この方法で小屋の向きを変えれば、グラウバー女史のトリックが一つ解けることになる。
「それで、小屋を回すと何ができるのかね」
「月を消すことができます」
僕は大真面目だったが、先生は思わずと言った調子で吹き出した。
「そういえば、そんな事もあったな。窓の外に出ていた月が、消えてしまったとか」
「先生、やっぱりあの時、ちゃんと見ていなかったんじゃないですか」
「小屋の中は気分が悪くなるくらい獣除けの香が焚かれていて、あまり集中できていなかったからな。仕方ない」
恐らく、香を焚いていたのも計算の内だろう。あえて小屋の中にいる人々の気分を悪くさせて、小屋が動いていることを感づかれないようにしていたのだ。
「それでは月が消えていなかったと」
「皆様は確認したのですか?」
聞き覚えのある声の先には、ベリャーエフの双子がいた。まるで監視するかのように、村のどこにいても彼女たちは僕たちの前に現れる。
「では、もう一度、月を消してみるがいい。今度こそ確認しよう」
「月を消すことができるのはグラウバー様だけ」
「私たちがそれを決めることはできません」
先生の挑発的な言葉にも、ベリャーエフの双子は眉一つ動かさずに答えた。
「それにグラウバー様の予知が」
「嘘だということにはなりません」
それだけ言うと、ベリャーエフの双子は去っていった。たとえこれまでの仕掛けが看破されたとしても、彼女たちがグラウバー女史に従うことを止める気配はなかった。
「これは連中のパフォーマンス以外にも、もう少し、きちんと調べないとならないな」
先生は暑気を払い終えると、三角帽を被り直した。




